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王妃一行は、城の喧騒から少し離れた石造りの建物へと案内された。
外観は驚くほど質素だった。
尖塔も黄金の装飾もなく、灰色の切石を積み上げた重厚な建物である。窓は小さく、高価な彩色ガラスではなく透明なガラスがはめられ、簡素な木製の扉が据えられていた。
しかし、その扉が開かれた瞬間、王妃も王命監察官も、一瞬息を飲んだ。
室内は決して豪奢ではない。
地元の木で作られた頑丈な机と椅子、壁を覆うのは飾り気のない厚手の羊毛布だけ。金銀の装飾品も、高価な織物も見当たらない。
それでも、この部屋には他にはない心地よさがあった。
床下からほのかな温もりが伝わり、長旅で疲れた身体をゆっくりと包み込む。
地下では温かな鉱泉が絶え間なく湧き出し、石造りの貯水槽へと静かに満ちている。その熱が厚い石床を通して室内へ伝わり、暖炉の火とは異なる柔らかな暖かさを生み出していた。
石壁のどこからともなく、かすかな温泉特有の香りが漂う。
その匂いを包み込むように、乾燥させたラベンダーやミントの香が焚かれ、薬草の穏やかな香りが室内を満たしていた。
耳を澄ませば、壁の向こうから温泉が流れる小さな水音だけが聞こえる。
騒がしい楽師の演奏も、宴を盛り上げる喧噪もない。
ただ静寂だけが、この空間を支配していた。
第三王子は王妃へ向き直り、静かに一礼した。
「本日の晩餐会は、王妃陛下のご体調を第一に考え、ご用意させていただきました。長旅のお疲れを少しでも癒やしていただければ幸いに存じます」
王命監察官は室内を静かに見回した。
「……しかし、レオンハルト殿」
低く落ち着いた声が響く。
「大国王妃を迎える席としては、あまりにも質素ではありませんか。冷害とはいえ、これでは我が国への敬意を欠いていると受け取る者もおりましょう」
部屋の空気がわずかに張り詰める。
第三王子は表情を変えなかった。
「ごもっともなお言葉です。ですが、王妃陛下はご療養のためにお越しくださいました。豪奢な装飾や賑やかな宴は、私が果たすべき務めではないと考えました」
王命監察官を見てから、静かに続ける。
「冷害の折に贅を尽くせば、領民は苦しみ、教会の教えにも背きます。ゆえに、華美は慎み、代わりに温泉と薬草、そして静かな休息をお贈りしております」
第三王子は、王妃に視線を向けた。
「敬意とは金銀で示すものではなく、相手が最も必要とするものを整えることだと、私は考えております」
王妃は室内をゆっくりと見渡した。
そして、穏やかに目を細める。
「……実に良い心遣いです。療養とは本来、このように心身を静めるものでしょう。華美な宴よりも、はるかに私の望みにかなっています」
その言葉に、王命監察官も静かに頷いた。
「……なるほど。形式ではなく実を重んじる、と。冷害の折にもかかわらず贅を競うのではなく、信仰と節度を守りながら客をもてなす……。まことに慎み深いお考えです」
部屋には再び静寂が戻る。
聞こえるのは、地下から響く温泉のせせらぎだけだった。
司教が静かに立ち上がる。
胸の前で十字を切り、低く澄んだ声で古典語の祈りを捧げ始めた。
王妃は静かに頭を垂れ、その言葉に耳を傾ける。
冷害という神の試練の中でも日々の糧を授けられたことへの感謝。
この地までの無事に旅を終えられたことへの感謝。
そして、建設中の大聖堂が神の栄光を現すものとなるようにとの祈り。
飾り立てた言葉ではない。
慎み深く、それでいて揺るぎない信仰が感じられる祈りだった。
司教の祈りの声に続き、第三王子も静かに唱和する。
全員が席へ着くと、第三王子は王妃へ向き直った。
「王妃陛下、長旅のお疲れを少しでも癒やしていただけるよう、この温泉の熱と、この地で育てた薬草を用いたもてなしをご用意いたしました」
続いて王命監察官にも労いの言葉を述べる。
誰か一人だけを立てるのではなく、この場にいる全員へ礼を尽くす。
その姿に王妃は少し微笑んだ。
やがて運ばれてきた料理もまた実に慎ましかった。
温泉で蒸した根菜、薬草の滋養スープ、温められた薄い薬草入り葡萄酒。
そして王妃の前にだけ置かれた、小さな白い小麦パンと白塩。
冷害の今、それがどれほどの価値を持つかは誰もが理解している。
贅沢を見せびらかすこともなく、それでいて客への敬意だけは決して欠かさない。
教会にも、王命監察官にも、領民にも非難されない絶妙な均衡。
……よく考えられていますね。
王妃は表情を変えぬまま、静かにレオンハルトを見つめた。
……娘の夫としては、まず十分に務めを果たしています。
心の中でそう評価すると、王妃は誰にも気づかれぬよう、ほんのわずかに目を細めた。
最初の料理が運ばれ、一口、二口と静かな時間が流れた。
ようやく場が和らぎ始めた、その時だった。
王命監察官が杯を置き、第三王子へ視線を向ける。
「レオンハルト殿。我が国が送り届けた阿片は、十分に活かされていますか」
部屋の空気が、わずかに張り詰める。
「我が国でも、この冷害で民は凍え、痛みに苦しんでいます。国王陛下がお求めなのは、より少ない原料で、より多くの民を救う精製技術です。この地の工房は、我らの期待に応える成果を出していますか」
……宴の席で申すことではありませんね。
王妃は内心でそう思った。
歓迎の宴でありながら、その実、査察はすでに始まっている。
いかにも王命監察官らしい問いだった。
「はい。工房では精製工程を改良し、以前より少ない原料で同等以上の薬効を得られるようになっております」
第三王子は少しも動じない。
「もっとも、その技術を維持するため、工房では工程ごとに役割を分け、互いに全容を知らぬ体制を取っております」
その口調は終始穏やかだった。
「製造に携わる者は、教会の誓願を立てた修道士のみです。身元の確かな者だけを選び、戒律のもとで職務に当たっていただいております」
司教が静かに頷く。
「また、一人が製法のすべてを知ることはありません。それぞれが定められた工程のみを担当しておりますので、品質を保ちながら、技術が外へ漏れることも防げます」
答えに一切の淀みはない。
あらかじめ用意した弁明ではなく、工房の仕組みを熟知している者だけが語れる説明だった。
監察官はしばらく第三王子を見つめていた。
やがて、その口元がわずかに緩む。
「ほう……技術だけでなく、それを守る仕組みまで整えているというわけですか」
静かな笑みだった。
……あの男が、笑った?
王妃は思わず目を細める。
赴任してからというもの、監察官が表情を崩す姿など、一度として見たことがなかった。
その小さな変化だけで十分だった。
少なくとも、この答えは監察官の期待に応えるものであったのだと、王妃は静かに悟った。




