第4話「鉄板と炎が彩るきつね色のハーモニー」
あれから数日の時間が静かに流れ、ルミナの店には明確な変化が訪れていた。
朝食用に売り出されたあんこ入りのパンは、底辺の労働区に住み着いている筋骨隆々な男たちの間で凄まじい反響を巻き起こした。
彼らは毎朝店に群がり、少しばかり焦げついた香りがしても怒るどころか、その甘みに唸り声を上げて財布の紐を緩め続けた。
おかげで机の上の木箱には、この店にとって数カ月ぶりとなるほどの小山のようなどっしりとしたまとまった銀の硬貨が輝いている。
タクミはそれらの貨幣を袋にまとめ、厨房の中で深く息を吸い込んだ。
「これでようやく、一からちゃんとした俺の……俺たちの菓子が作れます」
ルミナはタクミの肩にしがみつくように覗き込み、手垢のついた帳簿を見つめて静かにうなずいた。
「ええ。これなら、上質な小麦粉も市場で一番新鮮な大羽鶏の卵もたくさん買えるわ。砂糖は今の三倍の量を手に入れられる」
二人はすぐさま籠を手に取り、市場の中間から上位層へ向けた上質な仕入れを済ませた。
厨房に戻ると、かまどの上の分厚い鉄板に十分な火が回るまで時間をかける。
タクミは腕まくりをして、大きめの深い木鉢の前へ立った。
中に入れられているのは、細かい網目でふるいにかけられた滑らかで白い小麦粉と、丸々とした弾力を持つ薄黄色の卵。
そこに貴重な天然の澄んだ蜂蜜を少量の水で溶かし、一定のリズムを保ちながら生地を練り上げ始める。
「ルミナさん。泡立てを途中で止めてしまうと、空気が偏って熱が死んでしまうんです。だから、ここは一気にいきますね」
泡立て器の代用として用いていた太い枝の束が、金属と木の間で心地よい鋭い音を立てて旋回する。
なめらかな生地の粘度が次第に持ち上がるようになり、空気をたっぷり含んだ艶やかなアイボリーの色合いに仕上がる。
かまどの熱が限界近くまで上昇したのを見て、タクミは鉄の板へ少量の油を引き、素早く不要になった布で見えないほど薄く均等な膜を作り広げた。
静かな厨房の中、空気が引き締まる音がする。
職人としてのタクミの顔から一切の笑みが消え、熱と水分の見極めに全神経を研ぎ澄ませていた。
ルミナはその真剣さに飲まれ、ただ息を潜めてタクミの横顔と掌の先を見守り続けている。
彼は生地の入ったお玉を絶妙な高さで静止させると、鉄板の表面に向けて滑らかな軌道を描くようにぽとりと流し込んだ。
十数枚の厚手の円盤が、寸分違わぬ大きさと形状を保ちながら次々と鉄板の上へと配置される。
ほんのわずかな微音。
ぷつぷつと小さな気泡が表面に集まり、下にある熱が生地のふくらみを限界まで高く持ち上げている証拠がはっきりと確認できる。
「今です」
タクミは手首の柔らかなスナップだけでへらを下にくぐらせ、鮮やかにすべての生地を反転させた。
焦げるか焦げないかの、きつねの毛皮のように美しい黄金色に染まり上がった均等な丸い表面。
芳醇な卵の甘さと、焼けた蜜の絡みつくような心地好い匂いが、狭い空間にいる二人の鼻孔を一気に満たす。
ルミナは美しすぎるそれに魅了され、自らの胸元でギュッと両手を握りしめたまま声を出せずに喉を詰まらせた。
網の上に上げられて粗熱が取れた一枚一枚の生地。
タクミはすぐさま隣の鍋で微温を保たれていた最高状態の新鮮な粒あんを厚くたっぷりと盛る。
もう一枚の生地を被せてしっかりと縁を押さえ込んだ。
どっしりとした重みが手のひらを刺激する。
和菓子の王様であり、すべての甘味における最頂点の一つとも言える存在。
「これが俺の、世界で一番おいしいと思っている菓子。……どら焼きです」
「どら、やき」
慣れない発音をなぞりながら、ルミナがそれを受け取る。
両手の中でほんのりと発熱を続けるその丸い固まりを、彼女は意を決したように静かに齧った。
まず歯を受け入れるのは、弾力を持ちながらも噛み切るとすぐに消えていくような極上のふんわりとした生地。
次いで、熱せられた蜜としっとりとした深い粒餡の甘さが、二重の層となって舌に広がる。
パサつくなどという概念が存在しない。
すべてが口内の水分と寄り添うように融解し、鼻の奥へと芳醇な抜ける甘みを広げていった。
凍えきった胃の腑に春の陽だまりを落とすかのように、体の芯からじんわりと優しい熱を呼び起こしていく。
「おいし……、信じられない。これなら王宮にいるような人でさえ、絶対に一口で跪くわ……」
こぼれ出るのは感嘆などという生易しいものではない。
魂の奥深くから引き摺り出された降伏の呟きだ。
互いの視線が交差する。
タクミの熱量の籠もった瞳の奥に宿る揺るぎない覚悟と情熱が視界を通して転写される。
二人の間に存在していた客人と恩人の見えない薄い距離感が、温かな熱によって溶かされる。
ルミナは口元まで頬を赤く染めながら、もう一口、今度は心底の底から破顔してその愛しい円盤を飲み下した。
完成したそれはすぐさま店先にうずたかく塔のように積まれた。
朝から香りの噂を聞きつけた労働者はおろか、生地があがる焦しの香りに惹かれて、街の貴族層の使いや子供、主婦までが続々とルミナの店の前へ列を形成し始める。
「これはなんてお高そうな食べ物なんだい。お嬢ちゃん」
裕福そうな身なりを持った婦人が、おそるおそる並べられたばかりのそれへ指を伸ばす。
「これは異国の……私たちの、特製のどら焼きです。一口食べれば、明日が変わりますよ」
ルミナの弾んだ声と眩しいばかりの温かな笑顔が響く。
陳列されるそばから銀や銅の貨幣が飛び交う速度が加速していく。
どら焼きは飛ぶような絶え間ない勢いで表舞台へ放たれ始めた。
新しい世界の歴史が確実に動こうとしている足音を、タクミは熱を帯びるかまどの前で深く静かに噛み締めていたのだった。




