おれ、束の間の休息を得て、王都からの使者を知る
◇ ◇ ◇
逃亡生活二十九日目。ヴェルダンの町は、昨日の騒動が嘘のように、静かな朝を迎えていた。
「……なんか、変な感じですね。あんな大立ち回りした翌日なのに」
「事後処理は、王国騎士団と、この町の自治当局に任せてある。私たちが、いちいち首を突っ込む必要はない」
リーゼロッテさんが、宿の食堂で、パンをちぎりながら答えた。
ガローは、正式に王国騎士団の手で拘束され、〈大陸の鍵〉は、神殿への返還手続きが進められることになった。マーサさんの証言も、正式な調書として記録され、彼女自身の身の安全も、リーゼロッテさんの計らいで保証されている。
「マーサさん、これからどうするんでしょうね」
「店に戻ると言っていた。……今度こそ、心置きなく、堅気の暮らしに専念できる、と」
銀さんが、少し、安堵した様子で答えた。昨日の緊張感が嘘のように、今朝の銀さんは、いつも通り、パンを何個も頬張っていた。
「銀さん、パン、また食べ過ぎでは」
「昨日、あれだけ戦ったのだ。カロリー消費が激しい」
「その理論、都合よすぎません?」
◇ ◇ ◇
朝食の後、おれたちは、マーサさんの店に、最後の挨拶に向かった。
「リリアーヌ様、サノさん、リーゼロッテさん! 昨日は、本当に、ありがとうございました」
マーサさんは、涙ぐみながら、深々と頭を下げた。
「マーサ、礼を言うのは、こちらの方だ。……お前の勇気がなければ、この一件、こんなに早く決着はつかなかった」
「いえ、そんな。……あたし、ようやく、十年前のこと、清算できた気がします」
マーサさんは、それから、少し、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「そうだ、サノさん」
「はい?」
「リリアーヌ様のこと、これからも、よろしくお願いしますね。この人、放っておくと、無茶ばっかりするので」
「マーサ!?」
銀さんが、慌てて声を上げた。おれは、思わず笑ってしまった。
「はい、任せてください。おれも、パン代の請求書、そろそろ本気で出そうか検討してるんで」
「サノまで、何を言い出す」
銀さんの、珍しく狼狽えた顔に、その場にいた全員が、笑い声を上げた。
◇ ◇ ◇
マーサさんの店を後にして、おれたちは、宿へと戻る道すがら、これからのことを、話し合った。
「銀さん、聖遺物の一件、片付いた後は、どうするんですか。神殿に、戻るんですか」
「……いずれは、な。だが、すぐに、というわけではない。まだ、報告と手続きに、時間がかかるだろう」
「なら、しばらくは、一緒にいられる、ってことですか」
「そういうことに、なるな」
銀さんの答えに、おれは、少しだけ、安心した自分に気づいた。この三十日近い旅で、いつの間にか、銀さんとの――そして、リーゼロッテさんとの日々が、おれの中で、かけがえのないものになっていたらしい。
「私も」リーゼロッテさんが、口を開いた。「隊長への進言、当面の猶予は勝ち取った。……だが、いずれ、正式な報告は、しなければならない。その内容次第で、お前たちの処遇は、大きく変わる」
「その報告、どうするつもりなんですか」
「……まだ、考えている最中だ」
リーゼロッテさんの声には、複雑な葛藤が滲んでいた。王国騎士としての職務と、この旅で芽生えた、おれたちへの感情。その狭間で、彼女が、何を選ぶのか。おれには、まだ、分からなかった。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、宿に戻ったおれたちを、思わぬ来客が待っていた。
「失礼、サノ殿、リリアーヌ様、リーゼロッテ殿で、お間違いないか」
宿の入り口に立っていたのは、上品な身なりの、初老の男だった。従者らしき者を、二人ほど連れている。物腰は柔らかいが、その佇まいには、只者ではない気品が漂っていた。
「……どちら様、ですか」
おれが警戒しながら聞くと、男は、丁寧に一礼した。
「申し遅れました。私、王都より参りました、宮廷顧問官の、エドヴァルド・ライネスと申します」
リーゼロッテさんの顔が、明らかに強張った。
「宮廷顧問官……! なぜ、そのような立場の方が、直々に」
「昨夜、こちらの状況についての報告が、王都に届きましてな。……王もまた、事の次第を、深く憂慮しておられます」
エドヴァルドと名乗った男は、穏やかな笑みを浮かべたまま、続けた。
「単刀直入に申し上げましょう。……勇者殿と聖女様の処遇について、王都は、ある一つの、提案を用意しております」
その言葉に、おれたちは、思わず、顔を見合わせた。
◇ ◇ ◇
「提案、というのは」
銀さんが、警戒を滲ませながら聞いた。エドヴァルドは、静かに、答えた。
「魔王軍の脅威、近年、さらに増しております。……王国としても、勇者殿の力を、無理に拘束するような真似は、本意ではありません」
「じゃあ」
「代わりに、一つ、ご提案がある。……勇者殿、聖女様、そして、リーゼロッテ殿。三名で、正式に『魔王軍対策特別部隊』を、結成していただけないか、と」
予想外の言葉に、おれは、思わず、間の抜けた声を出した。
「……は?」
「強制ではありません。あくまで、提案です。……ですが、これが実現すれば、勇者殿の意思を尊重しつつ、王国としても、面目を保てる。……双方にとって、悪くない話だと思いますが、いかがでしょうか」
エドヴァルドの提案は、これまでの「勇者としての責務を果たせ」という一方的な要求とは、明らかに、違う響きを持っていた。
だが――それでも、根本にあるのは、同じことだ。魔王軍と戦えという話に、変わりはない。
「……少し、考えさせてもらえますか」
おれが、慎重に答えると、エドヴァルドは、穏やかに頷いた。
「もちろんです。……お三方にとって、悔いのない選択を、なさってください。返答は、一週間後、この町で、改めて伺いに参ります」
エドヴァルドは、丁寧に一礼して、従者と共に、去っていった。
◇ ◇ ◇
残されたおれたちは、しばらく、無言のまま、その場に立ち尽くしていた。
「……どう、思いますか、二人とも」
おれが聞くと、銀さんが、静かに、口を開いた。
「悪くない話だとは、思う。……だが、お前の意思が、何より優先されるべきだ、サノ」
「私も」リーゼロッテさんが、続けた。「強制するつもりは、ない。……だが、もし、お前が望むなら」
「望むなら?」
「私は、お前と、共に戦う道を、選びたいと思っている」
リーゼロッテさんの、思いがけない言葉に、おれは、目を見開いた。
逃亡生活二十九日目、おれの前に、初めて、「逃げる」以外の、新しい選択肢が、提示されていた。
――なお、このときのおれは知らなかった。
王都に戻ったエドヴァルドが、その夜、王への報告書に、こう記していたことを。
『勇者サノ殿、及び聖女リリアーヌ様、隊長補佐リーゼロッテ・クロイツ。三名の結束、想像以上に固い模様。……特別部隊の提案、受諾の可能性、高いと見受けられます』
『ただし――』
エドヴァルドは、筆を止め、静かに、続きを綴った。
『勇者殿の本心、いまだ、逃亡への未練を残している様子。……最終的な決断には、今しばらくの、慎重な見極めが必要かと存じます』
物語は、逃亡か、それとも――新たな道か。その選択の刻へと、静かに、近づいていた。




