第3話「硬い残りパンの復活と底辺の労働者がひれ伏す魔法の甘み」
中空に浮かぶ太陽が鈍色の薄雲を透かし、異国の石畳を白く浮かび上がらせていた。
早朝の平民街を支配する刺すような冷気の中、ルミナの店の狭い厨房だけはかまどの鮮烈な熱で満たされている。
信じられないものを見るかのように、両手で口元を覆ったまま固まっていたルミナが、深く息を吐き出して瞬きをした。
彼女の視線の先には、美しい薄紫色を帯びてなめらかにまとまった紅魔豆のペーストが、鍋の肌に寄り沿うように静かなツヤを放っている。
「これが、紅魔豆の本当の姿なの……?」
信じがたいものを確かめるように、彼女は自らの唇に少しだけ残った甘みの余韻を舌で舐め取った。
タクミは手元にある粗末な麻布を使って、かまどから下ろした鍋の縁を丁寧に拭き清める。
職人として材料に敬意を払い、扱う道具を常に美しい状態に保つための長年の習性が、ここでもごく自然に指先を動かしていた。
「はい。豆の性格をよく見て、一番心地良く膨らむように手助けしてやっただけです」
「手助けって……、あんな硬くて臭い泥だらけの底辺の餌を、どうしたらこれほどまろやかで甘い宝石に変えられるというの……」
驚嘆のあまり言葉を繋げずにいる彼女へ、タクミは静かなまなざしを返す。
「職人の腕など、たいした魔法じゃありません。ただ、見つけるための順番を知っていただけです」
とはいえ、完成したのは極上の粒あんだけだ。
餡はあくまで中身であり、器となるべき菓子そのものではない。
日本の和菓子屋であったならば、これを薄い求肥で包んで大福にするか、小麦と卵を通した生地でどら焼きを焼くのが王道だった。
しかし、現在のルミナの店には粗悪な麦の粉すらほとんど残っていない。
あるのは前日に固まり切って商品にならなくなった、掌の中で石のように硬化している黒ずんだ売れ残りのパンが五つのみ。
タクミはカウンターのガラス瓶に入っているその商品を見つめ、思案を巡らせてから口を開く。
「ルミナさん。まずはこの残ったパンをすべてオーブンの横へ運んでください」
「これをどうするの。こんな岩のように硬いパン、とてもじゃないけれど売れやしないわ」
「蒸気と熱を使って蘇らせてから、細工をします。今はそれだけの元手しかありませんから」
タクミはかまどの炭が発する熱の強くなりすぎた箇所を避け、鉄板の端に浅く張った水の入った小鍋を据え置いた。
水面が微かに揺れ始め、細かな蒸気がゆっくりと立ち上り始める。
彼は水で濡らした布巾を固く絞り、その硬いパンを包み込んでから、蒸気を適度に拾える小鍋の蓋の上へと乗せた。
数分後。
タクミが布巾を取り除いてナイフを入れると、表面から白く細かい湯気を立てて、パンの繊維が嘘のように柔らかく開いていった。
断面を軽く指で確かめ、そこに今しがた炊き上げたばかりの熱い粒あんを惜しげもなく山のように乗せる。
もう半分のパンの蓋を押し当てると、荒い麦の断面からとろりとした薄紫色の粒がわずかに溢れ出した。
異世界の乾いた空気の中へ、焦げた麦のほろ苦さと、砂糖の熱された奥深い甘さが混じり合った、濃密な香りが放たれる。
ルミナは再びごくりと喉を鳴らし、釘付けになったまま呟いた。
「……すごく、お腹が空いてくる匂い」
「すぐに店の表へ出して、木箱の上に陳列してください。一つを半分に切って、中身が見えるように皿に置きます」
ルミナは言われた通りに素早く動き、店の入り口側の小さな日よけの下へ即席の陳列台を設けた。
