おれ、魔王と対面して、二百年分の話を聞く
◇ ◇ ◇
逃亡生活六十日目。増援到着まで、あと二日。
その日の朝、砦を包んだのは、これまで感じたことのない、圧倒的な気配だった。
「――っ! なんですか、これ」
おれは、思わず、その場に膝をつきそうになった。全身が、警鐘を鳴らしている。危険だ、と本能が叫んでいる。
「サノ、落ち着け。……来たぞ」
銀さんの声も、いつになく緊張していた。おれたちは、急いで、砦の門へと向かった。
◇ ◇ ◇
門の前に、その姿はあった。
黒い外套を纏った、長身の男。年の頃は、三十代半ばに見える。だが、その双眸は、深い赤に染まり、纏う気配は、明らかに人間のものではなかった。
「よく来たな、と言うべきか。……あるいは、待たせたな、と言うべきか」
男の声は、静かだった。だが、その一言だけで、周囲の空気が、震えるようだった。
「お前が」
「私が、お前たちの言う『魔王』だ。名を、ザガル・ヴィント」
砦の守備兵たちが、一斉に、武器を構えた。だが、ザガルは、まるで意に介さなかった。
「安心しろ。今日は、戦いに来たのではない。……ヴェルナーからも、伝えたはずだ」
◇ ◇ ◇
「話をしに来た、というのか」
リーゼロッテさんが、剣を構えたまま、問いただした。
「そうだ。……二百年、待った。ようやく、こうして、話せる相手が現れた」
ザガルの視線が、まっすぐ、おれに向けられた。
「勇者よ。お前は、他の勇者たちとは、違うようだな」
「……どういう意味ですか」
「歴代の勇者は、皆、我らを見た瞬間、剣を抜いた。話を聞こうとした者は、一人もいなかった」
ザガルは、静かに続けた。
「だが、お前は、ヴェルナーの言葉に、耳を傾けた。そして今も、こうして、私の話を聞こうとしている」
「……そりゃ、おれ、そもそも戦いたくないんで」
おれは、正直に答えた。
「戦わずに済む方法があるなら、それに越したことはないです。……ただし、それが、誰かを犠牲にする形なら、話は別ですけど」
◇ ◇ ◇
ザガルは、おれの言葉に、ふっと、笑みを漏らした。
「……面白い。実に、面白い勇者だ」
「それ、褒めてます?」
「褒めている。……では、話そう。二百年前、何があったのかを」
ザガルは、砦の門前で、静かに語り始めた。
「〈大陸の鍵〉は、元々、我らの一族が、代々守り継いできた品だ。あれは、大陸に散在する魔素の流れを、安定させる装置だった」
「魔素の流れ、ですか」
「そうだ。魔素は、この世界を巡る、生命の源のようなもの。……だが、その流れが乱れれば、魔物は狂暴化し、大地は荒れ、人も獣も、等しく苦しむ」
ザガルは、遠くを見つめるように、続けた。
「我らは、あれを用いて、魔素の流れを、調整していた。魔物を統率し、人間の土地を、侵さぬよう、管理していたのだ」
◇ ◇ ◇
「では、なぜ、それが神殿に」
銀さんの問いに、ザガルは、初めて、苦い表情を見せた。
「二百年前、当時の神殿は、我らを『魔』と断じ、〈大陸の鍵〉を、力ずくで奪った。……神の御業を、魔の者が持つは許されぬ、と」
「そんな理由で」
「彼らにとっては、十分な理由だったのだろう。……そして、奪われた我らは、魔素の流れを、調整する術を、失った」
ザガルの声に、静かな怒りが滲んだ。
「以来、二百年。魔素の乱れは、少しずつ、しかし確実に、進行している。……魔物の凶暴化も、近年の異常な活動も、全て、その結果だ」
「じゃあ、今の魔物の軍勢は」
「統率しているのは、事実だ。だが、それは、侵略のためではない。……野放しにすれば、彼らは、無差別に、人の土地を襲う。私が、辛うじて、抑えているに過ぎん」
◇ ◇ ◇
おれたちは、言葉を失った。
もし、それが事実なら――魔王軍は、大陸の脅威ではなく、むしろ、暴走を食い止めている側だということになる。
