193
エリシア王女は執務机の前で、一通の報告書に目を通していた。
冷害の影響は、この領地にも及んでいる。 明日予定されている婚礼の祝宴も、王族の祝いとは思えぬほど慎ましいものとなる予定だった。
その時、控えていた侍女が静かに一礼する。
「殿下より申し伝えがございます。本日、予定どおり初夜を執り行うとのことです」
エリシア王女は書類から視線を上げると、小さく頷いた。
「……宜しい。そのように」
穏やかな返答だった。
だが、その一言に、侍女は胸をなで下ろす。
婚姻の誓約は既に教会で交わされている。しかし、教会法では、それだけでは婚姻は完全ではない。夫婦としての結び付きが成立して初めて、誰にも覆すことのできない婚姻となる。
簒奪事件の余波が残る今、その一夜は、夫婦だけでなく王家そのものを守る意味を持っていた。
教会にも既に連絡は届いている。必要な立会人も待機し、万一の異議が挟まれる余地は残されていない。
侍女は安堵したように息をついたが、すぐに少しだけ頬を膨らませる。
「けれども、本当にお仕事は明日にしていただきたいものです」
その声には、わずかな怒りが滲んでいた。
「殿下は、つい先ほどまで執務室で書類をご覧になっていたとか。こんな日にまで机へ向かわれるなんて……」
エリシア王女は思わず苦笑を漏らした。
「ふふ……あの方らしいです」
誰よりも領民を案じ、少しでも仕事を片付けようとする。
それが、レオンハルトという人だった。
だからこそ、人はあの方について行くのだろう。
そう思いながらも、今夜だけは違う。
今夜は、王子ではなく、一人の夫として過ごしていただかなければならない。
やがて廊下の向こうから、伝令役の近衛騎士が足早に現れた。
「エリシア王女殿下。レオンハルト殿下よりお伝えいたします」
騎士は恭しく頭を下げる。
「寝室をご一緒いただきたい、とのことでございます」
エリシア王女は静かに立ち上がった。
「分かりました」
その返答は短かった。
けれど、その横顔には、王女としての覚悟と、一人の妻としての静かな決意が宿っていた。
エリシア王女は、静かに息を整えた。
失敗は許されない。
侍女たちが暖炉へ薪をくべる。
赤々と燃える炎が部屋を温め、穏やかな空気が広がっていく。
「暖炉は十分ですね」
「はい、殿下。寝室が冷えぬよう、夜通し火を絶やしません」
エリシア王女は頷いた。
「次を」
侍女は銀盆を差し出す。
そこには、この日のために用意された温かな香辛料入りの葡萄酒と、胡椒や生姜などを用いた温かい料理が並んでいた。
「厨房にも伝えてあります。すべて温かいうちにお出しします」
「ありがとう」
それもまた、この時代において最善と信じられている備えだった。
続いて侍女は、香り高い薬草を調合した小さな陶器の壺を示す。
「こちらも準備できております」
エリシア王女は蓋を開け、ほのかに立ち上る香りを確かめる。
王宮の医師が調合した、王家に伝わる薬草の軟膏。
古くから身体を労わるために用いられてきたものだ。
「よろしい」
侍女は深く一礼した。
「教会への連絡も済んでおります。立会いの方々も待機しております」
「……そう」
婚姻は既に誓われている。
だが、この夜は両家の未来を誰にも覆されないものとするための、大切な儀式でもあった。
エリシア王女はゆっくりと立ち上がる。
侍女たちが最後の身支度を整えていく。
白い麻の装いは、この時代の習わしに従ったものだった。
鏡に映る自分の姿を見つめ、エリシア王女は小さく息を吐く。
「……けれども、この服装は寒いわ」
その呟きに、侍女たちは思わず顔を見合わせる。
「すぐに暖炉へ薪を足します、殿下」
その言葉に、エリシア王女はようやく小さく微笑んだ。
エリシア王女は、枕の下をそっと確かめた。
万一に備え、侍女が用意した小さな小瓶。
何事も起こらないことが一番だ。
それでも、大国と小国の同盟、王家の名誉、そして自らの立場を守るため、考え得る備えはすべて整えておかなければならない。
「……これで、よいのですね」
「はい、殿下」
侍女は静かに頭を下げた。
エリシア王女はゆっくりと椅子へ腰を下ろす。
背後へ回った侍女は、櫛を手に取り、艶やかな髪を優しく梳き始めた。
暖炉の薪が静かにはぜる。
しばらく沈黙が続いた後、侍女が穏やかに口を開いた。
「姫様。まもなく、レオンハルト殿下がお見えになります」
「……ええ」
「どうか、ご安心ください」
エリシア王女は鏡越しに侍女を見つめた。
「安心……ですか」
その声は、自分でも驚くほどか細かった。
王女として政治も礼法も歴史も学んできた。
だが、この夜についてだけは違う。
誰も詳しく教えてはくれなかった。
教えられたのは、ただ一つ。
『その時は、殿方のお導きに従えばよいのです』
それだけだった。
部屋に入られた後、何をすればよいのか。
何が起こるのか。
なぜ、それほど大切な夜なのか。
分からない。
尋ねようとしても、
「その時が来れば分かります」
と微笑まれるだけだった。
だからこそ、知らないことへの不安だけが胸の内で大きく膨らんでいく。
ふと視線を落とす。
膝の上で重ねた自分の手が、小刻みに震えていた。
「……」
いつから震えていたのだろう。
侍女はその手に、そっと自分の手を重ねる。
「エリシア殿下」
幼い頃から聞き慣れた、優しい声だった。
「これは、王女としてのお務めでございます。どうか、ご自分を信じてください」
「……ええ」
エリシア王女は静かに息を吸った。
震えは収まらない。
それでも背筋を伸ばえ、王女らしく顔を上げる。
「ありがとう」
侍女は最後に髪を整え、微笑んだ。
「とてもお美しゅうございます」
エリシア王女は鏡に映る自分へ小さく頷いた。
そして、静かにその時を待った。




