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エリシア王女視点
馬車は、一定の速度で進み続けていた。
揺れは穏やかだが、止まることはない。 窓の外には、すでに見慣れぬ景色が広がっている。
帰路だった。
護衛は増やされ、配置も厳重になっている。 あの一件が、ただの事故ではなかったことを物語っていた。
「……」
エリシア王女は、何も言わずに座っている。
レオンハルト殿下とは、 あれ以来、ほとんど言葉を交わしていない。
謝罪は受けた。 それで、終わり。
――それで十分なはずだった。
「殿下」
向かいに座る侍女が、小さく声をかける。
「報せが入りました」
王女は、わずかに視線を上げた。
「……聞きましょう」
短く答える。侍女は一礼し、続けた。
「街道破壊の件、犯人が特定されたとのことです」
一瞬の静寂。
「……そう」
驚きは、ない。 ただ、その速さに、わずかに意識が向く。
「隣接領の領主による指示と判明。すでに拘束され――」
ほんのわずかに、間が置かれる。
「処罰が執行されたとのことです」
馬車の中に、静けさが落ちた。
「……もう?」
思わず、言葉が漏れる。早い。 あまりにも、早い。
「はい。証拠も揃っていたようで、見せしめとして――」
そこまで聞いて、王女は軽く手を上げた。
「もう、いいわ」
侍女は口を閉じ、再び静寂が戻る。
エリシア王女は、ゆっくりと息を吐いた。
「……見事なものね」
小さく、呟く。
あの場での判断。 そして、その後の処理。
現場を見ていなくても、分かる。
――迷っていない。
犯人の特定、拘束、処罰。
すべてが、一つの流れとして完成している。
「……領主として、正しい」
それは評価だ。そして同時に、 それ以上でも、それ以下でもない。
「……」
視線が、膝の上へ落ちる。
そこにあるのは、一冊の本。
丁寧に包まれたそれを、そっと取り上げる。
時祷書。重みのある装丁、開けば、鮮やかな彩色と整った祈りの言葉。
「……お詫び、ね」
静かに、呟く。
価値も、意味も、これ以上ないほど正しい贈り物と、わかる。
「……はあ」
わずかに、ため息が漏れた。
するべきことは多い。帰国すれば、すぐに動かなければならないこと、条約の承認、南方との調整、供給の整備。
――時間は、いくらあっても足りない。
「……私は」
指先で、ページをなぞる。
「謝ってもらうために来たわけではないのに」
当然だ。そんなものに、意味はない。
彼が優秀であることも、 正しく動くことも、最初から、分かっていた。
「……だから、動くのが正解」
本を閉じる。
それでも、胸の奥に、わずかな引っかかりが残る。
「……どうしてかしら。虚しい、わね」
ぽつりと、漏れる。
馬車は進む。
距離は、確実に離れていく。
その中で、 エリシア王女は静かに目を閉じた。
馬車は、変わらぬ速度で進み続けていた。
エリシア王女は再び目を開けて、膝の上の時祷書を静かに開く。
……本当に、完璧な贈り物ね。
指先で、そっと一枚、また一枚と頁をめくる。その途中で、ふと。
「……?」
違和感に、指が止まった。わずかに厚みが違う。頁の間に、何かが挟まっている。
「……これは」
ごく小さく、呟く。
慎重に指を差し入れ、 薄い紙を引き出す。折りたたまれた、一通の手紙。
「……手紙?」
胸が、ひとつ大きく鳴った。
「……」
息を整え、そっと紙を開いた。無駄のない整った文字は、レオンハルト殿下のもの。
「……」
視線が、静かに走る。
そこに書かれていたのは、 形式的な謝罪ではなかった。あの場で言い切れなかったこと。 状況の説明。 そして――王女の身を気遣う、個人的な言葉。
長くはないけれど、十分だった。
「……」
読み終えたあと、 すぐには頁を閉じなかった。しばらく、そのまま、 紙を持ったまま動かない。
やがてエリシア王女は、そっと目を閉じた。
「……」
胸の奥にあった、わずかな引っかかりが、 静かに、ほどけていく。
確かにそこに、 “個人としての言葉”があった。
「……ずるいわね」
誰にも聞こえない声で、ごく小さく呟く。
口元が、ほんのわずかに緩む。
「……本当に、困る方」
指先で、手紙をそっとなぞる。
責めるようでいて、 その実、まったく責めてはいない声。再び、手紙を丁寧に折り、 元の場所へと戻す。
時祷書を閉じる。
その動作は、先ほどよりも、 わずかに柔らかかった。
馬車は進む。
距離は、確かに離れていく。
それでも、胸の奥に残るものは、 先ほどまでとは違っていた。
エリシア王女は、静かに目を閉じる。
そこには――誰も知らない、彼女だけの表情があった。
その向かいで。
侍女は、ただ静かに座っていた。
視線は落とし、呼吸も気配も、限りなく薄く。まるで、この場に存在しないかのように。
けれど、見ていた。
目を閉じた王女の表情、わずかに緩んだ口元、胸の奥に何かを抱えたまま、それでも安らいでいる、その一瞬。
「……」
胸が、きしむ。
王女は、正しくあろうとしている。国のために、立場のために、迷いを飲み込み、選び続けている。
けれど今、その手の中にあるものは。ほんの少しだけ、“個人”に戻ることを許したものだった。
侍女は、わずかに視線を伏せた。
この想いに、名前を与えることはしない。
……私は、ずっと、お側に仕えます。
声には出さない。
誓いも、主張もしない。
それでも、その想いだけは確かだった。
馬車は進み続ける。
そしてその小さな車内には、誰にも知られないまま、二つの静かな想いがあった。




