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阿片研究の対象とされた諜報員は、治療段階へと移されていた。
拘束具は外されていたが、牢屋から逃げ出そうとはしない。いや、出来ない。
全身を襲う震え、焼け付くような喉の渇き、骨の髄まで軋むような痛み。
阿片を求める身体が悲鳴を上げ、理性を押し流そうとする。
それでも男は歯を食いしばり、一歩も退かなかった。
監視用の窓から研究者たちが、一挙手一投足を見逃すまいと記録を続けている。
「呼吸、安定し始めました」
「発汗は多いですが、想定範囲内です」
「……素晴らしい」
年長の研究者が感嘆の息を漏らした。
「この被験者の精神力は、並ではありません」
「普通なら、ここまで持ちこたえられませんね」
「おそらく、長年にわたり極限の訓練を受けてきたのでしょう」
「しかし、だからこそ貴重な結果です。ここまで耐え抜ける症例は、研究資料としても極めて価値があります」
研究者達には緊張と興奮が入り混じった空気が満ちていた。
誰もが固唾をのんで、その男の回復を見守る。
やがて数日が過ぎる。
震えは少しずつ収まり、濁っていた瞳にも光が戻り始めた。
さらに数週間。
男は自ら歩き、自ら食事を取り、自ら考えられるまでに回復していた。
診察を終えた研究者は満足そうに頷く。
「完全回復と判断します」
「治療法としても十分な成果が確認できました」
しかし、その場にいた男だけは違った。
男は、自分の身体から阿片への渇望が消えていることを理解していた。
二度とあの地獄へ戻りたくない。あの苦しみは、生涯忘れることはないだろう。
そして同時に悟る。
ここは、阿片の恐ろしさを誰よりも知り尽くし、その依存すら克服させる方法を確立してしまった存在なのだと。
敵に回せば恐ろしい。
だが味方であれば、これほど頼れるのもいない。
能力を正しく評価され、生きる価値を認められたという恩義もまた、確かに胸の内に刻まれていた。
だが、意識が明瞭になるにつれ、任務失敗の現実も重くのしかかってきた。
皇国はいま、どうなっているのか。家族は無事なのか。
……いや、そんなはずはない。
報告が途絶えてから、あまりにも長い。処罰は、すでに下されているだろう。
治療を終えた自分も、もはや用済みだ。次に責任者が姿を現す時、それは自分の最期を告げる時なのだと、男は静かに覚悟していた。
一方、捕らえられた他の諜報員たちは、牢の奥で、その一部始終を遠巻きに見つめていた。
「……本当に治ったのか」
「あれから戻ってこられる者がいるなんて……」
誰もが言葉を失う。
彼らの胸に刻まれたのは、人の心さえ変えてしまう薬への畏怖だった。
牢の扉が静かに開いた。
現れたのは、第三王子だった。
研究を統括する、ここでの最高責任者。ついにその時が来た。男は静かに息を整える。覚悟は、とうにできていた。
護衛を従えているが、その表情には敵意も怒りもない。
男もまた、仲間たちとともに静かに立ち上がった。
「さて」
第三王子は穏やかな口調で言う。
「私から提案がある。このまま阿片研究の実験対象者となるか、それとも私の部下となるか。好きな方を選ぶといい」
一同は固まった。
あまりにも唐突だった。
しばらく沈黙が続いたあと、一人が低く尋ねる。
「……我々を、生かすつもりなのですか」
「もちろんだ。優秀な人材は貴重だからな。使い捨てる理由がない」
その言葉に、誰も信じられないという顔をする。
仲間の一人が口を開いた。
「……ですが、祖国がそんなことを許すはずがありません」
任務の失敗は死。それも本人だけでは終わらない。家族まで連座する。
それは、この場の誰もが知る現実だった。
第三王子は静かに頷き、続けた。
「そうそう。知らせておこう。皇国では、すでに皇は第二皇子となった」
その一言で、牢の空気が凍りつく。
全員の顔色が変わった。
任務は失敗した、それだけではなく、政変まで起きたのだ。
