おれ、後始末に追われて、和平の席に着く
◇ ◇ ◇
逃亡生活七十九日目。大聖堂での騒動から三日が過ぎ、王都は、かつてない混乱の中にあった。
「――で、結局どうなったんですか、あれから」
王城の一室で、おれは、エドヴァルドに問いかけた。
「大司教猊下は、意識を取り戻されました。……ですが、力の反動で、床に伏せておられます」
「回復の見込みは」
「医師によれば、命に別状はないとのこと。……ただ、公職への復帰は、難しいでしょう」
エドヴァルドは、静かに続けた。
「神殿内部でも、動揺が広がっております。……二百年前の記録について、正式な調査が始まりました」
◇ ◇ ◇
「記録、見つかったんですか」
「はい。……大聖堂の最奥、代々の大司教のみが立ち入りを許された書庫から」
エドヴァルドは、一冊の古びた綴りを、机の上に置いた。
「これが、原本です」
銀さんが、静かにそれを手に取り、慎重にページをめくった。
「……間違いない。砦で見つけた記録の、欠落部分だ」
「何て、書いてあるんですか」
銀さんは、しばらく黙って読み進めた後、深く息を吐いた。
「――『魔王軍の要求は、あくまで返還であり、侵略の意図は認められず。しかし神殿はこれを拒み、戦端を開くに至る。この判断の是非は、後世の審判に委ねる』」
◇ ◇ ◇
部屋に、沈黙が落ちた。
「……当時の記録者も、疑問を抱いていたということか」
リーゼロッテさんが、呟いた。
「そのようだな。……だからこそ、この記録は、破棄されずに、残されていた」
銀さんは、綴りを閉じながら、静かに言った。
「二百年、誰かが、いつか誰かが読むことを期待して、隠し守ってきたのかもしれん」
「歴代の大司教の中にも、迷った人がいたってことですかね」
「おそらくな」
おれは、意識を失う直前の大司教の顔を、思い出していた。あの人もまた、信念と迷いの間で、揺れていたのかもしれない。
◇ ◇ ◇
その日の午後、王城の大広間で、正式な会議が開かれた。
王、宮廷の重臣たち、そして神殿からは、大司教に代わる暫定的な代表者たち。加えて、おれ、銀さん、リーゼロッテさん。
「――以上が、事の顛末である」
エドヴァルドによる報告が終わると、広間に、重い空気が満ちた。
「では」王が、静かに口を開いた。「二百年にわたり、我らは、誤った戦を続けてきた、ということか」
「陛下」神殿の代表者が、慌てて口を挟んだ。「当時の判断には、当時なりの事情が」
「事情は、あろう」
王は、遮るように言った。
「だが、事情があれば、二百年、民が魔物に脅かされ続けてよいという話にはならん」
◇ ◇ ◇
「それで、これから、どうするんですか」
おれの問いに、王は、静かにおれを見た。
「勇者サノ。そなたに問う。……魔王ザガルは、共同管理を提案したと聞く」
「はい」
「その提案、信ずるに足るか」
おれは、少し考えてから、答えた。
「正直に言えば、分かりません。……でも、あの人は、〈大陸の鍵〉を持ち去ることもできたのに、そうしなかった」
「うむ」
「持ち去っていたら、また二百年、同じことが続いていたと思います。……それを、あの人自身が、断ち切ろうとした。おれは、そこを、信じたいです」
◇ ◇ ◇
王は、しばらく沈黙した後、深く頷いた。
「……よかろう。和平交渉の席を設ける」
広間が、大きくざわめいた。
「陛下、それは……!」
「あまりに、性急では」
「性急なものか」
王の声が、重く響いた。
「二百年、遅すぎたくらいだ」
その一言に、広間は静まり返った。
「魔王ザガル・ヴィントを、正式な使節として、王都に招く。……そして、〈大陸の鍵〉の扱いについて、協議する」
◇ ◇ ◇
会議の後、おれたち三人は、王城の庭園で、一息ついていた。
「……なんか、すごいことになってきましたね」
「ああ。歴史が動く、という言葉が、これほど実感を伴うとは思わなかった」
リーゼロッテさんが、感慨深げに呟いた。
「銀さんは、これからどうするんですか。神殿の方も、大変でしょう」
「そうだな。……大司教が倒れ、神殿は今、混乱の極みにある」
銀さんは、少し、遠い目をした。
「聖女として、私にできることがあるなら、やるべきだろう。……逃げてきた身で、都合のいい話だがな」
「いや、都合よくないですよ」
おれは、率直に言った。
「逃げたからこそ、外から神殿を見られた。……銀さんが、あのまま神殿にいたら、たぶん、二百年前の記録なんて、見つけられなかったです」
「……そうか」
銀さんは、少しだけ、微笑んだ。
「そう言ってもらえると、救われるな」
◇ ◇ ◇
数日後。和平交渉の準備が進められる中、おれは、ふと思い立って、ミレの店を訪ねた。
「サノ! 生きてたのね!」
「なんで死んだ前提なんだよ」
「だって、大聖堂で大暴れしたって噂よ! 王都中、その話で持ちきりなんだから!」
ミレは、興奮した様子で、まくし立てた。
「あんた、本当に、とんでもない人になっちゃったわね」
「なりたくてなったわけじゃないんだけどな」
「知ってる。……あんた、そういう人だもんね」
ミレは、笑いながら、店の奥から、一つの包みを取り出した。
「これ、開店祝いに配ろうと思ってた菓子。……特別に、あんたにも一つあげる」
「ありがとう」
◇ ◇ ◇
逃亡生活八十三日目、王都は、歴史的な和平交渉の準備に、慌ただしく動いていた。
おれは、その渦中にありながら、不思議と、穏やかな気持ちでいた。
二ヶ月半前、ギルドから逃げ出した時。おれは、ただ、死にたくない一心だった。
今、おれは、誰も死なせないために、この場所に立っている。
――なお、このときのおれは知らなかった。
神殿の一室、病床に伏せる大司教アルベルト・ハーゲンの元を、一人の人物が、密かに訪れていたことを。
「猊下。……ご無事で、何よりです」
「……お前か」
大司教は、掠れた声で答えた。
「和平交渉が、進んでおります。……このままでは、二百年の秩序が」
「……もう、よい」
大司教は、静かに、目を閉じた。
「私は、間違えたのかもしれん。……お前も、もう、手を引け」
だが、訪れた人物は、深く頭を垂れながら、その目に、消えない光を宿していた。
「……申し訳ございません、猊下。それは、できかねます」
和平への道は、まだ、完全に開かれたわけではなかった。