冷え込む朝の通りには、煤けた作業着を着込んだ分厚い胸板を持つ工場夫や、市場へ向かう大柄な男たちの足音が断続的に響いていた。
普段であれば誰もルミナの寂れた店先になど視線を向けない。
だが、湿り気を持った濃密な甘い匂いが戸口から通りへ流れ出した瞬間、通りすがりの中年の荷運び夫が急に鼻をひくつかせて足を止めた。
彼は乱れた髭を撫でながら、店先の陳列台を見下ろす。
「おい、姉ちゃんよ。朝っぱらからえらく腹にこたえるいい匂いをさせてるじゃねえか」
男は分厚い手を木箱の縁に掛けた。
だが、そこに置かれた黒いパンの断面から見えている紫色のどろりとした物体を見て、途端に大きな渋面を作る。
「……なんだこりゃ。まるで泥濘んだ沼の泥じゃねえか。せっかくいい匂いがするのに、なんだってこんな気色の悪いものをパンに挟んでるんだ」
「あ……えっと、これは、その」
言葉に詰まるルミナの背後から、タクミが静かに歩み出て深々と頭を下げた。
「中身は紅魔豆を特別に仕立てたものです。見た目は見慣れないかもしれませんが……、もし騙されても構わないと思っていただけるなら、そこに切ってある試食用の一粒を味見していってください」
男は目を丸くしてタクミと皿の上の切れ端を見比べた。
「紅魔豆を、そのまま食うだと。兄ちゃん馬鹿を言っちゃいけねえ。あんな泥くさい飼料を口に入れたら、腹の虫もひっくり返るってもんだ」
拒絶を孕んだきつい口調だった。
しかし、男の鼻腔からはその芳醇に香る誘惑をどうしても排除しきれずにいた。
タクミは柔らかく微笑んだまま、押し付けがましくない距離感を保ってただ待ち続けた。
男は舌打ちを一つ落とす。
そして怒ったような動作で手掴みのまま小さな切れ端を口内へ放り込んだ。
彼は、苦味を覚悟で無理やりに顎を動かした。
ほんの一秒後。
男の無精髭に覆われた顎の動きが、彫像のように硬直してぱたりと止まる。
大きく見開かれたシワだらけの目が、手元からルミナ、そしてタクミへと忙しなくさまよった。
温められて反発力を取り戻した麦の香ばしさと、舌を包み込むような粒あんの熱。
豆独特の嫌なエグ味は存在しない。
ただ純粋に舌の奥に熱を持たせて広がる包容力を持った甘みだけが、男の疲れ切った脳髄を一瞬で叩き起こしたのだ。
男の喉仏が大きく上下し、分厚い唇の隙間からほうと熱い吐息が漏れる。
男は瞬時に残った自分の試食用の一欠片すら丸呑みにした。
彼の手が震えるように素早く動く。
腰袋の中から青黒い金属色の貨幣を二枚掴み出し、木箱に乱暴に叩きつけた。
「……姉ちゃん、そこにあるやつ、三個……いや全部俺によこせ。袋に入れろ」
「ぜ、全部ですか。でも、他の皆さんの分が――」
「構うもんか。これに出会っちまったのが俺の運命だ。こんなにとんでもなく力が湧いてきそうな飯、他の職場の奴らには絶対に教えてやらねえ」
男は袋を受け取るなり、大きな口を開けて残りのパンを二口で食いちぎった。
足早に石畳の裏通りへ消えていく。
貨幣が木箱の上でかららと高い音を立てて回っている。
店を開けてから物の数分で常連を確保した光景に、ルミナは固まったまま青黒い硬貨を見下ろした。
「ルミナさん。これでまた、新しい砂糖とすこし良い小麦粉を買えますよ」
タクミの悪戯っぽい笑顔につられ、ルミナも静かに肩を崩して破顔した。
「……これほどの魔法を掛けられるなら、あなたの言う通り、きっとお店はすぐに良くなるのね」
二人は朝の冷気の中に残された柔らかな熱を共有しながら、次に作るべき大きな飛躍に向けた決意を確かに分かち合った。




