おれ、鷹の懐事情を知らずに、まさかの正面ニアミスをする
◇ ◇ ◇
逃亡生活十四日目。おれと銀さんは、オーレンスの安宿の一室で、深刻な話し合いをしていた。
「――で、結論から言うと、金がない」
「知ってます。あなたが全部使ったからです」
「聖女の権威にかけて反論したいところだが、事実なので黙っておく」
銀さんは、悪びれもせず、空になったパン袋を逆さに振っていた。当然、何も出てこない。
マーサへの調査依頼、宿代、そして銀さんの謎の「投資」(壺・飴玉・串焼き諸々)。ミレがくれた餞別は、オーレンス到着から数日で、見事に底をついていた。
「なあサノ、お前、力があるだろう。荷運びの仕事でも探すか」
「目立つのが怖いから加減してるのに、荷運びって根本的に矛盾してません?」
「加減して稼げばいい」
「その加減の練習で肘めり込まされたの、あなたですよね」
「昔の話だ」
「三日前です」
銀さんは聞こえないふりをして、窓の外を見た。おれはため息をついて、財布――もはや財布と呼べる中身ではない小銭入れ――を確認した。銅貨、数枚。パン一斤買えるかどうか。逃亡生活、いよいよハードモードに突入していた。
◇ ◇ ◇
結局、二人で市場の日雇い仕事を探すことになった。目立たない範囲で、力仕事以外の何か。
「荷物の仕分けなら、力は目立たないと思うんですけど」
「それだ。行くぞ」
大通りの外れの商会で、ちょうど「倉庫整理の手伝い、日当銅貨十枚」の張り紙を見つけた。おれと銀さんは、迷わず飛びついた。聖女様、日雇い労働に何のためらいもない。頼もしいのか情けないのか、判断がつかない。
「よし、ここは私が交渉する。任せろ」
「大丈夫ですか、聖女的な権威で押し切ったりしません?」
「安心しろ、そういう小賢しい真似はせん」
銀さんは、堂々と商会の扉を開けて――そして五分後、堂々と値切り交渉に負けて、日当を銅貨八枚まで下げられて戻ってきた。
「小賢しい真似はしませんでしたね、確かに」
「交渉術は聖女教育に含まれていなかった」
「含まれてる方が珍しいと思います」
◇ ◇ ◇
倉庫整理の仕事は、思ったより地味で、思ったより体力を使った。木箱を並べ替え、帳簿と照らし合わせ、埃まみれになりながら、おれと銀さんは黙々と働いた。
「銀さん、そっちの箱、意外と重いんで気をつけて」
「聖女を舐めるな。鍛えていると言ったろう」
銀さんは、意気揚々と木箱を持ち上げ――ふらついて、危うく尻もちをつきかけた。おれは慌てて木箱ごと支えた。もちろん、加減はきちんとした。
「……鍛えてるって、何を鍛えてるんですか」
「主に、精神力だ」
「筋力は鍛えてないんですね」
「聖女とは、心で戦うものだ」
「今、明確に体力負けしてましたよ」
銀さんは、ふん、と鼻を鳴らして、それ以上反論しなかった。反論できなかった、が正しい。
◇ ◇ ◇
一方その頃――と、これはおれの知らない場所での話だが――同じオーレンスの町の、別の安宿では、リーゼロッテ・クロイツが、これまた深刻な顔で懐を数えていた。
「……銀貨、あと三枚か」
王国騎士団の遠征費は、本来なら王都からの定期送金がある。だが、王国からラファール共和国への送金は、国交の関係上、簡単には通らない。今のリーゼロッテは、事実上、独自の判断で私費を切り崩しながら、単独で追跡を続けている状態だった。
「隊長補佐、そろそろ部下を呼び戻し、正式な追跡許可を得てから出直すべきでは」
同行していた部下の一人が、控えめに進言する。
「駄目だ。ここで手を緩めれば、また逃げられる。……サノとリリアーヌ様、両方の足取りを同時に掴める好機、そうそう巡ってはこない」
リーゼロッテは、剣の柄を握りしめながら、窓の外を見た。オーレンスの町並みが、夕日に染まっている。
「あと少しだ。あと少しで、追いつく」
