おれ、正体を悟られて、それでも隠し通す
◇ ◇ ◇
逃亡生活八日目の朝。おれは寝不足の目で天井を見つめていた。
昨夜はほとんど眠れなかった。当たり前だ。「明日、あの人が露店に来る」と分かっていて、ぐっすり眠れる神経があったら見てみたい。
選択肢は、いくつかあった。
ひとつ、今夜のうちに町を出る。荷物をまとめて、ミレに何も言わず消える。逃亡者としては、一番安全な選択だ。
だが――昨日のミレの顔が、頭をよぎる。「行くならちゃんと『行く』って言ってよね」。あの真面目な声。
それに、だ。もし黙って消えたら、ミレは何も知らないまま騎士団の追及を受けることになる。「昨日まで一緒にいた雇われ人が急に消えた」なんて、それこそ一番怪しい状況じゃないか。
おれが消えることが、ミレを守ることになるとは限らない。
なら、選択肢はふたつ。今日、正面から乗り切るか。もしくは――ちゃんと事情を話して、逃げる算段をミレと一緒に立てるか。
「……いや、後者は駄目だ」
おれは首を振った。事情を話すってことは、「おれが勇者判定を受けた逃亡者だ」と明かすってことだ。それはミレを、ただの巻き込まれ役から、共犯者に変えてしまう。もし騎士団に捕まったとき、「知らなかった」ミレと、「知ってて匿ってた」ミレでは、罪の重さが天と地ほど違う。
ミレを守るなら、ミレには何も知らせない。それが一番、あの子のためだ。
結論。今日は普段どおり店番をする。そして、リーゼロッテさんが来たら、堂々と乗り切る。それが駄目そうなら――そのときは、ミレを巻き込まない形で、一人で逃げる。
覚悟を決めて、おれは宿を出た。
◇ ◇ ◇
露店を開いて一時間ほどした頃、その人はやってきた。
昨日と同じ、銀の鎧。今日は部下を二人連れている。市場の人混みの中でも、その姿は嫌でも目を引いた。
「ミレという行商人の店は、こちらか」
平静を装って接客していたおれの隣で、ミレが「ひゃっ」と小さく声を上げた。それから、頑張って営業スマイルを作った。
「は、はい! あたしがミレです! 何か……」
「昨日の続きだ。少し話を聞きたい。この店の商品仕入れの経路と、お前自身の身元について」
リーゼロッテさんの視線が、ちらりとおれを見た。一瞬。だが、おれには永遠に感じられた。
「そちらの男は、雇われ人だったな」
「え、あ、はい! サノです! 五日前にうちに来てもらって」
「五日前、というと」
「メルクの町の手前で、荷車を助けてもらって、それで……」
やばい。ミレが正直に話している。悪気はない。彼女は本当に、後ろ暗いことが何もないと思っているから、隠す理由がない。だが、その正直さが、おれの首を絞める。
「メルクの町の手前、か」
リーゼロッテさんの目が、すっと細くなった。おれの脳内で警報が鳴り響く。それ、街道でおれを尋問した場所からそう遠くない。時期も一致する。まずい、まずい、まずい。
「サノ、と言ったな。少し確認したい。お前、出身は」
「東の方の、田舎です。トサツ……いや、失礼、ちょっと訛ってて聞き取りにくいと思うんですけど、東方の小さい村で」
咄嗟に村の名前を言いかけて、慌てて誤魔化した。トサツ村は前に街道で「アル」として名乗った村の名前だ。同じ名前を出したら、一発でアルとサノが繋がる。危なかった。
「訛り、ね。……お前、以前どこかで会っていないか。二度目だが、聞かせてくれ」
昨日と同じ質問。だが、今日は距離が近い。今日は、部下が二人いる。今日は、逃げ場が――ない。
おれは、深呼吸をひとつした。
堂々とする。それが掟だ。
「騎士さまに覚えていただけるような人間じゃないですよ。おれ、ただの雇われ荷運びなんで」
「そうか。……面妖だな。声も、背格好も、既視感がある」
「よく言われます。地味な顔なんで、誰かに似てるって」
「地味、か。それにしては、随分と堂に入った受け答えだ。普通、王国騎士に詰問されて、そこまで平静ではいられまい」
やられた。
平静さそのものが、逆に怪しまれる材料になっていた。ラノベの知識、こういう落とし穴があったのか。堂々とすればいいってもんじゃない、堂々としすぎても駄目なのか。塩梅が難しすぎる。
「そりゃ……その、あれです。母ちゃんに『お前は肝が据わってる』ってよく言われてたんで」
苦しい。苦しすぎる誤魔化しだ。だが、他に言葉が出てこない。
リーゼロッテさんは、しばらく無言でおれを見つめた。市場の喧騒が、やけに遠く聞こえる。ミレは事態が呑み込めていない様子で、おれとリーゼロッテさんを交互に見ている。
やがて、リーゼロッテさんが口を開いた。
「――サノ。少し、こちらへ来てもらえるか。個別に話を聞きたい」
露店の外を、顎で示す。部下の二人が、さりげなくおれの左右に回り込んだ。
逃げ場が、完全になくなった。
◇ ◇ ◇
露店の裏手、人気の少ない路地。リーゼロッテさんと、おれ。部下二人は少し離れた場所で見張りに立っている。
「単刀直入に聞く。お前、素養測定を受けたことは」
心臓が、どくん、と跳ねた。
ここでどう答えるかで、全てが決まる。「ない」と言えば疑いを深める材料になるかもしれない。「ある」と言えば、その場で終わる。
――待て。落ち着け。冷静に考えろ。
この人が今、確信を持ってるなら、こんな回りくどい質問はしない。その場で拘束してるはずだ。まだ「確信」じゃない。「疑い」だ。なら、まだ道はある。
「素養測定は……受けてないです。田舎の村じゃ、そういうのやる余裕なくて。畑仕事で手一杯で」
「では、お前の力は」
「力?」
「先日、メルクの町で、薪割り台を真っ二つにしたという若者の噂を聞いた。荷車を一人で溝から引き上げたという証言も、街道であった」
全部バレてる。バレてるじゃないか。おれは内心で絶叫しながら、表面上はきょとんとした顔を作った。
「そんなすごい人が他にいるんですね。おれ、非力なんで羨ましいです」
「非力、か。ならば――」
リーゼロッテさんが、すっと剣の柄に手をかけた。
心臓が凍った。まさか、ここで。
「お前の腕、少し見せてもらおう。腕相撲だ」
「……は?」
想定外すぎる展開に、おれの思考が一瞬止まった。腕相撲? 騎士さまが、市場の裏路地で、腕相撲?
