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私は、祭りに関してはすべてマルクに任せていた。
税収は上がっている。ならば、好きに計らえ、それだけを伝えて。
細部に口を出す気はなかった。ああいう場は、現場に任せた方が上手く回る。しかし。
「……これは」
馬上から見下ろした先、広場は人で埋め尽くされていた。
旗が翻り、楽の音が鳴り響き、長く並べられた卓には肉とパン、酒が尽きることなく運ばれている。そして。
「殿下、そろそろです」
横に控えたマルクが、静かに告げた。
「そろそろ、とは」
問い返すと、マルクはわずかに目を細める。
「教会前で、コインを」
「……何?」
一瞬、言葉を失う。
「民衆への施しにございます。効果は保証いたします」
あまりに当然のように言う。
私は小さく息を吐いた。
「……聞いていないが」
「お任せいただいたかと」
否定できない。
「……やるのか」
「はい」
短い肯定。
すでに流れは整っているのだろう。
群衆の視線が、こちらに集まり始めている。
私はマルクから袋を受け取り、中を確かめた。
硬貨の重み。決して軽くはない。
「……まったく」
小さく呟く。
そして、腕を振った。少額貨幣の銀貨が宙に舞い、一瞬の静寂の後、歓声が爆ぜた。
「おおおおおお――!」
人々が手を伸ばし、笑い、押し合いながらも必死に拾う。子供が転び、大人が引き起こし、また笑う。
もう一度、投げる。さらに歓声が重なる。
熱気が、渦のようにこちらへ向かってくる。
「……なるほどな」
思わず、呟いた。
富が溢れる様を“見せる”。与えるだけではない、“感じさせる”。よく出来ている。
横を見ると、マルクは何も言わず、ただ状況を見ていた。
「計算通りか」
「……おおよそは」
曖昧に答える。
三度目に、コインを投げる。
歓声はさらに大きくなる。名を呼ぶ声すら混じり始めていた。
「殿下!」
「こちらにも!」
「万歳!」
その熱は、嘘ではない。
作られたものではある。だが――受け取る側の喜びは、本物だ。
私は、しばらくそれを見ていた。
奪い合いではなく、分かち合いでもなく、“与えられる”ことへの、純粋な歓喜。
「……」
胸の奥で、わずかに何かが動く。
合理では測れない感覚。
「……まさか、楽しいと思うとは」
私は小さく、息を吐いた。
「やった! 拾ったぞ!」
泥に手を突っ込んだ男が、銀貨を握りしめて叫ぶ。
「いいなあ! 見せて!」
横から子どもが身を乗り出す。
「一枚でも十分だろうに……でも、私は三枚目よ!」
頬を紅潮させた女が、胸元に大事そうにしまい込む。
「三枚も!?どこで拾ったんだ!」
「教会の前よ。殿下がちょうどこちらに投げてくださったの」
ざわめきの中、別の声が混じる。
「……殿下の手からだぞ」
年配の男が、低く言った。
「持っていれば、しばらくは運に困らん」
「病にも効くって話だ。昔、王の手で触れられて治った者もいるってな」
「本当かよ」
笑いながらも、誰も否定はしない。
「……でも、なんだか分かる気がするわ」
女が、そっと手の中の銀貨を見つめる。
「温かいもの。さっきまで、あの方が持っていたんだもの」
子どもが目を輝かせる。
「じゃあ、お守りにする!」
「おい、使えよ!」
「やだ! 絶対使わない!」
笑い声が広がる。
遠くで、また銀貨が宙に舞った。
歓声が、波のように広がる。
「来たぞ! 次だ!」
「こっちだ、こっちに投げてくれ!」
人々は手を伸ばす。
ただの金属ではない、幸運と、恵みと“あの方の手”から与えられたものを、掴むために。
ただし、この華やかな世界には、裏方が必要であることを忘れてはならない。
先頭に立ったのは、マルクだった。
「樽は北側に回せ。日陰に置け、温くなる」
「肉はまだ切るな、合図があるまで待て」
「席順を間違えるな。揉め事の種になる」
短く的確に、迷いのない指示が、次々と飛ぶ。
家政官たちは帳面を抱え、走る。
どの商人にいくら払ったか、どの樽をどこに回すか――金と物の流れを一つも逃さない。
広場の端では、大工たちが最後の仕上げに追われていた。軋む音を立てながらも、桟敷席は形を整えていく。
布職人が紋章旗を張り、香草を撒く者たちが通りの臭いを覆い隠していく。
調理場は、まさに戦場だった。
「火を絶やすな!」
「回せ、止めるな、焦げるぞ!」
巨大な肉が炙られ、脂が炎を跳ねさせる。
煙に目を細めながら、若者たちが棒を押し続ける。
料理人たちは怒号を飛ばし、皿を並べ、味を確かめる暇もなく次へと移る。
宴は、彼らの手の上で回っている。
そして、その外側。
「押すな! 順番だ!」
兵が人の波を押しとどめる。
酔いの回った男が掴みかかれば、すぐに腕を取られ、引き離される。
「明日、頭を冷やせ」
低く告げ、連れていく。
笑い声の裏で、秩序は保たれていた。
やがて、夜が更ける。
歓声は徐々に散り、歌は途切れ、灯りが一つ、また一つと落ちていく。そして。
「……始めろ」
マルクの一言で、すべてが切り替わる。
宴の余熱が残る中、裏方は再び動き出す。
踏み潰された食べ残し、割れた器、泥と、酒と、そして、排泄物。
「そっちは集めて運べ!」
「水を持ってこい、流すぞ!」
農民たちが黙々と働く。
顔をしかめながらも、手は止めない。残されたパンや肉は選り分けられ、布に包まれる。
それは、貧しい者たちへ回される。慈善であり、同時に片付けでもある。
そして、広場は、ほぼ元の姿を取り戻していた。
「……こんなものか」
マルクが、静かに見渡す。
華やかさの痕跡は、もうほとんど残っていない。
「終わり、か」
誰かが呟く。
マルクは、広場を見渡した。
「……いや。明日の朝、何事もなかったように戻してこそだ」
やがて、すべてが静まる。
楽しんだ者も、働き続けた者も、腹を満たした者も。それぞれの場所で、ようやく息をつく。灯りは落ち、喧騒は遠くへ消え、夜だけが残る。
空を見上げれば、星が瞬いていた。
――誰に分け隔てることもなく。
すべての者に、等しく。
そのささやかな光が、静かに祝福する。
今宵を越えたすべてに、幸あれと。




