おれ、和平の日を迎えて、最後の妨害に立ち向かう
◇ ◇ ◇
逃亡生活八十七日目。ついに、和平交渉の日が訪れた。
王城の大広間には、王国の重臣、神殿の代表者、そして各地から集まった有力者たちが、緊張した面持ちで居並んでいた。
「……すごい人数ですね」
「歴史的な日だ。当然だろう」
リーゼロッテさんが、正装の騎士服に身を包みながら、静かに答えた。
おれも、王国から支給された、それらしい服を着せられていた。動きにくいことこの上ない。
「銀さん、それ、聖女の正装ですか」
「ああ。……久々に袖を通したが、やはり重い」
銀さんは、白と金の荘厳な祭服姿だった。染めた髪も、この日に合わせて元の銀色に戻している。改めて見ると、確かに、聖女という言葉が似合う姿だった。
「見違えましたね」
「褒めているのか、それは」
「褒めてます」
◇ ◇ ◇
定刻。大広間の扉が、静かに開かれた。
「――魔王ザガル・ヴィント殿、御入場」
その声と共に、黒い外套を纏った男が、悠然と、広間へと歩み入った。
広間中の視線が、一斉に集まる。緊張が、空気を張り詰めさせた。
だが、ザガルは、動じることなく、玉座の前まで進み、静かに一礼した。
「王よ。……招きに応じ、参上した」
「よくぞ参られた」
王が、静かに応じた。
「二百年、我らは、互いを知ろうともせずに戦い続けてきた。……本日は、その愚を、正す日としたい」
◇ ◇ ◇
交渉は、慎重に進められた。
議題は主に三つ。〈大陸の鍵〉の共同管理体制。魔素の流れの調整に関する協力。そして、両者の非干渉を定めた協定の締結。
「〈大陸の鍵〉の管理については」
エドヴァルドが、書面を読み上げた。
「王国、神殿、そして魔王軍。三者の代表者立ち会いのもと、中立地帯に設けた保管施設にて、共同で管理する。……この案で、いかがでしょうか」
「異論はない」
ザガルが、静かに頷いた。
「我らが求めるのは、所有ではない。魔素の流れが、正常に保たれることのみだ」
「神殿としても、異論はございません」
神殿の代表者も、慎重に同意した。
◇ ◇ ◇
交渉が順調に進む中、おれは、ふと、妙な違和感を覚えた。
(……なんだろう、この感じ)
逃亡生活で鍛えられた勘が、微かに、警鐘を鳴らしていた。
「銀さん」
おれは、小声で囁いた。
「なんだ」
「なんか、嫌な感じがします」
銀さんの表情が、瞬時に引き締まった。
「……私も、先ほどから、微かな魔素の乱れを感じている」
「魔素の乱れ?」
「この広間の、どこかで。……誰かが、力を、行使しようとしている」
◇ ◇ ◇
その瞬間だった。
「――偽りの和平など、認められん!」
叫び声と共に、広間の一角から、白装束の人影が、飛び出した。
手には、輝く小さな石――〈大陸の鍵〉。
「なっ……! なぜ、あれを!」
エドヴァルドが、絶句した。〈大陸の鍵〉は、厳重な警備のもと、保管されていたはずだった。
「あの男、神殿の書記官です! 保管施設への立ち入り権限を持つ者……!」
それは、病床の大司教を訪ねた、あの人物だった。
◇ ◇ ◇
「猊下のご意志は、私が継ぐ! 二百年の秩序を、崩させはしない!」
書記官が、〈大陸の鍵〉を掲げた。石が、禍々しい光を放ち始める。
「まずい! 逃げてください、皆さん!」
おれは、叫びながら、駆け出した。
だが、ザガルの方が、早かった。
「――愚かな」
ザガルの姿が、一瞬でかき消え、次の瞬間には、書記官の眼前に現れていた。
「な……!?」
「その品の扱い、素人が触れてよいものではない」
◇ ◇ ◇
ザガルの手が、書記官の腕を掴んだ。だが、その瞬間、〈大陸の鍵〉の光が、爆発的に膨れ上がった。
「ぐ……っ!」
ザガルが、弾き飛ばされる。
「ザガルさん!」
「案ずるな。……だが、これは、まずいな」
ザガルは、体勢を立て直しながら、鋭く叫んだ。
「あの男、力を制御できていない! このままでは、暴走する!」
書記官の体が、既に、黒い霧に包まれ始めていた。だが、その顔には、明確な恐怖が浮かんでいる。
「な、なんだ、これは……! 止まらない……!」
◇ ◇ ◇
「銀さん、障壁を!」
「間に合わん! それより、サノ、聞け!」
銀さんが、鋭く指示を飛ばした。
「あの男から、〈大陸の鍵〉を、引き剥がせ! 力が完全に暴走する前に!」
「分かりました!」
おれは、床を蹴った。全力で。
「サノ、待て! 直接触れれば、お前も巻き込まれる!」
リーゼロッテさんの制止が、背後から聞こえた。
だが、おれは、止まらなかった。
(大丈夫。……この二ヶ月半で、加減は、覚えた)
◇ ◇ ◇
おれは、暴走する光の中へ、飛び込んだ。
全身を、焼けつくような衝撃が、襲う。だが、耐えられないほどではなかった。
「うおおおおっ!」
おれは、書記官の腕を掴み、その手から、〈大陸の鍵〉を、力ずくで引き剥がした。
「――取った!」
石を掴んだ瞬間、猛烈な力が、おれの中に流れ込んできた。
(うわ、これ……! すごい力……!)
一瞬、頭の中に、囁くような声が響いた気がした。使え、と。この力を使えば、何でもできる、と。
◇ ◇ ◇
だが、おれは、その誘惑を、はっきりと拒んだ。
「……いらない」
おれは、呟いた。
「おれは、力なんて、欲しくない。……勇者にもなりたくなかったし、今も、そんなに変わってない」
手のひらの中で、石の光が、次第に、収まっていく。
「おれが欲しいのは、みんなが無事に、明日も普通に生きられることだけです」
光が、完全に、消えた。
◇ ◇ ◇
広間に、静寂が戻った。
「……サノ」
銀さんが、駆け寄ってきた。
「無事か」
「はい、なんとか」
おれは、手のひらの中の〈大陸の鍵〉を見つめた。今は、ただの、小さな石にしか見えなかった。
「勇者よ」
ザガルが、静かに歩み寄ってきた。
「今、その品は、お前を、試した」
「試した?」
「〈大陸の鍵〉は、持つ者の欲を映す。……お前は、それを、拒んだ」
ザガルは、深く、頭を下げた。
「見事だ。……二百年、この品を守り続けた我らでさえ、時に、その誘惑に揺れた」
◇ ◇ ◇
逃亡生活八十七日目、最後の妨害を退けて、和平交渉は、無事に締結された。
書記官は、その場で拘束された。だが、暴走に巻き込まれた影響で、しばらく療養が必要とのことだった。
「これで、本当に、終わりですかね」
おれの問いに、ザガルが、静かに首を振った。
「終わりではない。……始まりだ」
ザガルは、大広間の窓から、王都の空を見上げた。
「二百年の断絶を埋めるには、これから、長い時間がかかる。……だが、その第一歩は、今日、確かに踏み出された」
――なお、このときのおれは知らなかった。
その夜、病床の大司教アルベルト・ハーゲンが、静かに息を引き取っていたことを。
枕元には、一枚の書き置きが、残されていた。
『後世の審判に、委ねる』
二百年前の記録者と、同じ言葉だった。




