エピローグ「甘く香る未来への約束」
あんこ商会を大ギルドの介入すら寄せ付けない巨大な独立店舗へと成長させてから、さらに数ヶ月が経過した頃。
王都には少しばかり穏やかな春の陽射しが戻り始め、長い冬の眠りから覚めかけた若草や花々の芽が石畳の角から顔を出し始めていた。
街角では子どもたちが竹網の駕籠で作った粗雑なおもちゃを振り回して走り回り、その手には必ずと言っていいほど、黒あんやシトラ蜜のこしあんが詰まった茶色いどら焼きが握られている。
この国における和菓子とは、特権階級が秘密裏に行う贅沢品等ではない。
タクミが狙い定めて落とし込んだ通りに、全ての人が等しく安らぎを共有できる形として完全に日常へ溶け込んでいた。
今日は商会の月に一度の定休日。
かまどにも火が落とされ、常に粉と熱気に支配されている厨房も深い静寂に包まれていた。
私服である動きやすい薄手の綿着へと袖を通したルミナは、店の裏口から出ようとして不意に足を止めた。
すぐ隣を歩いているタクミの右手に、小さな藤の籠が下げられていたからである。
「タクミ。休みの日は少しでも休まなくては駄目だって、私がいつも言っているのに。……またその籠の中に持ち帰りの仕事道具を忍ばせているんじゃありませんか?」
ルミナは腕を前で組み、わざと頬を少し膨らませたような呆れ顔を作ってみせた。
「いえ、仕事ではありませんよ。昨日最後に焼き上げた少しだけ形の不恰好な跳ねっ返りと……美味しい特例を少しだけ忍ばせてあるだけです。外で一緒に食べませんか」
タクミの言葉にルミナは顔を緩ませて微笑み、「それなら大歓迎よ」と弾むように歩調を合わせた。
二人が足を向けたのは、街の中心から少しだけ離れた、王都を一望できる小高い丘の上だった。
長い冬を越えたばかりの芝生は柔らかく、頬を撫でる風にはまだ冷たさがすこし孕んでいるものの、十分に穏やかで清らかだ。
二人は慣れた様子で木の下に小さな布を広げ、ごく自然に肩先が触れ合うほどの距離で腰を下ろした。
眼下にはレンガ造りの家々がパッチワークのように広がり、その中でひと際大きな日除けを出しているあんこ商会の屋根が小さく確認できる。
タクミは膝の上に置いた籠を開け、中から一枚の分厚い紙に包まれたどら焼きを取り出した。
「ほら。これが今日のためのものです。初めてルミナさんが売ってくれた、あの固焼きパンの再現とはいきませんが……あの日の思いをそのまま込めて焼いたものですから」
手渡されたそれは、職人の流れるような量産のための技術を使って形作られた完璧な円盤等ではなかった。
微かに縁が焦げつき、蜜もところどころ滲み散らしている、不細工でどっしりとした手作りの重みだけが宿る物体。
ルミナは両手でそれを受け取り、不思議そうに見上げた後、迷うことなく大きく口を開けてかぶりついた。
その途端。
ふんわりとした柔らかい反発だけではなく、生地に忍ばせられていたかすかな荒い麦塩っぱさと、その奥に潜む完璧に練り抜かれたこしあんのなめらかさが調和を持っていちどきに口内に広がった。
「ん……おいしい。すごく力強くて、でもなんだか懐かしさのあるあんこ……」
彼女はごくりと飲み下し、口元を手の甲で無造作に押さえた後、心底愛おしそうに自身の掌の中に収まるその食べかけを見つめた。
タクミは横顔をその日に向けてから、深く長い息を吐いた。
「俺は、前の世界で死にかけて、ここへやってきました」
風が、二人の間を静かに吹き抜けていった。
「でも、あの事故で元の人生を全て失ったけれど、俺の手元に何も残らなかったわけじゃない。あの路地裏で見えない運命のブレーキを踏み外して、そのままルミナさんの前に打ち上げられたこと……それこそが、何にも代えがたい奇跡だと思っています」
「……タクミ」
「これからも、あなたにだけ作って食べてほしい菓子がいくつもあるんです。それを生涯かけて……同じこの丘の景色で一つずつ隣で見せていかれたら、これほどの職人冥利はありません」
告白ともとれるその静かで確固たる言葉の重力に、ルミナの眼が潤みを見せ始める。
彼女は言葉を返す代わりに、残りのどら焼きを大切そうに自身の胸の中へ少しだけ抱き込んだ。
そして顔を伏せたまま左手をそっとタクミの右の掌の上に向けて滑らせていった。
重なり合った熱はすぐに指と指の間をぬって繋がり合い、職人のそれと商人のそれが力強く結び目を成す。
「生涯かけて、なんてずるいわ。絶対に逃げ出せないようにお店ごと私が雇い尽くしてあげるんだから」
泣くのを堪えるための軽口が、震える吐息とともに甘く丘の上に溶けていった。
雲の切間から完全な春光が差し込み始め、見下ろす街そのものが彼らの足元にあるかのように穏やかに輝いている。
異世界へと渡ってきたたった一つの職人の意志と、全てを失いかけていた健気なその少女は。
最も美味しく、最も平易な形の甘みを分かち合う。
永遠に続く穏やかな日差しの中へと、二人の歩幅はどこまでも等しく並んで続いていった。




