おれ、魔王領への招待を受けて、初めての国境を越える
◇ ◇ ◇
逃亡生活百三日目。サザンテでの休暇を終え、おれたちの元に、一通の書状が届いた。
「魔王領から、ですか」
差出人を見て、おれは目を丸くした。
『勇者サノ殿へ
魔素の調整、順調に進んでいる。
ついては、一度、我が領を訪ねてはもらえぬだろうか。
見せたいものがある
ザガル・ヴィント』
「ザガルさんから、招待状……」
「見せたいもの、とは何だろうな」
銀さんが、興味深そうに、書状を覗き込んだ。
◇ ◇ ◇
「行くのか、サノ」
リーゼロッテさんの問いに、おれは、少し考えた。
「行きたいです。……というか、正直、気になります」
「危険かもしれんぞ」
「ザガルさんが、今さらおれたちを騙す理由、ないと思うんですよね」
「まあ、そうだが」
リーゼロッテさんは、少し考えてから、続けた。
「実は、私にも、王国から打診が来ている。……魔王領との連絡役として、正式に訪問してほしいと」
「じゃあ、公務も兼ねられますね」
「そうなるな」
「私も行こう」銀さんが、当然のように言った。「神殿の立て直しは、当面、他の者に任せてある。……それに、聖女として、魔王領の実情を知っておくことは、意味がある」
◇ ◇ ◇
かくして、おれたち三人は、北へと旅立つことになった。
ノルダール砦を経由し、その先、かつて魔物の軍勢が展開していた荒野を越えて、魔王領へと向かう。
「砦、変わりましたね」
久々に訪れたノルダール砦は、以前の緊迫した空気が嘘のように、穏やかだった。
「勇者殿! お久しぶりです!」
出迎えてくれたのは、あの守備隊長だった。
「魔物の襲撃、どうですか」
「激減しております。……北方の魔素調整が進んで以来、凶暴化していた個体も、次第に、山奥へ戻り始めております」
「良かった」
◇ ◇ ◇
砦を発ち、荒野を越えて、おれたちは、魔王領の境界へと辿り着いた。
そこには、簡素だが、しっかりとした造りの検問所が設けられていた。
「和平協定に基づいて、新設されたものだ」
リーゼロッテさんが説明してくれた。
「人と魔の者、双方の行き来を、管理するための施設だ。……まだ、行き来する者は、ごく少数だがな」
検問所では、人間の役人と、魔族の役人が、並んで職務にあたっていた。
「……なんか、不思議な光景ですね」
「三ヶ月前なら、想像もできなかった光景だ」
◇ ◇ ◇
検問を通過し、おれたちは、ついに、魔王領の土を踏んだ。
そして――目の前に広がる光景に、おれは、思わず、息を呑んだ。
「え……」
想像していたのは、荒れ果てた不毛の大地。あるいは、禍々しい魔の巣窟。
だが、実際に広がっていたのは。
「……普通の、町ですね」
石造りの家々が立ち並び、通りには市場があり、子供たちが走り回っている。角の生えた子供や、青い肌の大人が混じっていることを除けば、人間の町と、ほとんど変わらなかった。
◇ ◇ ◇
「驚いたか、勇者よ」
声の主は、ザガルだった。検問所の先で、待っていてくれたらしい。
「ザガルさん! ……いや、その、思ってたのと全然違って」
「人間は、我らを、化け物の類だと思っている。……無理もない。二百年、そう教えられ続けてきたのだからな」
ザガルは、静かに続けた。
「だが、我らも、生きている。飯を食い、家族を持ち、子を育てる。……人間と、何が違う」
その言葉に、おれは、何も言えなかった。
◇ ◇ ◇
町を歩きながら、おれは、周囲を興味深く観察していた。
「あの、ザガルさん。……住民の人たち、おれたちのこと、どう思ってるんでしょう」
「良く思っていない者も、当然いる」
ザガルは、率直に答えた。
「二百年、人間に攻められ続けた。……その傷は、簡単には癒えん」
「ですよね」
「だが」
ザガルは、少し、口元を緩めた。
「和平の話が伝わってから、少しずつ、空気は変わっている。……特に、若い世代は、興味を持っている者が多い」
実際、通りを歩く子供たちが、おれたちを、遠巻きに、興味津々の目で見つめていた。
◇ ◇ ◇
「見せたいもの、というのは」
銀さんの問いに、ザガルは、頷いた。
「こちらだ」
案内された先は、町の外れにある、小高い丘だった。
そして、その丘の上から見えた光景に、おれたちは、再び、絶句した。
眼下に広がる、広大な農地。そこでは、魔族の人々が、作物の世話をしていた。
「……畑?」
「そうだ。……二百年、魔素の乱れによって、我らの土地は、痩せ続けていた。作物が育たず、飢える者も多かった」
◇ ◇ ◇
「それが、今は」
「〈大陸の鍵〉の共同管理が始まり、魔素の流れが、正常に戻り始めた。……ようやく、土地が、息を吹き返した」
ザガルの声には、静かな、しかし深い感慨が滲んでいた。
「二百年ぶりの、まともな収穫になるだろう」
「……よかった」
おれは、心から、そう呟いた。
「これを、お前に見せたかった」
ザガルは、まっすぐ、おれを見た。
「お前が対話を選んだことで、何が変わったのか。……その、目に見える形を」
◇ ◇ ◇
おれは、丘の上から、畑を見下ろしながら、しばらく、言葉を失っていた。
三ヶ月前、ギルドから逃げ出した時。おれは、ただ、自分が死にたくなかっただけだ。
それが、巡り巡って、二百年飢え続けていた人たちの、畑を蘇らせた。
「サノ」
銀さんが、隣に立った。
「泣いているのか」
「泣いてないです。……風が、強いだけです」
「そうか」
銀さんは、それ以上、何も言わなかった。ただ、静かに、隣に立っていてくれた。
◇ ◇ ◇
逃亡生活百八日目。
おれは、魔王領の丘の上で、自分が歩いてきた道の意味を、初めて、はっきりと実感していた。
――なお、このときのおれは知らなかった。
丘の下、畑で働く魔族の若者たちが、こちらを見上げながら、言葉を交わしていたことを。
「あれが、噂の勇者か」
「思ったより、普通の奴だな」
「ああ。……だが、あいつのおかげで、今年は、腹一杯食えるらしい」
若者は、そう言って、静かに、頭を下げた。
「……ありがとよ、勇者」
二百年の断絶は、確かに、埋まり始めていた。