その「あと少し」の距離が、実はとんでもなく近いことを、彼女はまだ知らない。
◇ ◇ ◇
夕方、日雇いの仕事を終えたおれと銀さんは、日当の銅貨十六枚(二人分)を握りしめて、意気揚々と大通りの屋台に向かっていた。
「今日は贅沢するぞ、サノ」
「贅沢って、銅貨十六枚でですか」
「串焼き二本ずつ買える」
「聖女の贅沢、規模が慎ましい」
とはいえ、久々にまともな稼ぎを得た解放感は、おれの中にもあった。屋台の並ぶ通りを歩きながら、串焼き屋の看板を物色する。
その時だった。
通りの反対側、別の屋台の前で、見覚えのある――いや、見覚えのありすぎる赤毛が、視界の端をかすめた。
「――っ」
おれは、反射的に銀さんの腕を掴んで、路地の陰に引っ張り込んだ。
「な、なんだ急に」
「し、静かに。あの赤毛、リーゼロッテさんです」
銀さんの表情が、瞬時に強張った。物陰から、そっと通りを覗く。
リーゼロッテさんは、屋台の店主と何やら話していた。だが――その様子が、明らかにおかしかった。
「……大将、これ、もう少しまけてもらえないだろうか」
「お客さん、さっきからそれ三軒目だよ。まけろまけろって、そんなに金ないのかい」
「いや、その、事情があってな……」
リーゼロッテさんは、串焼き一本の値段を、必死に値切っていた。
おれと銀さんは、物陰で、顔を見合わせた。
「……あの人、何してるんですか」
「さあ。だが――どうやら、金に困っている、ように見えるな」
「王国の誇る騎士様が、串焼き一本を値切ってる……?」
想像していた「追跡者」の姿と、目の前の光景の落差に、おれは思わず笑いそうになった。あの威圧感満点の腕相撲女神が、屋台のおっちゃん相手に涙目で交渉している。世界は広い。
結局、リーゼロッテさんは串焼きを一本だけ買い、名残惜しそうに他の屋台を横目に見ながら、通りの向こうへ歩いていった。おれたちのいる路地の、ほんの数メートル先を通り過ぎて。
心臓が、ばくばくと鳴っていた。だが、彼女は最後まで、こちらに気づかなかった。
「……行きましたね」
「行ったな」
おれと銀さんは、同時に詰めていた息を吐き出した。
「銀さん、あの人、なんで金に困ってるんでしょう」
「知らん。だが、都合がいい。金がない者は、動きも鈍る。索敵の余裕もないだろう」
銀さんは、意外と冷静に分析していた。おれは、なんとなく釈然としない気持ちを抱えながら、路地の奥へと足を進めた。
(あの人も、あの人で苦労してるんだな……)
追う者にも追う者の事情がある。妙な連帯感が芽生えそうになって、おれは慌ててその感情を打ち消した。いやいや、あの人はおれを捕まえに来てる張本人だ。同情してどうする。
◇ ◇ ◇
その夜、宿の部屋で串焼きをかじりながら、おれは今日一日を振り返った。
日雇いの仕事で得た、ささやかな稼ぎ。すぐそこまで迫っていた追跡者との、紙一重のニアミス。そして、追う者もまた、それぞれの事情と懐具合を抱えて、必死にもがいているという、妙にリアルな発見。
逃亡生活、綺麗事だけじゃ回らない。金がなければ、逃げることすら、まともにできない。それは、追う側も、同じらしい。
「銀さん、明日もまた日雇い仕事、探しましょう」
「賛成だ。今度はもっと日当のいい仕事にしろ」
「交渉、あなたに任せると安くなるので、次はおれがやります」
「不服だが、実利には逆らえん」
銀さんは、串の最後の一切れを、名残惜しそうに食べ終えた。
――なお、このときのおれは知らなかった。
その夜遅く、リーゼロッテが宿の帳面で、オーレンスの日雇い労働者の名簿を、片っ端から確認し始めていたことを。
「金がないなら、働くしかあるまい。……ならば、日雇いの記録を洗えば、いずれ引っかかる」
懐が寂しいのは、彼女にとって、捜査方針を変えるきっかけに過ぎなかった。
鷹は、財布が軽くなっても、獲物への執念までは軽くならない生き物だった。




