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数日後の話。
私は、クロウフォード伯爵の病室を後にした。重い扉が閉まる音が、やけに響く。
命はある。だが、領主としては――終わりだ。
廊下に出ると、少し離れた場所に、一人の少女が立っていた。
「……リディア嬢」
名を呼ぶと、ゆっくりとこちらを見る。
顔色は悪く、目元には隠しきれない疲労と、わずかな赤みがある。それでも背筋は伸びていたが、限界は近いように見えた。
「レオンハルト殿下……」
かすれた声だった。
一歩、近づく。近すぎず、遠すぎず。
「書簡は届いているはずだ」
リディアは、わずかに頷いた。
「……はい。後見の件も」
指先が、わずかに震えている。
私は一瞬だけ視線を落とし――ゆっくりと、自分の手を差し出した。
抱き寄せはしない。ただ、そこに“支え”を置く。
「立てるか」
問いではなく、確認。
リディアは一瞬だけためらい、そっとその手に触れた。
力は弱い。だが、確かに掴んでいる。
そのまま、私は静かに言う。
「私は、お前の後見として立つ」
言葉は簡潔に、曖昧さは必要ない。
「領地の管理、対外関係、軍事――すべて、私が支える」
リディアの肩が、わずかに震えた。
「……ですが、それでは……」
「奪わない」
即座に遮り、視線を合わせる。
「お前の領地だ。お前が領主であり、私は、その隣に立つ」
廊下の空気が、静かに張り詰める。
「……どうして、そこまで、してくださるのですか」
小さな声。私は、わずかに目を細めた。
「必要だからだ」
嘘ではないが、それだけでもない。
「ここが崩れれば、周囲も崩れる」
現実を告げ、わずかに声を落とす。
「それに――、守る価値があると判断した」
リディアの指が、ぴくりと動いた。
視線が揺れる。
「……私に、ですか」
「領地にも、お前にもだ」
否定しない。そのまま静かに続ける。
「泣くな、とは言わない。だが、崩れるな。立て、領主として。私が、支える」
長い沈黙のあと――リディアは、ゆっくりと息を吸った。そして、小さく頷く。
「……はい」
声はまだ弱い。
だが、先ほどよりも、確かだった。手に触れる力が、ほんのわずかに強くなる。
離さない………。
私は何も言わず、そのまま支え続けた。
ただ一つだけ。
リディアの視線が、ほんの一瞬だけこちらを見上げる。その奥にあるものに、私は気づいていたが、触れはしなかった。
リディア視点
廊下に一人残されたあと、リディアはその場に立ち尽くしていた。
「……どうして」
かすれた声が、零れる。
ついこの間まで、母の容態はようやく落ち着いてきていたのに。長く続いた看病。終わりが見え始めて、ほんの少しだけ、息をつけると思った。――なのに。
「どうして、今度は父様が……」
唇が震える。視界が滲むのを、必死に堪えた。崩れてはいけない。分かっている、分かっているのに――
「……私は、どうすればいいの」
答えは、どこにもない。領地、家臣、民、すべてが、自分に向かってくる。
「……」
ぎゅっと、手を握りしめる。
そして脳裏に浮かんだのは、先ほどの言葉だった。
「後見として立つ」
レオンハルト殿下の声。胸が、わずかに熱を帯びる。正直に言えば。
「……嬉しい」
小さく、零れた。
頼れる。間違いなく、支えてくれる。あの人がいれば、領地は守られる。きっと、自分一人では届かない場所まで、手が届く。
「……でも」
すぐにその思考を止め、首をゆっくりと振る。
「それでは、だめ」
守られるだけでは、いけない。
後見は“支え”であって、“代わり”ではない。
「私は……領主になるのよ」
声はまだ小さい。けれど、確かに芯があった。
その時、不意に思い出す。あの場で差し出された手。自分を支えた、確かな感触。強く引き寄せるのではなく、ただ支えるだけの距離、それでも。
「……あたたかい」
思わず、呟いていた。
口元が、わずかに震える。触れられたのはほんの一瞬だけれど、その温もりは、妙に鮮明に残っている。
胸の奥が、静かに騒ぐ。熱を帯びて。
「……いいえ」
一度目を閉じ、そして開く。
先ほどまでの揺れを、少しだけ押し込める。
「応える、のよ」
言い直す。決意に変えるために。
胸の奥の不安は、消えない。
怖いものは、怖いまま、それでも。
「……今だからこそ」
一歩、踏み出す。
足取りはまだ軽くはないけれど、止まってはいない。
リディアは、顔を上げた。
その瞳には、わずかに残る涙と、消えない覚悟が、宿り始めていた。




