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話は少し遡る。
私は、温泉の館へと向かう一団を遠くから見ていた。
かつてと同じ景色だが、その意味は明らかに違っている。視察ではなく、条約の締結。
本来であれば、大国の王都で行うこともできた。格式も威信も、その方が上なのだが、それでは遅れる。
護衛の増強、行列の編成、各地の通過許可、受け入れの準備。すべてを整えれば、時間がかかる。
そして何より――機密が、動く。
麻酔の技術、阿片の供給。どちらも国家の根幹に触れる。ゆえに、大国はこの地を選び、私もそれを受け入れた。
すでに必要なものは揃っている。技術、実例、教会の承認、そして――互いだ。
やがて、エリシア王女が館へと足を踏み入れた。その歩みは変わらず静かで、揺らぎはない。
だが私は知っている。ここへ来る意味を誰よりも理解しているのは彼女だ。
「お待ちしておりました、エリシア王女」
私は一礼する。王女もまた、わずかに頷いた。
「こちらこそ。迅速なご対応に感謝します」
相変わらず整っている声。しかし、少し何かが違った。視線がほんの一瞬だけ、こちらに留まった。
館の奥、用意された一室へと案内する。
すでに教会の高位聖職者が到着していた。白と金の衣。無駄のない佇まい。
「……お揃いですね」
王女が言うと、聖職者はゆっくりと頷いた。
「これは、神の御心に沿うものと認められております」
これで、この場の意味は確定する。
私は机の上の書面へと手を伸ばした。
「では――条約の最終確認に入りましょう」
阿片の供給、栽培地の管理、修道院による品質指導。そして、麻酔技術の段階的提供。
エリシア王女は、書面に目を通す。
すでに理解している内容だが、それでも確認を怠らない。
「……問題ありません。我が国はこの条件を受け入れます」
静かに言う。それは国家の意思だった。
私は、わずかに目を細める。
「こちらも同様に」
ペンを差し出す。一瞬の静寂の後、王女は迷わず筆を取り、署名する。続いて私が署名し、最後に聖職者が封蝋へと印を押した。
赤い蝋が、ゆっくりと固まっていく。
「……これで本条約は、神と人の双方において成立いたしました」
聖職者が告げる。
誰も、すぐには言葉を発さなかった。
だがその沈黙は、確定したものの重みだ。
エリシア王女が、ゆっくりと息を吐く。
「……これで、ようやく始まりですね」
私は、わずかに口元を緩めた。
「ええ。ここからが本番です」
その瞬間、王女の視線が、ほんのわずかに揺れた、すぐに戻った。
条約の印章が乾いてから、三日後の夜。
温泉の館は、昼とは別の顔を見せていた。
石造りの広間、無数の燭台、揺れる炎。
香の煙と、肉と酒の匂いが混ざる。
長卓には、鹿肉、香草の鶏、パン。銀の器が光を返し、楽師の弦が空気を満たしている。
さらに料理が運ばれてくる。
低い音を立てて置かれた大皿には、焼き上げられた去勢鶏が丸ごと盛られていた。皮は香ばしく色づき、切り分けられた断面からは、香草と脂の匂いが立ちのぼる。
……去勢鶏、個人的には複雑なのだが。
その隣には、柔らかく煮込まれた子牛の肉。濃いソースには見慣れぬ香辛料が使われており、甘みと刺激が混ざり合って鼻をくすぐった。
さらに、山うずらの小ぶりな焼き物。ひと口で食べられる大きさながら、しっかりとした野性味のある香りが残る。
パンもまた、数種類が用意される。
白くきめ細かなもの、粗挽きの粉を使った重いもの、小さく丸めた甘い焼き菓子。いずれにも、バターや蜂蜜、果実のジャムが添えられている。そして。
「……あれは?」
エリシア王女の視線が、ひときわ異様な料理に止まった。大きな焼きパイ。黄金色の表面に切れ目が入れられると、次の瞬間、中から小鳥が飛び出した。
「……!」