「……証拠は、あるのか」
リーゼロッテさんが、慎重に問いただした。
「二百年前の記録は、神殿によって、大半が処分された。……だが、砦の書庫に、一部、残っていたはずだ。返還の要求について、記されたものが」
その言葉に、おれたちは、揃って息を呑んだ。
「昨日、見つけました。……記録の続きは、破り取られてましたけど」
「そうか。……ならば、少なくとも、私の言葉が、全くの虚言ではないことは、伝わるだろう」
ザガルは、静かに頷いた。
◇ ◇ ◇
「ザガルさん」
おれは、意を決して、問いかけた。
「あなたが、〈大陸の鍵〉を取り戻したら。……その後、どうするつもりなんですか」
「魔素の流れを、正常に戻す。……ただ、それだけだ」
「人間の土地を、攻めたりは」
「する理由がない」
ザガルは、はっきりと答えた。
「我らが望むのは、共存だ。……二百年前も、そうだった。奪われる前は、人と魔は、干渉せずとも、共に生きられていた」
「なら、なぜ、話し合いで解決しようとしなかったんですか」
「したさ。何度も」
ザガルの声が、初めて、重く沈んだ。
「だが、その度に、使者は、殺された。……人間にとって、我らは、話し合う相手ではなかった。ただ、討ち滅ぼすべき『魔王軍』でしかなかったのだ」
◇ ◇ ◇
その言葉が、おれの胸に、深く突き刺さった。
話し合おうとしても、聞いてもらえない。相手の事情など、誰も聞こうとしない。ただ、決められた役割に、押し込まれる。
それは――おれが、あの日、ギルドで感じたことと、少しだけ、似ていた。
「……分かりました」
おれは、静かに、答えた。
「あなたの話、信じます。……いや、正確には、信じたいと思います。ただ、おれ一人の判断で、〈大陸の鍵〉を渡すことは、できません」
「ほう」
「王国にも、神殿にも、事情があるはずです。おれは、勇者かもしれませんけど、大陸の全部を、勝手に決めていい立場じゃない」
おれは、まっすぐ、ザガルを見つめた。
「だから、時間をください。……この話を、王国と神殿に、正式に伝えます。その上で、話し合いの場を、作ります」
◇ ◇ ◇
ザガルは、しばらく、おれを見つめていた。
やがて、深く、息を吐いた。
「……二百年で、初めてだ。そのような答えを、返した勇者は」
「上手くいくか、分かりませんけどね」
「構わん。……可能性が、あるだけでいい」
ザガルは、静かに、踵を返した。
「一ヶ月、待とう。……その間、我らは、砦への攻撃を、行わない。約束する」
「ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いはない。……ただ、私も、疲れたのだ。二百年の争いに」
ザガルは、そう言い残し、荒野へと、去っていった。
◇ ◇ ◇
逃亡生活六十日目、おれたちは、戦いではなく、対話という、まったく新しい道を、選び取ろうとしていた。
「サノ、大変なことを、引き受けたな」
銀さんが、呆れたような、それでいて、どこか嬉しそうな顔で言った。
「勢いで、言っちゃいました。……でも、後悔はしてないです」
「王国と神殿を、動かすとなると、相当な労力だぞ」リーゼロッテさんが、頭を抱えた。「エドヴァルド殿に、なんと説明したものか」
「三人で、頑張りましょう」
おれの言葉に、二人は、揃って、苦笑した。
――なお、このときのおれは知らなかった。
王都、神殿の最奥。
二百年前の記録を、代々、密かに管理してきた、ある人物が、砦からの報告を受け、静かに、目を細めていたことを。
「……勇者が、魔王と、対話しただと」
その声には、明らかな、動揺が滲んでいた。
「まずいな。……あの件が、掘り返されるようなことがあれば」
二百年の嘘が、今、静かに、崩れ始めようとしていた。




