198
第三王子がエリシア王女と正式に婚姻を結んだという知らせが、第一王子のもとにも届いた。
第一王子は、寝台へ深く身を沈める。
まだ身体は本調子ではない。
だが、胸に去来したのは痛みではなく、城に戻った翌日、弟の第三王子が訪ねてきた時のことだった。
扉が静かに開く。
侍従が第一王子に声を掛けようとしたが、第三王子は小さく首を振った。
「そのままで、良いですよ」
穏やかな声だった。
第一王子は枕からわずかに顔を上げる。
「相談出来ませんでしたが、エリシア王女と婚姻を結んだ事を報告しにきました」
その言葉に、一瞬だけ息を呑む。
婚姻、それも隣国の王女。
本来なら、王家の命運を左右する重大事だった。
第一王子は、しばらく第三王子を見つめる。
そして、掠れた声で問い掛けた。
「……では、王位を望むのか」
弟ほどの功績があれば、誰も止められない。
自分は幽閉され、父王も権力を奪われていた。
もし弟がその気なら、誰一人として異を唱えられなかっただろう。だが、返ってきた答えは、あまりにも静かだった。
「……いいえ」
迷いのない一言だった。
第三王子は、ゆっくりと言葉を続ける。
「私が望むのは、静かな領地経営だけです。温泉療養地を育て、医学を発展させる。それが私の役目です」
少し、言葉が途切れる。
「そして……エリシア王女と穏やかに暮らせれば、それで十分です」
第一王子は目を閉じた。
目の前の弟は、王冠ではなく、人の命を救う道を選んでいる。
それでも、その力は王冠を軽く上回ってしまっていた。
諸侯が放っておくはずがない。
第一王子はゆっくりと息を吐く。
「……ならば、お前の婚姻、私は認める」
第三王子が顔を上げる。
「温泉療養地も、お前の領地も、誰にも触れさせん」
弟は静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
やがて第三王子は一礼し、病室を後にする。
扉が静かに閉まる。
一人になった第一王子は、天井を見上げ、小さく苦笑した。
「守る、とは約束したが……」
かすかな笑みは、すぐに苦いものへと変わる。
「かなり厳しいだろうな……」
そんな第一王子の元に、国王が見舞いに訪れた。
部屋へ入ってきた国王は、以前よりも幾分やつれて見えた。
反乱の後始末、冷害への対応、そして、王国の立て直し。そのすべてが、一人の王の肩へとのしかかっていた。
「調子はどうだ……?」
「順調です」
第一王子が答えると、国王は安堵したように小さく頷いた。しかし、その表情は晴れない。
しばらく沈黙が続いた後、国王は静かに口を開いた。
「……少しだけ、聞いて欲しい」
第一王子は黙って頷く。
国王は窓の外へ目を向けた。
「レオンハルトは、この国を救ってくれた。反乱を鎮めただけではない、冷害を乗り越える仕組みまで残していった」
国王は一度言葉を切り、深く息を吐く。
「私は……あの事件で、一人の息子を裁いた。王である以上、逃れることのできぬ裁きだった」
その声には、父としての痛みが滲んでいた。
「二度と、兄弟が剣を交えるような国にしてはならん。そして、二度と父が我が子を裁くような悲劇を繰り返してはならん」
国王は静かに続ける。
「だからこそ、レオンハルトが残したものは、何としても守らねばならない」
国王は遠い目をした。
「隣国の王女との婚姻も、その一つだ。あの婚姻がなければ、疲弊した我が国は、いつ隣国に攻め込まれてもおかしくなかった」
第一王子は静かに耳を傾ける。
国王はゆっくりと第一王子へ向き直った。
「お前が王となる日が来ても、必ず守り続けてくれ」
国王は静かに息を吸う。
「私は王として、それを守り抜く。これは、私自身の誓いだ。覚えておいて欲しい」
その言葉は、誰かに聞かせるためではなかった。
自ら口にすることで、その誓いから決して逃げないためのもの。
第一王子には、その姿が、自らを縛りつける鎖を自らの手で掛けたように見えた。
そして、国王は何も言わず、一束の書類を差し出した。
「レオンハルトからの指示書類だ」
第一王子は書類を受け取り、目を通し始めた。
最初に書かれていたのは、王国中の備蓄量と人口の徹底調査だった。
各領地の食料を棚卸しし、収穫まで何日持つのかを計算すること。さらに、定期報告を義務づけ、被害の大きい地域へ優先的に食料を送る。
「……ここまで把握するのか」
次の頁には、宮廷行事や不要な軍事行動をすべて凍結し、その費用を飢饉対策へ回す案。
被害の少ない領地には特別災害税を課し、拒む諸侯には王軍を背景に従わせること。
さらに、炊き出しを報酬として働ける者を公共事業へ従事させ、道路や水路、城壁を整備する計画。
そして、寒さに強い作物の試験栽培と、各地の被害を数字で管理する報告制度まで記されていた。
第一王子は最後の頁を閉じる。
「これは……」
言葉が続かなかった。
国王は疲れ切ったように椅子へ腰を下ろす。
「……やるしか、ないのだろう」
その声には、王としての覚悟よりも、膨大な実務を前にした疲労が滲んでいた。
第一王子は書類の束を見つめる。
どれ一つとして、一度命じれば終わる仕事ではない。
状況に応じて、毎日のように判断を重ね続けなければならない。
第一王子は苦笑にも似た息を漏らした。
「……幽閉されていた頃の方が、まだ気楽だったのではありませんか」
国王は小さく肩を落とす。
「……私も、そう思わんでもない」
第一王子は、わずかに笑ったが、すぐにその表情を消し、書類へ視線を落とす。
「いえ。レオンハルトは、父上ならできると信じて渡したのでしょう」
国王は苦笑しながら、書類をめくった。そして、一枚を持ち上げる。
「だが、見てみろ。定期報告は早馬で送るよう書いてあるのだ」
第一王子も、書類を見る。
「……きっと、心配しているのでしょう」
国王は苦く笑った。
「……本当に、それだけだと思うか?」
第一王子は沈黙した。
国王は、書類へ目を落としたまま続ける。
「自分が失敗したから、その後始末を押しつけられたのではないか。冷害への対応を誤った王に、今度こそ何とかしろと……」
第一王子は、ゆっくりと視線を逸らした。
否定できなかった。
「……深読みでしょう」
第一王子は、静かに言った。
国王は、疲れたように笑った。
「……そうであってほしいものだな」




