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私は湯から上がり、エリシア王女が用意してくれた室内着へ着替えた。
温泉のおかげで、身体は驚くほど軽く、遠征の疲れも、ようやく抜け始めていた。
だが、それと仕事は別だ。
私は迷わず執務室へ向かった。
部屋へ入ると、家令や文官たちが慌てて立ち上がる。
「殿下。留守中の報告書でございます」
羊皮紙の束が机へ積み上げられた。
私は椅子へ腰を下ろす。
自然と背筋が伸び、机へ向かう姿勢が変わる。
まるで長年染み付いた癖が蘇ったように、視線は書類へ吸い寄せられていく。
マルクが小さく目を丸くした。
「……殿下?」
私は返事もせず、一枚目をめくる。
収支報告、備蓄、巡礼者の受け入れ、宿屋の改修。
次々と書類へ目を通していく。
その時、エリシア王女が一歩前へ進み、一束の羊皮紙を差し出した。
「不在の間、こちらが処理した分です」
私はそれを受け取り、素早く目を通した。
必要な決裁は済み、添えられた報告も簡潔で分かりやすい。引き継ぎも漏れなく整理されている。
私は最後の一枚を閉じた。
「問題なさそうだ。ありがとう」
エリシア王女は、その一言にほっとしたように、少しだけ微笑んだ。
自分が留守を任された領地を、無事に守り抜けた。そして、その成果を私に認められたことが、何より嬉しそうだった。
少し間を置いて、エリシア王女が静かに口を開く。
「捕らえた皇国の諜報員は、どうなさるのですか?」
私は羊皮紙を机へ置き、小さく息をついた。
「……後日、話をしたいな」
その一言に、エリシア王女は静かに目を細める。
私は続けた。
「経過の詳細については、彼らから報告を受けている。見事だった」
「……留守を預かったのです。当然のことかと」
控えめな返事だった。
私は小さく笑みを浮かべる。
「それでも、感謝してる」
その言葉に、エリシア王女はほんの少しだけ口元を緩めた。
私は続けて残りの書類へ目を通していく。
「殿下……お疲れでしょう。続きは明日でも」
エリシア王女が静かに私に声を掛けた。
私は首を横に振る。
「後へ回す方が大変になる。今日できることは、今日片付ける」
そう言って、私は次の羊皮紙へ手を伸ばす。
エリシア王女とマルクは、何とも言えない微妙な視線をこちらへ送ってきたが、私は気にすることなく書類へ目を落とした。
エリシア王女の侍女視点
エリシア王女の侍女は、朝から落ち着かなかった。
レオンハルト殿下が、ようやく戻られる。
遠くに姿を現した時には、思わず胸をなで下ろした。
……ご無事で、本当に良かった。
それだけで十分だと思った。
だが、その安堵は長く続かなかった。
殿下は家臣たちへの挨拶を終えると、湯浴みを済ませ、そのまま執務室へ向かわれたのである。
次々と運び込まれる報告書、側近との打ち合わせ、滞っていた決裁。
侍女は廊下の向こうから、その様子を何度も見つめる。
そのたびに、隣に控えるエリシア王女の表情が少しずつ曇っていくのが分かった。
王女は殆ど口にはしない。
「お疲れでしょうから……」
ただ、それだけを静かに繰り返す。
だからこそ、侍女は動いた。
執務室から出てきた側近マルクを見つけると、人目の少ない廊下へ呼び止める。
「マルク様」
「どうかなさいましたか」
侍女は一礼すると、真剣な眼差しで告げた。
「今夜は、殿下と王女殿下の初夜でございます」
マルクは一瞬目を閉じ、申し訳なさそうに頷いた。
「……承知しております」
「でしたら」
侍女は少しだけ声を潜める。
「仕事は、今必要なものだけになさいませ」
マルクは困ったように息をついた。
「殿下にも申し上げてはいるのですが……。『今日中に終わらせれば明日が楽になる』と仰るのです」
侍女は思わず目を細めた。
「その『明日』があるから困るのです」
マルクも思わず苦笑する。
「……仰るとおりですね」
彼は小さく頭を下げた。
「何とか致します」
侍女はようやく安心したように微笑み、一礼してその場を後にした。
マルクは執務室の扉を見つめ、小さく独り言を漏らす。
「殿下……今夜ばかりは、仕事より優先すべきことがございます」
侍女はその場を離れたものの、気になって足を止めた。
廊下の陰からそっと執務室の様子を窺うと、ほどなくしてマルクが中へ戻っていく。
扉が完全には閉まっていなかったため、中の様子がわずかに見えた。
マルクが何事かをレオンハルト殿下へ告げる。
殿下は手を止め、じっとマルクを見つめた。
それから机の上に積まれた書類へ視線を落とし、再びマルクを見る。
ほんの一瞬、その口元がわずかに引きつったように見えた。
やがて殿下は小さく息をつき、机の上の書類を手早くまとめ始める。
その様子を見たマルクは、胸をなで下ろしたように小さく安堵の息を漏らした。
「……ありがとうございます」
その声は侍女の耳には届かなかったが、表情だけで十分だった。
侍女もまた安堵の笑みを浮かべると、今度こそエリシア王女の待つ部屋へと足早に向かった。