誰一人として口を開かなかった。
第三王子はその様子を眺め、静かに言葉を重ねる。
「今、皇国で第二位の権力を持つのは、我が姉だ」
諜報員たちは息を呑む。
「つまり、君たちの家族を守ることは容易い」
誰かが思わず顔を上げた。
「……どういう意味ですか」
「そのままの意味だ」
第三王子は穏やかに答える。
「国家反逆に失敗した諜報員。その家族がどうなるか、君たちの方が詳しいだろう」
誰も否定できない。
国によって違いはあれど、反逆者の一族は財産を没収され、連座によって処刑や奴隷落ちになることさえ珍しくない。
子どもも、妻も、老人も例外ではない。
「だが、教会の裁きは違う」
第三王子は静かに続ける。
「教会は血を好まない。目的は罪人を殺すことではなく、悔い改めさせることだ。罪は本人が負うもの。関わっていない家族まで同じ罪に問うことは、本来の教義に反する」
諜報員たちは目を見開いた。
「もちろん、財産は失うだろう。修道院に預けられる者もいるかもしれない。豊かな暮らしは戻らない。だが、生きられる。私は、それができる立場にいる」
第三王子は一人一人の顔を見渡した。
「君たちが私の部下となるなら、家族は教会の保護下へ移そう。世俗の法が一族を巻き込む前に、私が手を回す」
その表情に焦りも、打算もない。ただ事実だけを告げている。
「逆に断るなら、研究は続く。阿片研究も、人体実験も、まだ知りたいことは山ほどある」
静かな口調だった。
だからこそ、その言葉は脅しではなく、事実として胸に突き刺さる。
長い沈黙が流れた。
あまりにも現実離れした申し出だった。一瞬、自分はまだ阿片の幻を見ているのではないかとさえ思う。
だが違う。意識は冴え渡り、これは紛れもない現実だった。
男の脳裏に浮かんだのは、故郷に残してきた家族の顔だった。
おそらく、ここにいる誰もが同じだっただろう。
幼い子ども、妻、年老いた両親。
自分は覚悟していた。
だが、あの者たちまで巻き込むわけにはいかない。
その場にいた諜報員たちは、それぞれ異なる思いを抱いていた。
まだ疑念を拭えない者もいる。
あまりにも都合の良い話だ。敵である自分たちを生かし、家族まで守るなど、裏があると考えるのが普通だった。
しかし、古参の諜報員だけは静かに第三王子を見ていた。
彼は気付いていた。
第三王子は、一度も「必ず助ける」などという甘い約束をしていない。
口にしたのは、自分が実行できることだけだった。
「……少なくとも、虚言で我々を操ろうとしているわけではない」
彼らはまだ第三王子を信じたわけではない。
しかし、諜報員としての経験が告げていた。
やがて、一人の諜報員がゆっくりと膝をついた。
「……選択肢は、ひとつしかありません」
その言葉に、他の男も膝をつく。
さらにもう一人。
やがて全員が頭を垂れた。
「我らを、お使いください。」
第三王子は満足そうに頷いた。
「歓迎しよう」
諜報員たちは、静かに第三王子を見上げた。
戦乱も、病も、飢えも、人の命を容易く奪う。
それでも、家族は生きられる。
自分たちも生きられる。
生きている限り、再び会える日が訪れるかもしれない。
その、わずかな希望だけは確かに与えられた。
本当に人を欺く者ほど、できもしない未来を語る。
だが、この男は違う。
口にするのは、己が成し遂げられることだけだった。
だからこそ、その言葉には何より重みがあった。
彼らは深く頭を垂れる。
それは敗者の降伏ではない。
家族へ繋がる、たった一本の細い希望へ託す者たちの、心からの忠誠だった。
その後、捕らえられた諜報員たちは、公には獄中で命を落としたこととされた。 皇国にもその報せが流れ、任務は失敗し、関係者は全員死亡したものとして処理される。
彼らは歴史から姿を消した。
だがその裏で、皇国が誇った精鋭諜報員たちは、第三王子の新たな配下として密かに生き続けることになる。
こうして、この一件は表向きには完全に幕を閉じた。




