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第三王子視点
最後の一人が退室し、扉が静かに閉まる。
部屋には、静寂だけが残った。
私はしばらくその場に立ち尽くし、誰もいないことを改めて確かめる。
やがて天蓋付きの寝台へ歩み寄った。
帳の向こうには、エリシア王女が待っている。
私はすぐには中へ入らず、静かに帳を少しだけ開いた。
「……エリシア王女。私も中へ入って、よろしいでしょうか」
穏やかな声で呼び掛ける。
問い掛けた瞬間、自分でも奇妙なことを尋ねていると思った。
夫婦なのだから、許可など求める必要はない。
王族として教えられてきた礼法にも、そのような作法は存在しない。
それでも、前世の私は、それが当然だと思っていた。
相手の領域へ入るのなら、一言断る。
それは礼儀であり、相手への敬意でもある。
私は返事を急かさず、その場で静かに待つ。
「……はい」
エリシア王女は静かに言った。
私は寝台の端へ腰を下ろす。
向かいには、エリシア王女。
作法どおり、侍女たちに身支度を整えられ、静かに待っている。
その姿を前にして、私の頭の中では二つの知識が激しくぶつかり合っていた。
第三王子として学んできた常識。
王族の婚姻とは、国家を支える礎である。
同盟を確かなものとし、王家の血を未来へ繋ぐこと。
王位継承順位が低い第三王子であっても、それは変わらない。
そして、宗教上の教えもまた、幼い頃から繰り返し聞かされてきた。
男女が結ばれるのは、快楽を求めるためではない。神が定めた婚姻の中で、子を授かり、血を未来へ繋ぐための務めである。
まして、女性が感じる痛みや苦しみを、特別に気遣うという発想もなかった。
それは、妻が受け入れるべきもの、子を授かるために耐えるべきもの。時には、神から与えられた受難として受け止めるもの。
そう教えられてきた。
宮廷では礼法だけでなく、健康管理や王族として心得るべき知識まで教え込まれてきた。
だからこそ、王族としての知識だけを頼るなら、迷う必要などなかった。
神の御前で誓った婚姻を守り、子孫を残すための神聖な務めである、と。
一方で、前世の記憶がそれを押し返す。
相手は人だ、業務ではない。
手順だけを追えばいいものではない。
仕様書どおりに進めれば成功する仕事など、この世には存在しない。
まして、相手が不安を抱えているのならなおさらだ。
焦ってはならない。
相手の意思を確かめること、安心してもらうこと、信頼を築くこと。
それこそが、最初に果たすべきことではないか。
頭の中では、理性と常識が何度も答えを探し続ける。
けれど、どれほど考えても、机上の知識だけでは答えは出ない。
今、向き合うべき相手は、書物でも講義でもない。
目の前にいる、一人の女性だった。
何も知らず、この夜を迎えた彼女を前にして、王族として教えられた「義務」だけで振る舞うことなど、私にはできそうになかった。
私は小さく息を整え、エリシア王女へ視線を向ける。
「……エリシア王女」
一拍置き、できるだけ穏やかな声で問いかける。
「……触れてもよろしいでしょうか」
ようやく、その一言が口をついて出た。
エリシア王女視点
彼は、ひとつひとつの動作に、許可をもらった。
「中へ入ってもよろしいでしょうか」
カーテン越しに聞こえた、その一言から始まった。
私は、小さく頷き、「はい」と答えた。
王子は静かに天蓋の中へ入り、けれども、すぐ隣には来なかった。
少し距離を置いたまま、穏やかな声で尋ねる。
「隣へ座っても?」
「……はい」
許しを得てから、ゆっくりと腰を下ろす。
しばらく沈黙が流れた。
やがて王子は、また私を見つめた。
「お手を、お借りしてもよろしいでしょうか」
私は戸惑いながらも、そっと右手を差し出した。
温かな手が、壊れ物を扱うように優しく包む。握るというより、支えるような手だった。
「ありがとうございます」
その一言に、私は思わず目を瞬かせた。
ありがとう、そんな言葉を、この場で聞くとは思ってもいなかった。
王族として育った私の常識。
夫とは家を率いる者、妻はそれに従う者。
初夜とは、夫がその権利を行使する夜であり、いちいち妻へ許しを求めるなど、本来なら考えられない。
それなのに、この方は違った。
私の意思を確かめるように。
私の心が追いつくのを待つように。
何をするにも、ひとつずつ問いかけてくる。
私は今日まで、政略結婚の駒として育てられた。
だから今夜も、恐ろしいものだと覚悟していた。
自分の意思など必要ない、義務として、ただ受け入れるだけなのだと。
けれど、この方は。
私を王女でも、政略結婚の相手でもなく、一人の人間として扱っている。
その事実が、胸の奥へ静かに染み込んでいった。
知らないうちに、強張っていた肩の力が抜ける。
この方は、私を傷つけない。
その確信が、初めて私の心に灯った。
私は静かに目を閉じる。
そして、少しだけ口元を緩めた。
──どれほどの時が流れたのだろう。
私は寝台に横たわったまま、天蓋をぼんやりと見つめていた。
隣には、レオンハルト殿下がいらっしゃる。
私は、自分の身体について何も知らなかった。
王女として礼法や歴史、政治は数え切れないほど学んできた。
殿下が怖かったわけではない。
むしろ、お慕いしている方だからこそ、不安だった。
失望させてしまうのではないか。
妻として何も分からない私は、殿下のお役に立てるのだろうか。
そんな思いばかりが胸を占めていた。
けれど今は、不思議と心が穏やかだった。
ひとつひとつ私の意思を確かめ、待ってくださった。
その優しさが、胸いっぱいに広がっている。
そっと私は手を伸ばす。
隣にいる殿下の手へ、指先が静かに触れた。
その小さな動きに気付いた殿下は、穏やかな声で尋ねられる。
「……痛みが、酷いのですか?」
「……いいえ」
私は小さく首を横へ振った。
返す言葉は見つからなかった。だから私は、そっと殿下の手へ自分の手を重ねる。
それだけで十分だと思えた。
やがて、静かな寝息が隣から聞こえてきた。
私はそっと顔を向ける。
レオンハルト殿下は、穏やかな表情で眠っていた。
その寝顔を見つめた瞬間、私はようやく気付く。
殿下は今日、王都から早馬を乗り継ぎ、この城まで戻ってこられたのだ。
街道を急ぎ、到着して間もなく婚礼を終え、そのままこの夜を迎えた。
本当なら、誰よりも疲れているはずだった。
それなのに殿下は、ご自身のことを一度も口になさらなかった。
疲れた素振りさえ見せず、最後まで私の不安ばかりを気遣ってくださった。
胸の奥が熱くなる。
気付けば、視界が滲んでいた。
一筋の涙が頬を伝う。
私は慌てて手のひらで拭う。
けれど次の瞬間、堪えていたものが溢れるように、顔がくしゃりと崩れた。
声を立ててしまわないよう、私は唇をそっと噛み締める。
肩が小さく震える。
この方は、本当に優しい。
その想いが、胸いっぱいに広がっていった。




