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小国の国王のもとへ、一通の正式な国書が届けられた。
そこには、第三王子レオンハルトとエリシア王女が、正式に婚姻を結んだことが記されていた。
国王は静かに文書を閉じる。
「……そうか」
短く呟くと、自然とあの日のことが脳裏によみがえった。
王位簒奪事件が終結し、論功行賞を決めるために開かれた御前会議。
重臣たちは口々に、第三王子へ与えるべき恩賞を述べていた。
北の辺境の領地、公爵位、軍権、王位継承順位の見直し。
どれも、この国を救った功績に見合うものばかりだった。
しかし、当の本人は静かに口を開いた。
「実は、軍を進めるにあたって、エリシア王女と婚姻を結びました。大国の後ろ盾が必要でした」
その一言に、玉座の間の空気が凍り付いた。
国王は思わず身を乗り出す。
「……いくら相談できる状態ではなかったとしても……」
父としての言葉だった。
婚姻とは、王族にとって国家そのものだ。
本来なら国王の許可なく決められることではない。
レオンハルトは責められることを承知で、静かに頭を下げた。
「承知しております」
その声には言い訳も、弁明もなかった。
しばし沈黙が流れる。
やがて彼は、穏やかな口調のまま続けた。
「その代わり、私への報奨は、婚姻への正式なご許可だけで構いません」
重臣たちが息をのむ。
誰もが耳を疑った。
領地も、爵位も、軍権も、財も、何一つ望まない。
ただ、父である国王が、この婚姻を正式に認めてくれることだけを願う。
その願いは、恩賞を辞退するという意味ではない。
この婚姻を王家公認とすることで、両国の同盟を確かなものとし、王家の威厳も守る。
すべてを手に入れられる立場でありながら、最後の決裁だけは父に委ねる。
それは、王としての面目を残すための、息子なりの最大限の配慮だった。
国王はしばらく何も言えなかった。
この場で最も大きな恩を施しているのは、目の前の息子だった。
それでもなお、自分を立てようとしている。
その意味を理解した瞬間、胸の奥が熱く締め付けられた。
長い沈黙の末、国王はゆっくりと顔を上げる。
「……よく、決断してくれた」
ようやく、それだけを口にした。
第三王子は知らなかった。
その後、諸侯たちが城の一室や廊下の片隅、あるいは狩猟の帰路で、幾度となくその名を口にしていたことを。
「今回の一件で、この国を救ったのは誰か」
「反乱を鎮め、教会を味方につけ、隣国との同盟まで結んだ」
「しかも、恩賞は婚姻の承認だけでよいと言ったそうだ」
感嘆とも呆れともつかない笑みが広がる。
「あれほどの功績がありながら、王位を望まぬとは」
「望まぬからこそ、なお恐ろしい」
別の諸侯が静かに杯を置いた。
「望まなくとも、人は集まるだろう」
「医師も、学者も、商人も、聖職者もだ」
「富はあの方の領地へ流れ、教会も後ろ盾となり、隣国とは婚姻で結ばれた」
「もはや、一領主では収まる器ではあるまい」
部屋は静まり返る。
誰も軽々しく「王」という言葉だけは口にしない。
それがどれほど危うい響きを持つか、誰もが知っていたからだ。
それでも、一人の老諸侯が低い声で呟く。
「もし、この国に再び乱れが生じたなら……」
その先を口にする者はいなかった。
しかし、その場にいた全員が同じ結論へ辿り着いていた。
誰かが旗を掲げれば。
誰かが最初の一歩を踏み出せば。
その時、自分はどちらへ付くべきか。
諸侯たちは、それぞれ胸の内で静かに答えを出し始めていた。
彼らが望んでいたのは、理想でも忠義でもない。
領地の安定、民の繁栄、そして、自らの家門が次の時代にも生き残ること。
そのために最も相応しい人物が誰なのか。
そして、その熱はまだ表には現れない。
ただ灰の下で燻る火のように、静かに、しかし確実に広がっていった。
小国の国王は、小さくため息をついた。
諸侯の動きは、報告書などなくとも空気で判る。
謁見の間で交わされる何気ない視線。
宴席で、第三王子の名が出た瞬間に生まれる静寂。
地方から届く嘆願書に、さりげなく並ぶ「レオンハルト殿下のお力添えを」という一文。
誰も口にはしない。
だが、皆が同じことを考えている。
――もし、この国を任せるなら。
その答えが、一人へと集まり始めていることを。
国王は深く椅子へ身を預けた。
「あれは……王になどなりたくない男だ」
誰よりも知っている。
報奨の席でも、領地を増やすことも、軍権を握ることも望まなかった。
望んだのは、エリシア王女との婚姻を正式に認めてもらうことだけ。
ただ、それだけだった。
だからこそ厄介だった。
本人に野心がないからといって、人まで野心を失うわけではない。
むしろ野心のない人物ほど、安心して担ぎ上げられる。
「国のため」
「民のため」
「教会のため」
そんな大義名分を掲げながら、諸侯はいつでも王位を巡る争いを始められる。
そして今のレオンハルトには、それだけの求心力があった。
教会の支持、温泉療養地、医学、阿片の技術、商人との繋がり、隣国との婚姻。
そのどれもが、一人の王族としては大きすぎる。
だが、それらを取り上げることもできない。
教会が認めた医療事業へ国王が手を伸ばせば、神の事業への介入と受け取られる。
温泉療養地は、多くの貴族や巡礼者が命を繋ぐ場所となりつつある。
もはや一王子の私領ではなく、王国と教会が支える公益そのものだった。
ならば、王として選べる道は一つしかない。
国王は何もない机の上へ視線を落とし、小さく呟いた。
「……ならば、王家の名において、あれの権利を正式に保証するしかあるまい」
その声は、父としての情と、王としての責任との狭間でようやく辿り着いた、一つの結論だった




