おれ、停戦中の平穏を味わって、神殿からの使者に警戒する
◇ ◇ ◇
逃亡生活六十五日目。停戦協定から三日が過ぎ、ノルダール砦には、これまでにない穏やかな空気が流れていた。
「魔物、本当に、攻めてこないですね」
物見台から荒野を眺めながら、おれは呟いた。
「ザガルの言葉は、守られているようだな」
隣に立つ銀さんが、静かに頷いた。
荒野の魔物たちは、砦から一定の距離を保ったまま、静かに待機していた。時折、隊列を組み替える動きは見えるが、こちらに近づいてくる様子はない。
「サノ、リリアーヌ様。そろそろ、昼食の時間だ」
リーゼロッテさんが、階段を上がってきた。
「もうそんな時間ですか。……停戦してると、時間の感覚が、おかしくなりますね」
「緊張が緩んでいる証拠だな。……悪いことではない」
◇ ◇ ◇
砦の食堂は、増援部隊の到着以来、賑やかになっていた。二百名の騎士たちが加わったことで、食事の時間は、いつも活気に満ちている。
「勇者様、こちらへどうぞ!」
若い騎士に声をかけられ、おれは苦笑しながら席に着いた。
「勇者様って呼ばれるの、まだ慣れないんですよね」
「では、サノ殿と?」
「サノでいいですよ、普通に」
「そういうわけには参りません!」
若い騎士は、目を輝かせながら言った。
「魔王と対話して、停戦を勝ち取った勇者様ですよ! 皆、尊敬しております!」
「いや、あれ、勢いというか、なんというか」
「謙虚でいらっしゃる!」
なぜか、さらに評価が上がってしまった。銀さんが、隣で肩を震わせて笑っている。
「銀さん、笑ってないで、助けてください」
「面白いから、嫌だ」
「この人!」
◇ ◇ ◇
昼食の後、おれは砦の中庭で、力の制御の訓練をしていた。
「サノ、精が出るな」
リーゼロッテさんが、木剣を手にやってきた。
「銀さんに言われたんですよ。加減と全力の切り替えを、意識的にできるようにしろって」
「良い指導だ。……なら、私が付き合おう」
「え、リーゼロッテさんが?」
「実戦形式の方が、身につくだろう。……ただし、私を吹き飛ばすなよ」
「そこは、全力で加減します」
かくして、おれとリーゼロッテさんの、模擬戦が始まった。
◇ ◇ ◇
結果から言うと、おれは、まったく歯が立たなかった。
「……なんで当たらないんですか」
「力が強くとも、当たらなければ意味がない。……お前は、動きが素直すぎる」
リーゼロッテさんは、涼しい顔で木剣を構え直した。おれは、荒い息をつきながら、地面に膝をついていた。
「速度も、力も、お前の方が上だ。……だが、戦いは、それだけでは決まらない」
「じゃあ、何が必要なんですか」
「読み、駆け引き、そして経験だ。……幸い、お前には、その素質がある」
「素質、ですか」
「逃げ回っていた経験は、無駄ではない。……相手の動きを読み、隙を突く。それは、逃亡者の技術でもある」
その言葉に、おれは、少し驚いた。
「逃げてた経験が、役に立つんですか」
「立つとも。……お前が、これまで生き延びてきたのは、力だけの結果ではないだろう」
◇ ◇ ◇
訓練が一段落した夕方、砦の門に、来客が訪れた。
「神殿より参りました。聖女リリアーヌ様に、火急のご用向きがございます」
白い装束を纏った、数名の一団。以前、ラファールの街道で遭遇した、神殿の巡察隊と、よく似た装いだった。
「神殿から……?」
銀さんの表情が、明らかに強張った。
「サノ、リーゼロッテ。……警戒しろ」
「銀さん、心当たりがあるんですか」
「ない。……だからこそ、不自然だ。私の居場所は、正式には、まだ神殿に報告されていないはずだ」
◇ ◇ ◇
一団を代表する、初老の神官が、丁重に一礼した。
「聖女リリアーヌ様。神殿より、正式なお迎えに参りました」
「迎え、とは」
「聖遺物の一件、無事解決されたと伺っております。……つきましては、速やかに、神殿へお戻りいただきたく」
「今は、それどころではない。……北方の情勢は、承知しているはずだ」
「もちろん、承知しております。……ですが、聖女様のお立場を考えれば、危険な最前線に留まり続けるのは、望ましくありません」
神官の言葉は、丁寧だった。だが、その裏に、何か、有無を言わさぬ圧力のようなものを、おれは感じ取っていた。
「銀さん」
「……分かっている」
銀さんは、静かに、神官を見据えた。
「一つ、確認したい。……神殿は、二百年前の〈大陸の鍵〉に関する記録を、保管しているか」
◇ ◇ ◇
その問いに、神官の表情が、わずかに、動いた。
「……なぜ、そのようなことを」
「答えろ。……聖女としての、正式な問いだ」
「二百年前の記録……そのようなものが、あったかどうか」
「あるか、ないか。二択で答えられる質問のはずだが」
銀さんの追及に、神官は、明らかに、狼狽していた。
「……そのような詳細は、私の職掌ではございません。上位の者に、確認いたします」
「そうか。……ならば、確認が済むまで、私は、ここに残る」
「聖女様、それは」
「神殿からの正式な召還であれば、書状を持参しているはずだ。……見せてもらおうか」
銀さんの要求に、神官は、言葉に詰まった。
「そ、それは、急ぎのため、口頭での」
「口頭での召還、か。……随分と、異例な扱いだな」
◇ ◇ ◇
明らかに、様子がおかしかった。おれとリーゼロッテさんは、無言で、銀さんの背後に立った。
「神殿からの使者、と名乗るのであれば、正式な手続きを踏め。……それができぬのであれば、お引き取り願おう」
銀さんの毅然とした態度に、神官は、しばらく、無言で立ち尽くしていた。
「……承知いたしました。改めて、正式な書状を、持参いたします」
一団は、そう言い残し、砦を後にした。
◇ ◇ ◇
「……なんだったんでしょうね、今の」
「分からん。だが、明らかに、まともな使者ではなかった」
銀さんは、去っていく一団を見つめながら、険しい表情で続けた。
「二百年前の記録について尋ねた時の、あの反応。……知っている者の顔だった」
「じゃあ、あの人たち」
「神殿の中でも、真実を隠している側の者、かもしれん」
リーゼロッテさんが、剣の柄に手を添えながら、警戒を強めた。
「今後、身辺には、十分注意しよう。……三人とも、単独行動は、控えるべきだ」
おれと銀さんは、揃って、頷いた。
逃亡生活六十五日目、魔王軍との停戦が成立した一方で、思わぬ方向から、新たな脅威が忍び寄っていた。
――なお、このときのおれは知らなかった。
砦を後にした一団が、荒野の外れで、密かに報告を送っていたことを。
「聖女は、既に、記録の存在を掴んでおります」
『……そうか。ならば、手段を選んでいる場合ではないな』
返された言葉は、短く、冷酷だった。
『三名とも、生かして王都に戻すな』
対話によって開かれかけた道は、思わぬ形で、閉ざされようとしていた。




