番外編「薄汚れた裏通りの奇跡」
◇ルミナ視点
見上げる空は分厚い鉛色の雲に覆い隠され、太陽の温もりすらろくに届かない。
石畳の隙間には前夜に降った泥混じりの雨水が汚く溜まり、行き交う人々の歩みをさらに重苦しいものにしていた。
両親が病に倒れて静かに息を引き取り、この小さな石造りの焼き菓子店が私一人の両手へ委ねられてから、どれほどの時間が経ったことだろう。
カウンターの隅に置かれた色褪せた金庫の底を指先でなぞっても、触れるのは数枚の最も価値の低い青銅のコインのみ。
明日の小麦を買うにも足りず、今日はただ一つ余っていた水を吸いすぎた茶色い固焼きパンを布にくるむことしかできなかった。
(お父さん、お母さん。……私、もう店を開けられないかもしれない)
胸の奥が冷たく締め付けられる。
自らの店という唯一の居場所を失えば、若い娘が身一つで底辺の平民街を生き抜く術は、裏の顔役どもに買われる道くらいしか存在しなかった。
見えない恐怖に追い立てられるように、私は当てもなく自身のパンの入った布袋を抱えて大通りを横切り、誰も近づかない湿った狭い裏路地へ足を踏み入れたのだった。
生ゴミが発酵する強い酸味が風の淀みに溜まっている場所だった。
ふと、レンガ造りの建物の窪みを覗き込んだ私の目は、大きく見開かれた。
そこに一人、見たことのない奇抜なほど綺麗な黒い髪を持った男の人が倒れ伏していたのである。
彼の身なりは立派な商人でもなく、兵士でもない不思議にゆったりとしたものを着ていたが、その顔は青ざめてひどく脂汗をかいていた。
(……こんなところで倒れたら、野盗のような連中に服ごと剥ぎ取られて殺されてしまう)
私と同じように、何も持たず寄る辺のないまま消えていく命。
彼を無視して通り過ぎればよかった。
自分自身の明日の命すら危ういのだから。
けれど体が頭の思考を裏切るより早く動き、気づいた時には彼の前にすがりついて私は叫ぶように声をかけていたのだ。
重い体を引きずるようにして私の唯一のごはんだったその冷たい固焼きのパンを水と一緒に彼の喉へ無理やりに押し込む。
彼は長い間咳き込んだ後、私の目を見てひどく真っ直ぐに……感謝をしてくれた。
彼とともに這うようにして店へと帰り着いたのがすべての運命の始まり。
彼の名は、タクミ。
その青年の視線は常に私ではなく、店の中に並ぶ使い込まれた調理器具やかまどの残り火へ注がれ続けているのがわかった。
そして彼は、私の唯一の銀貨を持ち出し、市場で一番のくず物とされていた紅魔豆を大量に仕入れてきたのである。
『これで、異世界のルミナさんの店に……恩返しをさせてください』
かまどの前に立つ彼の姿は、行き倒れていた少年のものではなくなっていた。
まるで戦場に向かう熟練の騎士のように、あるいは誰も触れたことのない魔道書を開く魔法使いのように。
彼は三度にわたって豆の苦い泥水を流し、少しだけの砂糖と共に丁寧に水気をまとわせていった。
やがて、湯の匂いが全く新次元の甘みとして反転し、蜜の香りが私の鼻腔を満たしていく。
手渡された木さじの先の黒紫の宝石を舌先に這わせた途端に、私はすべてを……私自身の崩れかけていた明日さえも、その熱い包容力によって救われてしまったのだった。
私を路地裏で救い出したのは、彼が持つその不思議な技術だけではない。
いつも私の少し後ろに歩幅を合わせてくれる優しさ。
商会の代表として表で私が震えている時には、必ず後ろから肩をそっと支えてくれたその揺るぎなき大きな手の温度。
パンに挟んだみすぼらしいものが初めて売れた日に交わした弾けたような笑い合いも、市場からの流通を完全に切られて途方に暮れた夜に私の不安を静かに撫で下ろしてくれたあの低い声も。
今の私は彼と共にあることで、誰よりも無敵な一人の立派な商店の主なのだ。
裏庭で、冬の冷気の合間に二人で座り込んだ今朝方の光景を思い出す。
彼が握り返してくれたその職人の分厚い皮膚の感触が、この身の奥へ確かな希望と誇りを刻み込んでいた。
タクミ。
これからどれほどお店が世界に広がろうと、私はこの店と、あなたの隣だけを愛し歩んでいくことを誓う。
それが私が見つけた、何にも代えがたい大切な唯一の幸せなのだと知っているのだから。




