おれ、野宿コンビを結成して、背後に蹄の音を聞く
◇ ◇ ◇
逃亡生活十七日目。東部へと続く街道を、おれと銀さんは、ひたすら歩き続けていた。
「銀さん、休憩、まだですか」
「まだだ。歩け」
「聖女様、鬼軍曹の才能もあったんですね」
「必要に迫られれば、人は何にでもなる」
銀さんは、意外にも健脚だった。「鍛えている」という自称、荷物運びでは疑わしかったが、長距離歩行に関しては、どうやら本物らしい。おれの方が息を切らしている始末だった。
「兄妹の妹設定、歩くペースだけは兄より速いんですね」
「役作りには、体力も含まれる」
「もう役作りって認めてるじゃないですか」
軽口を叩きながらも、二人とも、頭の隅では常に「後ろ」を意識していた。リーゼロッテさんは、馬だ。歩きのおれたちとの距離は、放っておけば確実に縮まる。
◇ ◇ ◇
その夜、街道脇の林で野宿することになった。焚き火の準備をしながら、おれは十四日前の、初めての野宿の惨状を思い出していた。
「銀さん、火起こし、得意ですか」
「もちろんだ。見ていろ」
銀さんは、自信満々に火打ち石を取り出し――十分後、まだ火がつかず、無言で石をこすり続けていた。
「……銀さん」
「黙っていろ。今、集中している」
「その集中、もう十分続いてますよ」
結局、火をつけたのは、見かねたおれだった。ラスタの街を出て以来、地味に鍛えていた「加減して力を使う」技術が、ここで役に立った。木の枝を、絶妙な強さで擦り合わせる。狼を吹っ飛ばした力の持ち主が、今は焚き火の火起こしに全力を注いでいる。人生、何が役に立つか分からない。
「……火、ついた」
「ああ。世話になったな」
銀さんは、悔しそうな顔を隠しもせず、焚き火にあたった。聖女の威厳、火起こし一つでだいぶ削れている。
◇ ◇ ◇
焚き火を囲んで、パンと干し肉の質素な夕食を取りながら、おれたちは静かに星空を見上げていた。
「異世界の星、綺麗ですね」
「異世界、とは」
「あ」
うっかり口が滑った。銀さんが、興味深そうにこちらを見る。
「サノ、お前、まさか」
「い、いや、なんでもないです。言葉のあやです」
「言葉のあや、便利な言葉だな。私もよく使う」
銀さんは、それ以上追及しなかった。だが、フードの下の紫の瞳が、少しだけ面白そうに細められているのが、焚き火の明かりで見えた。この人、絶対何か勘づいてる。だが、詮索しないという、逃亡者同士の暗黙のルールを守ってくれている。ありがたいような、そわそわするような。
「なあサノ」
「はい」
「お前は、この旅が終わったら、どうする気だ」
唐突な問いに、おれは少し考えた。
「……分かんないです、正直。とにかく、誰にも見つからずに、平和に暮らせる場所を探したいってのが、今の目標です」
「それだけか」
「それだけです。魔王も四天王も、おれには関係ない。ただ、静かに生きたい。それだけなんです」
銀さんは、しばらく黙って、焚き火の炎を見つめていた。
「私も、似たようなものだ。神殿の重責からも、聖遺物の因縁からも、全部片付いたら――何もない町で、静かに、うまい飯でも食いながら暮らしたい」
「聖女様の願い、規模が慎ましいですね」
「贅沢な願いを持つと、また誰かに利用される。慎ましいくらいが、ちょうどいい」
その言葉には、妙な実感がこもっていた。おれは、それ以上何も言わず、ただ、焚き火の音を聞いていた。
◇ ◇ ◇
二日目、三日目と、旅は淡々と進んだ。街道沿いの小さな村で食料を補充し、日が暮れれば野宿する。銀さんの火起こしは、三日目にしてようやく成功した。
「ついに、私の力で火が」
「三日かかりましたね」
「聖女の力は、地道な積み重ねの上に開花するものだ」
「その理屈、後付けくさいですけど、まあ、おめでとうございます」
ささやかな成長を、二人で分かち合った。逃亡生活、こういう小さな達成感の積み重ねが、地味に心の支えになる。
だが、四日目の朝、その空気が一変した。
「……サノ、止まれ」
銀さんが、ふいに足を止めて、耳を澄ませた。
「どうしました」
「聞こえないか。……蹄の音だ」
言われて、おれも耳を澄ませた。遠く、街道の向こうから、規則正しい蹄の音が、確かに聞こえてくる。一頭や二頭じゃない。複数の馬が、こちらに向かって近づいてきている。
心臓が、跳ねた。
「まさか」
「間違いない。追いついてきた」
◇ ◇ ◇
おれたちは、慌てて街道を外れ、木々の間に身を隠した。息を潜めて、蹄の音が近づくのを待つ。
やがて、街道の向こうに、見覚えのある赤毛と、部下を数騎連れた一団が現れた。
「……リーゼロッテさん」
声には出さず、口の動きだけで伝える。銀さんが、無言で頷いた。
リーゼロッテさんの一団は、街道の途中で一旦馬を止めた。彼女は、辺りを見回しながら、部下に何やら指示を出している。声までは届かないが、明らかに、痕跡を確認している様子だった。
(歩き旅の跡、見つかったか……?)
昨夜の野宿の跡。焚き火の灰。踏み荒らされた下草。逃亡者としては、後始末が甘かったかもしれない。
リーゼロッテさんが、ふと、おれたちの隠れる林の方角へ、視線を向けた。
心臓が、止まりそうになった。
だが――彼女の視線は、林を通り過ぎて、そのまま街道の先へと戻った。部下に何か指示を出し、一団は再び馬を進め始める。街道を、そのまま東へと駆けていった。
おれと銀さんは、蹄の音が完全に遠ざかるまで、身動きひとつせず、息を潜め続けていた。
◇ ◇ ◇
「……行きましたね」
「ああ。だが、追い越されただけだ。先回りされた、と考えるべきだろう」
銀さんの言葉に、おれの背筋が冷えた。
「先回り、ということは」
「東部の廃教会に、我々より先に到着する可能性がある、ということだ」
木々の間から街道に戻りながら、おれは唇を噛んだ。
徒歩と、馬。当たり前の速度差が、今、致命的な差になろうとしていた。
「銀さん、急ぎましょう」
「ああ。だが、無理に急いで、体を壊しては元も子もない。……サノ、お前、まだ余力はあるか」
「あります。この体、無駄に頑丈なんで」
「なら、頼む」
おれたちは、疲れた足に鞭打つように、再び東への道を歩き始めた。焚き火で温まった体は、すぐに冷たい緊張感に包まれ直した。
逃亡生活十七日目、追跡の手は、確実に、目前まで迫っていた。
――なお、このときのおれは知らなかった。
林の中に身を潜めていたおれたちを、リーゼロッテが実はしっかりと視界の端に捉えていたことを。
「……見て見ぬふりをするのは、これで何度目になるか」
彼女は、部下に気づかれぬよう、小さく独り言ちた。
「まだ、確証がない。確証もなく声をかけて、逃げられればそれまでだ。……それに」
リーゼロッテは、馬上で、遠くなっていく林を、一瞬だけ振り返った。
「あの男、妙に、憎めん」
鷹は、まだ、獲物を追い詰めきる踏ん切りがつかずにいた。




