表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
もし、社畜が異世界の第三王子に転生したら【連載版】  作者: りな


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

119/120

119

王都から戻ると、クロウフォード伯爵となったリディアが、すでに領地に入っていた。

父母の見舞い、そして私への報告のためだという。

本来であれば書状で足りる内容だ。しかし、私の帰還を待っていたらしい。

「……何か、特別な報告でもあるのか」

問いかけると、リディアは首を振った。

「いえ。父の回復は順調です。母も、安定しております」

「そうか」

短く頷く。

「では、先に出した指示に、不満でも出ているか」

「いえ。反発はありますが……一人ひとりに説明を重ね、理解は得られつつあります」

「……ならば、」

言いかけて――ふと、違和感を覚えた。

リディアの声が、わずかに震えている。

視線を上げる。

その頬を、一筋の涙が伝っていた。

「……リディア嬢?」

沈黙が落ちる。

彼女は一度だけ息を整え、それから、まっすぐこちらを見た。

「……殿下は、とてもよくなさっています」

静かな声だった。だが、その奥には、押し殺した感情が滲んでいる。

「領民にも慕われています。ですから――」

一瞬、言葉が途切れる。

それでも、彼女は続けた。

「どうか、ご自身を責めないでください」

その言葉に、私は返す言葉を失った。

……責めていたのか、自分で?

意識していたわけではない。だが、言われて初めて、胸の奥にある重さに気づく。

……見抜かれていたのか?

「殿下は、十分に立派です」

リディアは、はっきりと言った。

「少なくとも、私にとっては……理想の方です」

言い終えた瞬間、彼女の頬が赤く染まる。

「あ……い、いえ、それは……領主として、です」

慌てて言い直す様子に、場の空気がわずかに緩む。

「……ありがとう」

気づけば、そう口にしていた。

なぜその言葉が出たのか、自分でも分からない。

その後、何を話したのかは、はっきりとは覚えていない。

ただ、少し笑い。少しだけ、言葉に詰まり。

そして――ほんのわずかに、心がほどけたような気がした。


扉が閉まり、静けさが戻った部屋で、マルクが低く口を開いた。

「……殿下は、正しく在られます」

私は視線だけを向けた。マルクは続ける。

「誰かを救おうとした結果、傷つく者が出ることもあります。ですが……それでも、目を背けずに責を負おうとなさった」

淡々とした口調だったが、その言葉には、確かな敬意があった。

「それが出来る方は、多くありません」

私は、しばらく何も言えなかった。

ただ、不思議と胸の奥の重さが、先ほどよりもう少しだけ軽くなっていることに気づく。

……人は、一人でも生きてはいける。決断も、責任も、最後には自分で背負うしかない。

けれども、時に、人の言葉に救われることがある。支えられなければ、立ち続けられない時もあるのだと。

窓の外では、領地の喧騒が遠く響いていた。

その音を聞きながら、私は静かに目を閉じた。



元伯爵視点

元伯爵は、地方の石造りの小さな聖堂にいた。

人の少ない時間を選んだのは、偶然ではない。長椅子に腰を下ろし、しばらく何も言わなかった。

正面では、司祭が静かに待っている。やがて、伯爵は口を開いた。

「……すべて、失いました」

ぽつり、と落ちる言葉。誰に向けたものでもない。ただ、そこに置かれた。

「領地も、名も……家も」

間が空く。司祭は、何も言わずに聞いている。

「愚かでした」

指先が、わずかに震えていた。

「あれは、ただの薬だと……思っていた。痛みを抑えるためのものだと」

声が、少しだけ掠れる。

「だが……違った」

思い出しているのは、あの時の顔だ。

苦しみ、求め、やがて――変わっていった、妻の姿。

「私は、見ていたはずなのに……止めなかった」

聖堂の中は、静かだった。やがて、司祭が口を開いた。

「……夫人は、助けられましたね」

伯爵の目が、はっきりと見開かれた。

「助けられた、とは……?」

思わず問い返す。司祭は、穏やかに続けた。

「そのまま続けていれば、いずれ正気を失い、祈りすら届かぬところへ落ちていたでしょう。魂が、神から離れる前に、断たれた」

淡々とした言葉だったが、重い。

「そして、異端審問にかかれば、火刑は免れず、家もまた断絶を免れません」

伯爵は、何も言えなかった。

「すべてを失った、とおっしゃいましたが」

司祭は、静かに首を振る。

「まだ、残っているものがあります」

伯爵の喉が、わずかに動いた。

「……何が、です」

かすれた声で問う。

「悔いる心です。それがある限り、人は神に戻れる」

言葉は静かだが、揺るがない。伯爵は、しばらく動かなかった。

やがて、深く、頭を垂れた。

それは、これまでとは違う意味の沈黙だった。


伯爵は、夫人のもとへと足を向けた。

部屋は、かつての寝室とは違う。窓は開かれ、光が差し込み、空気は入れ替えられている。

清潔な布、整えられた寝台。静養のための部屋だ。

指示されたことは、すべて守っている。阿片は、少しずつ減らしている。

水で薄めた薬を、決められた量だけ。

増やさない、戻さない。侍女たちは、時間ごとに様子を見ている。顔色を確かめ、汗を拭き取る。薬草の匂いが、ほのかに漂っていた。

鎮めるための煎じ薬。胃を守るための茶。

「……どうだ」

低く問う。侍女は、控えめに答えた。

「今日は、眠れた時間が少し長く……食事も、少しだけ」

それだけで、十分だった。

ベッドの上で、夫人は目を閉じている。眠っているのか、それともただ耐えているのか――判別はつかない。

頬は痩せ、指先はまだ震えている。

時折、浅く息を乱す。

それでも、あの時のような、あの“渇ききった目”は、もうない。

伯爵は、そっと視線を落とした。

「……戻ってきているのか」

誰にともなく、呟く。

答えはない。

あるのは、わずかな変化だけだ。

昨日より、少しだけ。朝より、本当に、少しだけ。

伯爵は、静かに息を吐いた。

先は、まだ見えない。終わりがあるのかどうかすら、分からない。

それでも、ここでやめれば、すべてが無に戻る。

「……積み重ねるしか、ないのだな」

小さく、言う。

そのとき、ふと脳裏をよぎる。

――家は、途絶えなかった。

王の裁定により、名は改められ、領地も大きく削られた。だが、後継者は残された。父の罪を知らず、また王への忠誠を誓った者として。

“別の家”として、再び立つことを許された。

かつての栄光はない。だが――消えたわけでもない。

「……そうか」

わずかに、目を伏せる。

誰に聞かせるでもない。ただ、自分に言い聞かせるように。

伯爵は、椅子に腰を下ろした。そして、動かずに座り続けた。

時間が過ぎるのを、ただ見守るように。

それが、今の彼にできる、ただ一つのことだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
こういうとき、名前って大事だなと思ってしまう。 「元伯爵」って、話の流れでリディアの父のことかと思ってしまった。 怪我して娘に任せてしまって、みたいな懺悔かと。 読み進めればわかるんだけどね 薬関…
ここから、宗教の価値の真髄を垣間見れるような感覚が湧く話でした。 きっと、一時は完全に断てたと思えるでしょう。 しかし、これらの薬の厄介なところは生きている限り揺さぶられる『過去の快感』でしょう。…
異端審問騒ぎにならなくてよかった。 伯爵夫人も快方に向かったようでよかった。 伯爵夫妻に救いがあって、本当によかった。 殿下にも救いがあって、よかった。 そしてリディア女伯爵が一気にエリシア王女に差を…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