思わず、目を見開く。
小鳥は短く鳴きながら天井近くを旋回し、やがて開け放たれた窓の外へと消えていった。
周囲から、控えめな笑いと感嘆の声が上がる。
「余興の一つです」
私は静かに言った。
「……驚かせるための料理、ですか」
「ええ。味だけでなく、記憶に残すためのものです」
エリシア王女は、しばしその空を見つめたあと、ゆっくりと視線を戻し、周りを見る。
「……贅沢かつ、賑やかなものですね」
「外交は、こういうものです」
私は答える。
「条約だけでは足りません。顔を合わせ、酒を交わし、“敵ではない”と体に覚えさせる」
エリシア王女は小さく息を吐いた。
「……なるほど。理屈ではなく、感覚で納得させるのですね」
「ええ。理屈は、裏切られますから」
その言葉に、エリシア王女の目がわずかに細まるが、すぐに戻った。
やがて深い赤の酒の杯が運ばれる。
「条約の成立に」
声が上がる。
「友好に」
「繁栄に」
杯が打ち鳴らされる。
エリシア王女は、完璧な仕草で杯を取った。
楽の音が強まる。
笑い声、酒、緩む言葉、その中で。
「……あの規定、本当に徹底されるのか?」
小さな声。
「記録だの許可だの、面倒だ。多少は――」
「やめておけ。相手は、あの領主だ」
「だがな……」
私は、そちらへ視線を向けた。それだけで声が止まり、沈黙した。
エリシア王女が、それを見ていた。ほんの一瞬だけこちらを見て、そのままグラスに視線を落とした。
条約は結ばれた。
だが本当の交渉は――ここからだ。
エリシア王女視点
宴が続く。
やがて楽の調べが移ろい、場の空気がわずかに和らぐ。先ほどまで教会の高位聖職者と語らっていたレオンハルト殿下が、こちらへ歩みを向けた。
「エリシア王女。本日の宴、楽しんでおられますか」
「ええ。見事なもてなしです」
……いつもより、距離が近い?
「それは何よりです。……少しは、肩の力が抜けましたか」
予想外の言葉だった。私は、ほんの一瞬だけ目を瞬かせる。
「……どうでしょう」
わずかに視線を外す。
「そのように見えますか」
「ええ。ほんの少しだけ」
穏やかな声だった。
……見ているのね。
胸が、わずかに揺れる。
「……それは、油断ですね」
小さく言う。
「王女としては、減点でしょうか」
「いいえ。人としては、加点です」
即答。その言葉に一瞬、息が止まる。それは不快ではなかった。
「……では、少しだけ許しましょう」
ごくわずかに、笑みが混じる。
レオンハルト殿下もまた、ほんのわずかに口元を緩めた。
「……そういえば。先日は、ありがとうございました。いただいた匂い袋。とても助かりました」
一瞬の沈黙。
「……それは、何よりです。お役に立てたのであれば」
「ええ。“気休め”以上でした」
自分で言ってから、わずかに視線を逸らす。
……言い過ぎたかしら。
しかし。
「……それは、大変光栄です」
返ってきた声は、柔らかかった。空気が、微かに変わる。
その時だった。レオンハルト殿下の側近、マルクが静かに一歩進み出る。表情は崩さないまま、彼の耳元へと身を寄せ、低く言葉を落とした。
「……殿下、火急の件です」
レオンハルト殿下の目の色が、僅かに変わる。
「……分かった」
ごく小さく応じると、すぐにこちらへ向き直った。
「失礼いたします、王女殿下。急ぎの用ができました」
「……ええ」
淀みのない返答。だが、その奥にほんのわずかな引っかかりが残る。
彼は軽く一礼し、その場を離れた。
――待って。
喉の奥まで、言葉が上がる。
「……」
ほんのわずかに唇が開きかけて、止まる。
ここで呼び止めて、何を言うつもりなの?礼、それとも別の何か?そして何より、王女として、それは許されない。
静かに息を整え、 開きかけた言葉を、意志で押し戻す。
私は、視線を何事もなかったかのように、グラスへと戻した。




