おれ、砦の惨状を目にして、影の視線に気づく
◇ ◇ ◇
逃亡生活四十八日目。おれたちは、ノルダール砦の裏門から、慎重に、内部へと入った。
正面から近づけば、荒野に展開する魔物の群れに、気づかれる恐れがある。リーゼロッテさんの判断で、おれたちは、山間の迂回路を使い、砦の裏手から、合流することになった。
「よくぞ、ご無事で……! 隊長補佐殿、いえ、今は、特別部隊、隊長殿でしたな」
砦の守備隊長らしき、初老の騎士が、疲労の色濃い顔で、出迎えてくれた。
「状況は」
「芳しくありません。……ここ数日で、周辺の哨戒隊、五名が、行方不明。加えて、荒野に展開する魔物の数、日に日に、増しております」
守備隊長は、疲れた声で、続けた。
「砦の兵力だけでは、到底、太刀打ちできません。……援軍の到着、心より、お待ちしておりました」
「援軍、というほどの数では、ないのだが」
リーゼロッテさんが、少し、申し訳なさそうに言った。実際、おれたち三人と、数名の護衛騎士だけでは、大規模な軍勢に対抗するには、心許ない数だ。
「いえ……その、噂の勇者様と、聖女様が、いらしただけでも、兵たちの士気は、大きく違います」
守備隊長の言葉に、おれは、少し、複雑な気持ちになった。期待されることの、重みを、改めて、感じる。
◇ ◇ ◇
砦の物見台に案内され、おれたちは、荒野の様子を、改めて、確認した。
「……昨日より、数が、増えているな」
銀さんが、荒野を見渡しながら、険しい表情で、呟いた。
無数の魔物が、整然と、隊列を組んでいる。ゴブリンのような小型の魔物から、見上げるほどの巨躯を持つ、鎧を纏った魔物まで、種類も、様々だった。
「あれ、全部が、統率されて、動いてるんですよね」
「間違いない。……これは、単なる魔物の群れの、暴走ではない。……明確な、意思を持った、軍勢だ」
リーゼロッテさんの言葉に、おれの背筋が、冷たくなった。
「守備隊長殿、あの軍勢の、指揮官らしき存在は、確認されていますか」
銀さんの問いに、守備隊長は、首を振った。
「いえ……ですが、哨戒隊の生き残りの一人が、荒野の奥、岩山の方角に、ひときわ、異様な気配を、感じたと、証言しております」
「岩山、か」
守備隊長が指し示した、荒野の奥、切り立った岩山に、おれたちは、揃って、視線を向けた。
◇ ◇ ◇
その時だった。
「――っ!」
おれは、突然、背筋に走る、鋭い悪寒に、身を強張らせた。
「サノ、どうした」
「今、なんか、見られてる、気が」
銀さんも、リーゼロッテさんも、はっと、表情を変えた。
「私も、今、同じものを、感じた」
リーゼロッテさんが、剣の柄に、手をかけながら、荒野の奥、岩山の方角を、鋭く見据えた。
岩山の頂、遠く、霞むほどの距離。だが、そこに、確かに、何かが――いる。
「あれが……」
目を凝らすと、岩山の頂に、小さな、人影のようなものが、佇んでいるのが、見えた。距離が遠すぎて、詳細は、分からない。だが、その影から放たれる、圧倒的な気配だけは、はっきりと、伝わってきた。
「……あれが、この軍勢の、指揮官、か」
銀さんの声が、緊張に、震えていた。
◇ ◇ ◇
影は、しばらくの間、微動だにせず、こちらを、見つめているようだった。やがて、その影は、ゆっくりと、姿を消した。
「……行った、か」
リーゼロッテさんが、詰めていた息を、そっと、吐き出した。
「あれ、なんだったんでしょう。魔物の、ボスとか、そういう感じですか」
「分からん。だが」
銀さんが、静かに、続けた。
「あれほどの気配、並みの魔物とは、明らかに、格が違う。……四天王級、あるいは――」
「あるいは?」
「魔王、そのもの、か」
その一言に、砦の物見台に、重い沈黙が、落ちた。
◇ ◇ ◇
「サノ殿、聖女様、隊長殿」
守備隊長が、緊張した面持ちで、口を開いた。
「この状況、王都への、正式な報告が、必要かと」
「もちろん、そうする」リーゼロッテさんが、頷いた。「だが、報告を待っている間にも、事態は、進行するだろう。……我々も、できる限りの、情報収集と、対策を、進める必要がある」
「隊長殿、何か、お考えが」
「ひとまず、今夜は、砦の防備を、固める。……そして、明日以降、荒野への、慎重な偵察を、行う」
リーゼロッテさんの言葉に、おれと、銀さんは、頷いた。
「サノ、リリアーヌ様。……ここからが、本当の意味での、始まりだ。覚悟は、いいか」
「正直、めちゃくちゃ、怖いです」
おれは、素直に、答えた。
「だが」
おれは、荒野の奥、静かになった岩山を、見つめた。
「逃げません。今回は。……ここで逃げたら、砦の人たちも、避難してきた村人たちも、守れない。それに」
おれは、隣の、銀さんと、リーゼロッテさんを、見た。
「二人が、隣にいてくれるなら、たぶん、大丈夫です」
銀さんが、小さく、笑った。リーゼロッテさんも、静かに、頷いた。
逃亡生活四十八日目の夜、大陸の命運を賭けた、本当の戦いへの、序章が、静かに、幕を開けようとしていた。
――なお、このときのおれは知らなかった。
岩山の奥、魔物たちが蠢く巣窟の最深部で。
先ほどの影が、玉座のような、岩の椅子に、静かに、腰を下ろしていたことを。
「……勇者、聖女、騎士、か。……悪くない、面構えをしていたな、あの小僧」
影は、低く、笑った。
「久方ぶりだ。……本気で、相手をしてみたいと、思える者たちに出会えたのは」
影の周囲、控えていた、鎧姿の魔物たちが、一斉に、頭を垂れた。
「四天王よ。……総力を挙げて、迎え撃つ準備を、せよ。……人間どもに、思い知らせてやろう」
大陸を揺るがす、本当の戦いの、幕が――今、静かに、そして、確かに、上がった。




