おれ、出発の朝に肝を冷やして、マーサさんの危機を知る
◇ ◇ ◇
逃亡生活十六日目の朝。おれは宿の部屋で、旅支度を整えていた。
「銀さん、荷物、それで全部ですか」
「ああ。身軽なのが逃亡者の基本だ」
銀さんの荷物は、小さな布袋一つ。中身はおそらく、着替えと、あとは謎の「投資」した壺(まだ手放していなかった)くらいのものだろう。
「その壺、まだ持ち歩いてるんですね」
「いずれ価値が上がると言ったろう」
「もう十日以上経ってますけど、上がる気配あります?」
「聖女の勘だ。信じろ」
信じがたい勘だった。おれはため息をつきながら、自分の荷物――パンと干し肉と、着替えと、ミレの餞別の残り(ほぼ空)――をまとめた。
東部の廃教会まで、徒歩で四日ほどらしい。荷馬車を雇う金の余裕はない。となれば、また歩き旅だ。この十六日間で、おれの脚力もだいぶ鍛えられた。異世界、体だけは着実に成長していく。使う場面が命懸けの逃走ばかりなのが玉に瑕だが。
「よし、準備できました。あとはマーサさんに、出発の挨拶だけして――」
その時、部屋の扉が、ノックもなしに勢いよく開いた。
「大変です!」
飛び込んできたのは、息を切らしたマーサさんだった。フードもずれ、顔は真っ青だ。
◇ ◇ ◇
「マーサ、どうした」
銀さんが、即座に真剣な顔になる。おれも荷物をまとめる手を止めた。
「さっき、店に、王国の騎士様が来ました! あの赤毛の!」
心臓が、ぎゅっと縮んだ。
「リーゼロッテさんが、直接!?」
「はい! いろいろ聞かれました。最近、この町で怪しい旅人を見なかったかとか、聖女様のお供の男について何か知らないかとか!」
「それで、お前は何と」
「もちろん、知らないで通しました! けど……」
マーサさんは、震える声で続けた。
「あの人、あたしの店の商品、じっと見てたんです。それで、最後に言われました。『お前の店、聖女様ゆかりの品を扱ったことがあるそうだな』って」
部屋の空気が、一瞬で凍りついた。
聖女様ゆかりの品。それが何を指すのか、おれには分からない。だが、銀さんの表情が、明らかに強張っていた。
「……そうか」
「リリアーヌ様、あの人、絶対何か掴んでます。あたしの店との繋がり、勘づいてるんです」
「分かった。マーサ、今日はもう店を閉めろ。しばらく、身を隠していた方がいい」
「あたしは平気です! それより、お二人が心配で。今すぐこの町を出た方が――」
「ちょうど今から出るところだ」
銀さんは、そう言って、荷物を担ぎ直した。おれも慌てて自分の荷物を背負う。
「マーサ、世話になった。……危険な役目、押し付けてすまなかったな」
「そんな、あたしは平気です。それより、道中、気をつけて。それと」
マーサさんは、懐から小さな紙包みを取り出して、銀さんに押し付けた。
「これ、当座の路銀です。多くはないですけど」
「受け取れん。お前だって生活が」
「いいから受け取ってください! リリアーヌ様に何かあったら、あたし、一生後悔します」
有無を言わさぬマーサさんの勢いに、銀さんは、ぐっと言葉に詰まった。それから、静かに紙包みを受け取った。
「……恩に着る」
「気にしないでください。それより、早く」
◇ ◇ ◇
裏口から宿を出て、おれたちは人気の少ない路地を選んで、東の門を目指した。
「銀さん、大丈夫ですか。マーサさんのこと、心配じゃないんですか」
「心配だ。だからこそ、今、私にできる一番の恩返しは、さっさとこの町から離れて、リーゼロッテの興味を私自身に引きつけたまま、マーサから遠ざけることだ」
銀さんの声は、いつになく真剣だった。
「あいつを危険にさらしたのは、私だ。……昔から、そうだった」
「昔から?」
「……いや、なんでもない。今は先を急ぐぞ」
また、はぐらかされた。だが、今日ばかりは、おれもそれ以上聞かなかった。マーサさんとのやり取りを見て、なんとなく分かったことがある。この二人の間にある「何か」は、きっと、軽い話じゃない。
◇ ◇ ◇
東の門に近づいたところで、おれたちは一旦足を止めた。門の前には、いつも通りの検問がある。だが、いつもより、明らかに警備の数が多い。
「……厳戒態勢、って感じですね」
「マーサの店を調べたのと、時期が一致しすぎている。おそらく、リーゼロッテが手を回したのだろう」
「どうします」
「正面から行くしかない。堂々と、な」
銀さんは、フードを深く被り直した。おれも同じように、フードを整える。腕相撲の教訓を思い出しながら、「堂々としすぎない、堂々」の絶妙なラインを、頭の中で調整した。
検問の列に並び、順番が来る。衛兵が、おれたちの顔を一瞥した。
「目的は」
「田舎への帰省です。兄妹揃って、里帰りに」
銀さんが、すらすらと嘘を並べた。妹設定、すっかり板についている。
「ふむ……最近、旅人の確認が厳しくてな。荷物、少し見せてもらうぞ」
衛兵が、おれたちの荷物を検める。パンと干し肉と着替えと、謎の壺。特に怪しいものは、何もない。
「……よし、通っていいぞ」
あっさりと、通過できた。おれと銀さんは、詰めていた息を、そっと吐き出した。
◇ ◇ ◇
門を抜けて、街道に出たところで、おれはようやく肩の力を抜いた。
「……なんとか、抜けられましたね」
「ああ。だが、油断はできん。リーゼロッテのことだ、すぐに我々がこの門を通ったことに気づくだろう」
「追ってくる、ってことですよね」
「間違いなく」
銀さんは、街道の先――東部へと続く道を見つめた。
「東部の廃教会まで、四日。その間、休む暇はないと思え」
「望むところです、って言いたいところですけど、正直しんどいです」
「弱音を吐くな。聖遺物の謎を解けば、私の潔白も証明できる。お前の逃亡生活にも、道が開けるかもしれん」
その言葉に、おれは、少しだけ、希望を見た気がした。
(聖遺物の件が片付けば、銀さんの容疑は晴れる。……そうなれば、この人も、堂々と生きられるようになるのか)
そして、それは同時に、おれ自身の未来にも、何か関わってくるかもしれない。この人と一緒にいるうちに、そんな予感が、少しずつ強くなっていた。
逃亡生活十六日目、おれたちは新たな街道へと足を踏み出した。マーサさんの危機、リーゼロッテさんの追跡、そして聖遺物の謎。全てが、東部の廃教会へと収束していく予感があった。
――なお、このときのおれは知らなかった。
その日の昼過ぎ、東の門の衛兵から報告を受けたリーゼロッテが、迷わず馬に飛び乗っていたことを。
「サノとリリアーヌ様、東部へ向かったか。……ならば、私も急ぐまでだ」
懐の寂しさなど、もはや二の次だった。
「待っていろ。今度こそ、追いつく」
鷹の翼は、獲物との距離を、確実に詰め始めていた。




