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クロウフォード伯爵視点
崩落は、突然だった。
街道の一部が、不自然に沈んでいる。 その上を馬車が通った瞬間――地面が崩れた。
前輪が落ち、車体が大きく傾く。
「――っ!」
馬が嘶き、次の瞬間、馬車は横転した。
叩きつけられる衝撃。身体が投げ出され、荷の木箱が崩れて落ちる。
避けられない。腕に、脚に、鈍い音とともに直撃する。骨が軋み、砕けた。
「……っ」
息が抜ける。
脚が――動かない。遅れて、痛みが全身を貫き、従者たちの叫びが遠くで響く。
誰かが車体を持ち上げ、光が差し込む。
だが、伯爵は理解していた。
――命はある。
しかしこの身体では、おそらく、もう元には戻れない。
クロウフォード伯爵は、天蓋付きの寝台に横たわっていた。レオンハルト殿下の指示で、移された場所。そして、レオンハルト殿下の見舞いを受け入れる。
扉が静かに開く。
険しい顔をした彼は、無駄のない足取りで室内に入ってきた。
……来たか。
横たわったまま、視線だけを向ける。
「……レオンハルト殿下」
掠れた声。それでも、意識ははっきりしている。
「此度の件……境近くとはいえ、我が領内での不祥事、深くお詫び申し上げます」
わずかに頭を下げる姿を、伯爵は黙って見ていた。
……責を引くか。
「……命があるだけ、運が良かったのでしょう」
ゆっくりと息を吐きながら言う。
「同意します」
即答だった。慰めではなく、事実としての返答。その割り切りに、わずかに口元が緩む。
「街道はすでに封鎖し、修復に着手してます。加えて負傷者に対し、我が領より医師を増員しました。必要な薬もすべてこちらで手配します」
淡々と積み上げられる報告。
「……手厚いですな」
「当然です。貴領との交易は、我が領にとっても欠かせぬものですから」
……誠意と利害を、隠さない、か。
「……正直で、結構です」
「取り繕う理由がありませんので」
短い応答は無駄がない。
やがて、持参された品が示される。
封をされた瓶には上質な蜂蜜、そして乾燥薬草。
「回復の助けになれば幸いです」
「……ありがたく受け取ります」
身体は動かないが、思考は冴えている。
――この男は、崩れていない。
「……殿下。この一件……ただの事故ではありますまい」
わずかに声を落とす。
「ええ。すでに調査を進めております。必ず、責任の所在は明らかにします」
その言葉に、目を閉じる。
――任せられるか。
いや、任せるしかない。
「……任せます」
短く告げる。やがて、彼は一礼した。
「ご静養を。回復を、心より願っております」
足音が遠ざかり、扉が閉じると静寂がもどった。天蓋の内、薄く目を開ける。
――あの若さで、この判断。
自分が倒れた今、この地を支えられる者。
「……悪くない」
かすかに呟く。
視線を天井へと向けたまま、伯爵は静かに息を吐いた。
しばらくして、意識を身体に向ける。腕も、脚も、力が入らない。わずかに指先が動く程度だ。 だが――思考は、澄んでいた。
「……リディアは、まだ若い」
掠れた声が、静かな室内に落ちる。
傍らに控える家臣が、息を詰めた。
領地は、止まらない。 季節は巡り、税は動き、人は生きる。
「このままでは……どうなる?」
自分の代で、終わらせるわけにはいかない。
ゆっくりと目を閉じると、娘の姿が脳裏に浮かぶ。守らねばならない。
――だが、自分にはもう、それができない。
親戚を頼るか。血の繋がりは、形式として最も穏当な選択だ。しかし、守れるのか?
脳裏に、何人かの顔が浮かぶ。だが、そのいずれもが、決定的に欠けていた。
甘い、あるいは、野心が強すぎる。
リディアを支えるのではなく、利用する。
あるいは、守りきれずに押し潰される。
ここまで積み上げてきたものを、維持するだけでは足りない。さらに発展させなければ、周囲に飲み込まれる。
……できるのか?
妻の顔も浮かぶ。
しかし、首を横に振る。あれは、家庭を守る人間だ。それに、病も癒えていない。背負わせるには、あまりにも酷だ。
「……」
静かに、息を吐く。
残る選択肢は、ひとつだった。
「……陛下に、書状を」
静かに告げる。
数日後。 王都へ届けられた書状は、国王の前で読み上げられた。
そこに記されていたのは、明確な意思だった。
現当主クロウフォード伯爵は、負傷により統治不能と判断し、爵位を返上する。 次期当主として、娘リディアを指名すること。
そして、その後見人として、隣接領主であるレオンハルトを指名する。
謁見の間に、短い沈黙が落ちた。
やがて国王が、ゆっくりと口を開く。
「……理は、あるか」
クロウフォード領とレオンハルトの領地は、交易で深く結びついている。 ここで混乱が起きれば、周辺一帯に影響が及ぶ。
「……しかし、陛下」
静寂を破るように、ひとりの貴族が口を開いた。年嵩の侯爵。慎重さで知られる男だ。
「隣接領主に後見を任せるのは、いささか危ういかと存じ上げます。影響力が強すぎます。いずれ、クロウフォード領を取り込む恐れも――」
場の空気が、わずかに張り詰める。
別の貴族も、低く続けた。
「若年の女領主です。周囲が支えるべきであり、一人の領主に委ねるのは……偏りが出ましょう」
否定ではないが、警戒は明確だった。
「……」
国王は、しばし沈黙した。やがて、ゆっくりと視線を上げる。
「だからこそ、だ。分散させれば、責任も分散する。この状況でそれは、最も危うい」
静かだが、揺るがない声。
「レオンハルトは、すでに当該領との交易を担っている。利害は一致している。混乱させる理由がない」
わずかに、間を置く。
「それに、無用な欲で動く類ではない」
断定だった。
誰も、すぐには言葉を返せない。国王は、結論を告げる。
「安定を優先する。クロウフォード伯の願い、受け入れよう」
静かな一言、それで、すべてが決まった。
王の言葉は、そのまま法となる。若きリディアは新たな領主となり、 レオンハルトはその後見として正式に、その領地へ関与することになった。
報せを受けた寝台の上で、クロウフォード伯爵は、わずかに息を吐いた。
「……これで、いい」
すべてを手放すわけではない。
守る形を、変えただけだ。
薄く開いた視界の中で、娘の未来が、かすかに繋がっていた。