「非力だというなら、私に負けて当然のはずだ。異存はないな」
リーゼロッテさんは、もう地面に片膝をついて、腕を構えている。断れる空気ではない。というか、これ、断ったらそれはそれで怪しまれるやつだ。
詰んだ。詰んだ。
いや――待て。ここでも「加減」だ。この八日間、必死で練習してきた「加減」を、今こそ使うときだ。
おれは意を決して、地面に膝をつき、リーゼロッテさんの手を握った。硬い、鍛えられた手だった。
「いくぞ」
「は、はい」
リーゼロッテさんの腕に、ぐっと力がこもるのが分かった。相当な力だ。騎士だけあって、本物の実力者なんだと分かる。
対するおれは、渾身の「加減」を発動させた。全力の、たぶん三パーセントくらい。力を、抜いて、抜いて、それでも自然に負けるように――難しい。難しすぎる。加減の加減の加減が要求されている。
じりじりと、おれの腕が押されていく。よし、いい感じだ。このまま自然に負ければ――。
「ぐ……っ」
リーゼロッテさんの額に、汗が浮いた。あれ。押されてる。押されてるのに、なんか彼女の方が苦しそうだ。
「お前……本当に、非力、なのか……!」
「ひ、非力です……ぐぬぬ……」
ぐぬぬ、じゃない。冷静になれ。今、絶対おかしいことになってる。おれの腕、微動だにしてない。彼女が全力で押してるのに、ぴくりとも動かない。「自然に負ける」の加減が、ゼロに近すぎて、逆に「絶対に動かない壁」になってしまっている。
まずい。これ、非力どころか、逆に「異常な怪力」を証明する展開になってないか?
――ここで、天啓が降りた。
「あ、いたた、手首が!」
おれは、自分から「痛がる演技」で崩れ落ちた。押し負けたフリだ。地面に手をつき、痛そうに手首をさする。
「ちょっと変な捻り方しちゃったみたいで……騎士さまの力、すごいですね、負けました」
リーゼロッテさんは、荒い息をつきながら、おれを見下ろした。その目には、まだ疑いの色が残っている。だが、決定的な確信までは、届いていない――はずだ。
「……なるほど。非力、か」
「はい、非力です」
「――今日のところは、これで失礼する。何か思い出したら、詰め所まで報せろ」
リーゼロッテさんは剣から手を離し、踵を返した。部下を連れて、路地を去っていく。
おれはその場にへたり込み、震える手首を(演技じゃなく、本当に緊張で震えていた)見つめた。
助かった……のか? 助かった、んだよな?
◇ ◇ ◇
露店に戻ると、ミレが心配そうな顔で待っていた。
「サノ! 大丈夫だった? なんか怖い顔だったけど!」
「あー、うん、大丈夫。ちょっと変なこと聞かれただけ」
「そう? ならいいけど……」
おれはミレに心配をかけまいと笑って見せたが、内心では冷や汗が止まらなかった。
今日は、乗り切った。だが、リーゼロッテさんの目に残っていたあの疑いは、消えていない。「非力」を証明したはずなのに、逆に「異常な力を隠している」という確信を深めさせてしまったかもしれない。
潮時だ。
これ以上この町にいたら、いつか決定的な瞬間が来る。次に会うとき、彼女はもっと確実な手を打ってくる。腕相撲なんて生ぬるい手じゃなく。
「ミレ」
「なに?」
「今夜、話したいことがある。店じまいの後で」
ミレは、おれの真剣な声に、何かを察したように、こくりと頷いた。
「……分かった」
逃げるなら、今夜だ。ミレに何も知らせないまま消えるのは、駄目だと決めた。だから――ちゃんと、言おう。全部じゃなくていい。でも、「行く」という一言だけは。
――なお、このときのおれは知らなかった。
その夜、詰め所に戻ったリーゼロッテが、部下にこう命じていたことを。
「あの男、明日の朝、身柄を拘束する。理由は何でもいい。……あの馬鹿力、腕相撲一つで隠しきれるものではない。奴は今夜、必ず動く」
鷹は、すでに罠を張り終えていた。




