109
私は、忙しい日々を過ごしていた。
書状の処理、領地の収支、騎士団への指示、隣領との調整。机の上の紙束は減ることがない。ふと、違和感を覚えた。
「……」
室内の空気が、どこか緩い。
出入りする役人たちの足取りが、わずかに軽い。視線を上げる。
「……浮ついているな」
ぽつりと呟くと、傍らのマルクが小さく目を細めた。
「お気づきになられましたか」
「何がある」
短く問う。
マルクは一歩進み、静かに答えた。
「例年の“祭り”が近づいております。医学院の学位授与と重なり、今年は特に規模が大きいとのこと」
「……なるほどな」
言われて、ようやく合点がいく。
随分前に、祭りのことはすべてマルクに任せる、と言ったのだった。
再び書類に目を落とすが――集中がわずかに削がれている。
私はペンを置いた。
「外を見る」
窓の外――街の様子は、明らかに変わっていた。通りには、色布が張られ、花が飾られている。屋台の骨組みが並び、商人たちが声を張り上げながら設営を進めている。
風に乗って、香草と甘い菓子の匂いが流れ込んできた。
「……準備か」
「は。すでに各地から人が入り始めております」
よく見れば、普段は見ない服装の者も多い。
巡礼者、商人、学生――そして、浮き足立った民。
「騒ぎになるな」
「ええ。ですが……」
マルクが、わずかに間を置く。
「民にとっては、数少ない“解放”の時でもあります」
私は、しばらく黙って外を見ていた。
笑い声が、遠くから聞こえる。
「……分かっている」
静かに答える。
「抑えつけるものではない。ただ――線は越えさせるな」
「承知しております。警備は強化済みです」
「医師も回せ。怪我人が増える」
「すでに手配しております」
抜かりはない。
私は、もう一度だけ街を見下ろし、視線を戻した。椅子に深く座り直す。
「続けるぞ」
書類を取り、再びペンを走らせる。
外では祭りの準備が進み、内では領地が動き続ける。
とうとう、祭りが始まった。
この地において――祭りは、単なる娯楽ではない。領主である私にとっては、それは義務であり、責務だ。
教会の鐘が、朝の空気を震わせる。領民たちはすでに集まり始め、広場は色とりどりの布と旗で埋め尽くされていた。
「……始まりますね」
背後で、マルクが低く言う。
「ああ」
私は短く応じ、外套の襟を正した。
今日ばかりは、鎧でも執務衣でもなく、華やかな衣装。――見せるための姿だ。
広場へ足を踏み出した瞬間、空気が変わる。
ざわめきが一瞬だけ揺れ、次の瞬間歓声へと変わった。
「殿下だ!」
「領主様がいらしたぞ!」
私は歩みを止めずゆっくりと周囲を見渡し、視線を合わせ、軽く頷く。それだけで、彼らの顔が明るくなるのが分かる。
……単純だ。だが、それでいい。
「パンと酒は十分に行き渡っているか」
歩きながら問う。
「は。昨夜のうちに各区画へ配分済みです」
マルクが即座に答える。
「肉の振る舞いも、昼には始まります」
「遅らせるな。飢えさせたままの祝宴は、祝宴ではない」
「承知しております」
広場の中央では、すでに音楽が鳴り始めていた。
リュートの軽やかな音、太鼓のリズム。子どもたちが駆け回り、若者たちは輪になって踊り、年長の者たちは酒を片手に笑っている。
普段とは、まるで違う顔だ。
「……悪くないな」
ぽつりと漏れる。
「は?」
「いや」
言葉を切る。普段は、税を取り、労を課す相手だ。だが今は違う。彼らは笑い、食べ、生きている。
その光景を維持することこそが、領主の仕事だ。
教会の前に到着し、扉の前で私は足を止めた。中では、すでに祈りが始まっている。
「殿下」
マルクが一歩下がる。
私は一つ息を整え、静かに中へ入った。
荘厳な空気、香の煙が揺れ、光が差し込む。
膝をつき、頭を垂れる。
祈りは、形だけではない。この地が保たれていること。人が飢えず、争いが抑えられていること。その全てが、奇跡に近い。
祈りを終え、外へ出ると、再び喧騒が戻ってくる。
「殿下! 一杯いかがですか!」
農民の一人が、無遠慮に杯を差し出してきた。周囲が一瞬、息を呑む。だが私は、わずかに口元を緩めた。
「……いただこう」
杯を受け取り、一口だけ飲む。
「今日は無礼講、だったな」
「へへ……!」
場が一気に和らぎ、笑い声が広がる。
マルクが、わずかに肩をすくめた。
「……寛大に過ぎますな」
「今日くらいはな」
私は杯を返し、再び歩き出した。
領主としての威厳は必要だが、それだけでは足りない。恐れだけでは、人はついてこない。
「覚えておけ、マルク」
「は」
「満たされた者は、よく働く」
マルクが小さく笑う。
「……そのための祭り、でございますか」
「ああ」
視線の先では、煙が上がり、肉が焼かれている。歓声はさらに大きくなり、音楽は高まり、空気は熱を帯びていく。
非日常。だが、この一日があるからこそ、また日常に戻れる。
「……悪くない」
今度は、はっきりとそう言った。
領主としてではなく。
ただ一人の人間として。
広場には人が溢れ、色とりどりの布が風に揺れている。
香草と焼いた肉の匂い、エールの泡、笑い声そして、その中心で。
「――誓いますか」
一組の男女が向き合っていた。結婚式だ。
周囲には村人たちが円を描くように集まり、誰一人として静かにしていない。笑い、囃し立て、祝福の声を投げる。
厳粛さよりも、熱気。祈りよりも、生の喜び。
「……あの娘か」
ふと、視線が止まる。
花嫁は、青い衣をまとっていた。粗い織りの布だが、丁寧に仕立てられ、胸元には小さな花が編み込まれている。
その顔を、私は知っていた。
「以前、皮膚病を患っていた……村長の娘だな」
傍らで、マルクが小さく頷く。
「は。その後も良好との事です」
「そうか」
短く応じる。
あの時の娘が、今は堂々と人々の前に立ち、笑っている。その笑みは、隠す必要のないものだった。
「――ほら、早くしろ!」
「逃げるなよ!」
野次とも祝福ともつかない声が飛ぶ。花婿が苦笑しながら、花嫁の手を取った。
指には、金ではない。粗末な金属か、あるいは草を編んだだけの指輪。それでも。
「……十分だな」
私は、小さく呟く。
誓いが交わされ、次の瞬間、歓声が弾けた。
誰かが穀物を投げ、子供たちが駆け回り、楽師が勢いよく弦を鳴らす。エールの杯が掲げられ、肉の香りがさらに強くなる。
祝宴が、始まった。
花嫁は笑っていた。その顔には、かつての面影はない。ただ、未来だけを見ている。
「……悪くない光景だ」
私の言葉に、マルクがわずかに口元を緩めた。
「領主冥利に尽きる、というものでしょうか」
「……そこまで言うつもりはない」
否定はするが、視線は外さない。
この喧騒も、この笑いも、この結びつきも――すべて、領地の“力”だ。
守るべきもの、増やすべきもの。
「行くぞ、マルク」
背を向ける。歩き出す私の背後で、歓声がさらに大きくなる。
振り返らない。
だが、その音は――確かに、届いていた。




