第9話「権力の味と新しいどら焼きの目覚め」
明朝の涼しい空気が、石造りの街並みを薄青く染め上げていた。
路地裏にあるルミナの店の前には、すでに数人の常連客が集まり始めている。
窓のよろい戸を開け放つと、前日とは少しばかり違う焦しを帯びた柑橘のように爽やかな甘い匂いが、道行く人々の歩調を強制的に緩めさせた。
客の一人が木製のカウンターへ身を乗り出す。
「おいおい、今日はなんだかすっぽりと腹に収まりやすそうなええ香りがするじゃねえか。ギルドの野郎どもに粉や砂糖を締め上げられて、店を畳むって噂を聞いたが嘘だったのか」
客の粗野だが心配そうな声音に応えるように、タクミは新しく焼き上げた茶色い円盤を包み紙に乗せて手渡した。
「流通権を握られたのは確かです。ですが、美味しいものを提供する方法はひとつだけじゃない」
生地そのものの仕上がりは昨日までの黄金色と異なり、少しだけ沈んだ薄茶色を呈している。
精製された白い砂糖の代わりに、シトラの実の蜜を生地自体にも練り込んで焼き上げた専用の皮だった。
中のこしあんと生地の相性を極限まで無駄なく引き出すために、皮にある粘りを少し重たく設定してある。
そのずっしりとした重みを受け取った客は、いささかの躊躇も見せずに大きな口で一気に食らいついた。
咀嚼の音が短く鳴る。
男の喉仏が力強く上下し、嚥下された直後、彼の目の端に驚きの色がはね上がった。
「なんだ、これ。昨日のふかふかしたすんげえ甘みとは、全く別物じゃねえか」
「生地を薄くし、豆の皮を取り除いてなめらかにしたこしあんです。味の切れを良くしてあります」
「噛む必要がねえ。気付いたらもう一つ丸ごと腹ん中に入っちまってたぞ!」
男は空になった紙包みの裏まで舐め回し、顔を紅潮させて追加の銀貨をカウンターへ放り出してきた。
タクミは手慣れた動作でそれを受け取りながら、店先へ立つルミナと視線を交わして小さくうなずいた。
流通を妨害されたという負の事実が、逆に野に下った新しい味への爆発的な興味を生み出している。
大市場からの仕入れを停止されたという噂のおかげで、一部の野次馬までが詰めかけ、その足は昼も夜も途絶えることがなかった。
だが、大繁盛を楽しむ間もなく、店先を包む騒がしい空気が二つに割れた。
人いきれの奥から、金と銀で彩られた重たい肩当てを付けた数人の武骨な護衛に道を開かせながら、一人の恰幅のいい男性が歩み出てきたのだ。
青い絹に金糸で家紋をあしらった上等な礼服の質感や、杖の先にはめられた宝石の照りが、この貧しい裏通りには場違いすぎるほどの華やかさを放っている。
彼こそが、ギルドの後ろ盾であり、街の経済圏の多くを牛耳っていると囁かれる有力貴族のロナルド公爵であった。
彼の鋭い鷲のような鼻筋と、獲物を推し量るような冷ややかな細い片目がルミナを射抜く。
「この狭苦しい薄汚い通い路で、異様な熱気を持った臭いが暴れていると聞いてはるばる足を運んでこさせられた。貴様らのような泥水で生きる素人が、我々の直轄組織に属する問屋市場に歯向かおうとしているというのは真のことか」
周囲の客たちは貴族の威圧感に気圧され、一様に青い顔をして数歩背後へと下がる。
ルミナは口元を引き結んだが、わずかに爪先が後退しようとした。
タクミはすげなく横へ歩を踏み出し、彼とその背後にいる護衛たちと対峙するような形で完全に正面に立ち塞がる。
「歯向かっているわけではありません。正規の商人が商品を売らないと言うので、私たちが自ら足を伸ばして規格外の品を集め、新しい物を作った。それだけの真摯な商売です」
「生意気な口を利く」
貴族の男は微塵も怒った様子は見せずに鼻で笑った。
「規格未満の屑を寄せて拾い上げた粗末な雑穀の泥遊びになど、興味もないし食す価値もない。だが、我々の商人が管轄していない未知の甘みなどというものが身分の低い者たちの間で持て囃されることは、この土地の正しい舌の規律を蝕む害悪だ」
その物言いからは、自身が守り育てている高度な経済共同体と文化全体への強固なまでの庇護欲と、純粋なプライドが煮えたぎり零れ落ちそうになっているのがわかった。
単なる悪意ではなく、社会の仕組みを統括する者としての秩序思考。
タクミは彼を敵対者としてのみを見ることをやめた。
これは和菓子の歴史でも何度もあった旧態依然とした高級菓子の常識による頭ごなしの弾圧であり、それを打ち破る方法は決して刃物や言葉による言い負かしなどではない。
職人としての心胆を試し、味覚のみで理を認めさせていく勝負だ。
タクミは静寂の中、カウンターの下から最も美しい輝きを放ち、少し熱を残した一つを取り上げた。
「これが、規格未満のゴミであると言い切る前に、あなたのその規律正しい優れた感性で、このこしあんのどら焼きを試していただけませんか」
「……この私に、泥のような平民の食べ残しを口にしろと言うのか」
「本物の良き規律を知っているお方であれば、見ずに切り捨てることはしないはずです」
一撃必殺の職人の申し出。
護衛たちが剣の柄へ一斉に手をかけたが、ロナルドはその手を挙げさせて動きを止めた。
彼は鷹のように相手の目の奥を探る。
そして、侮蔑を含ませたまま紙に包まれた褐色のそれを二本の指だけで摘み上げた。




