おれ、正体を握られて、密告の気配に気づく
◇ ◇ ◇
逃亡生活十三日目の夜。宿の一室で、おれは銀さんと、微妙な距離を置いて向かい合っていた。
「……それで、いつまで黙ってるつもりだったんですか」
「別に黙ってはいない」
「初日から気づいてたのに、今日まで黙ってたのは、黙ってたって言うんですよ」
「言葉の綾だ」
銀さんは、悪びれもせず、宿の粗末な椅子にふんぞり返っていた。そして、おれの荷物からしれっとパンを一つ失敬している。
「あ、それ今日の晩飯用の」
「今、食いたい気分になった」
「気分で人の晩飯奪わないでください」
「半分やる」
「半分て。もう半分齧った後に言うやつじゃないですよそれ」
銀さんは、齧りかけのパンを、悪びれもせずこちらに差し出した。おれは深いため息をついて、パンの残りを、渡された通りに受け取った。もう慣れた。慣れたくなかったが、慣れた。
「なんか、こう、いろいろ台無しになった気分なんですけど」
「何がだ」
「必死に隠してきたのが、馬鹿らしくなるっていうか。ケルシュで出会った初日から気づいてたなら、もっと早く言ってくれてもよかったのでは」
「言う理由がなかったからな。お前が困っている顔を見るのは、それはそれで面白かった」
「正直すぎる!」
「正直は美徳だ」
「都合のいいときだけ美徳連呼しますよね、あなた」
銀さんは、悪びれず二個目のパンに手を伸ばした。おれはとっさにパン袋を死守した。今日の学び、聖女様は財布だけでなく晩飯にも容赦がない。
◇ ◇ ◇
「まあ、いい」銀さんが、話を切り替えるように言った。「私はお前の正体を、神殿にも、王国にも売る気はない。安心しろ」
「……なんでそう言い切れるんですか」
「逃亡者同士の仁義だ。それに――」
銀さんは、少し言葉を切って、それから続けた。
「勇者の力を持つ護衛が一人いれば、私の道中も、多少は安全になる。実利の話でもある」
「結局、実利ですか」
「実利のない親切など、長続きせん」
「その理屈で言うと、おれのパンを奪う実利は何なんですか」
「腹が減っていた。実利とは、時に単純だ」
「哲学っぽく言っても誤魔化されないですからね」
銀さんは、聞こえないふりでパン袋にまた手を伸ばそうとした。おれは無言でその手を叩き落とした。加減はきちんとした。パンより大事なものは、ない。
「ただし」
銀さんが、ふと真剣な顔になった。急に空気が変わるので、こっちの感情がついていかない。
「お前の正体、私は口外せんが――マーサは、少し話が別だ」
「別、というと」
「あいつは、昔、裏の情報屋稼業に足を突っ込んでいた。今は堅気を装っているが、金の匂いには今も敏感だ。お前の正体を知れば、それを売って一儲け企むくらいのことは、平気でやりかねん」
心臓が、すっと冷たくなった。
「え、それ、大丈夫なんですか」
「……普段は、そんな真似はしない女だ。だが、状況による」
銀さんの声に、わずかな迷いが混じった。何かを言いかけて、やめたような、そんな間だった。
「銀さん?」
「……いや、なんでもない。念のため、しばらくは店に近づくのは避けろ」
「あなたは近づくんですか」
「私は関係者だからな」
「関係者が一番危ないと思うんですけど」
銀さんは、それには答えず、三個目のパンに手を伸ばした。おれは無言でパン袋を頭上に掲げた。銀さんが物欲しそうにそれを見上げる構図が、聖女様の威厳をだいぶ損なっていた。
◇ ◇ ◇
翌朝。おれは一人で、宿の近くの市場に食料の調達に出ていた。銀さんはマーサの店に「情報の進捗確認」で向かうと言って、朝から出かけている。ちなみに出がけに「パン、もっと買っておけ」と要求された。聖女様、逃亡中だろうと食欲は健在らしい。
パンと干し肉を(念のため昨日の三倍量)買い込んで宿に戻る途中、ふと、おれは路地の奥で、妙な人影に気づいた。
情報屋然とした身なりの、フードを被った男が二人、路地の隅で何やら話し込んでいる。見覚えはない顔だ。だが、道具屋の看板の陰から漏れ聞こえた単語に、おれは思わず足を止めた。
「――だから、その情報、間違いないんだな」
「マーサの店から出た話だ。間違いない。聖女様のお供に、王国の捜す黒髪の男が加わってるってな」
心臓が、跳ねた。マーサ、から出た話。
「その男、たしか名は」
「サノ、とか言ったか。詳しくは、これから王国側に探りを入れてみる。褒賞次第じゃ、こっちから売り込むのも手だ」
二人の男は、そう言って、路地の奥へと消えていった。
おれは、しばらくその場から動けなかった。パンの入った袋を、無意識に握りしめる。危ない。買ったばかりのパンが、また粉々になるところだった。緊張すると力加減が飛ぶの、いい加減治したい。
(マーサさんが、売った……?)
銀さんが「あいつは金の匂いに敏感だ」と言っていたのを思い出す。まさか、本当に。
いや、待て。冷静に考えろ。この情報が、マーサさんから直接漏れたのか、それとも――マーサさんが依頼した情報屋の、さらに別の筋から漏れたのか。まだ、分からない。
だが、いずれにせよ、状況は良くない方向に進んでいる。
◇ ◇ ◇
宿に戻ると、銀さんはまだ帰っていなかった。おれは落ち着かない気持ちで、部屋の中を意味もなく歩き回った。歩き回りながら、無意識にパンを一個かじった。緊張してるのに、腹は減る。人間、いや、転生者の生理現象、正直すぎる。
(銀さんに、今聞いたこと話すべきか……いや、待てよ)
銀さんとマーサさんの間には、何かがある。それは分かっている。だが、その「何か」の中身を、おれはまだ知らない。もしマーサさんが本当に情報を漏らしたのだとしたら、それは、二人の間の因縁と、無関係じゃないのかもしれない。
いや、考えすぎか。単純に、金に困った元情報屋が、うっかり口を滑らせただけかもしれない。
それでも――胸のざわつきは、消えなかった。
昼過ぎ、銀さんが宿に戻ってきた。心なしか、表情が硬い。手には、しっかり土産らしき串焼きの包みを提げていた。緊張感と食欲、この人の中では矛盾しないらしい。
「銀さん、進捗どうでした」
「……芳しくない。マーサの伝手も、思ったより情報を掴めていないようだ。……串焼き、買ってきた。食うか」
「あなた今それどころじゃないでしょう」
「腹が減っては、深刻な話もできぬ」
「さっき自分でも似たようなこと言ってましたね。あなたの人生、常に空腹が最優先事項なんですか」
「聖女とて霞を食って生きているわけではない」
銀さんは、串焼きを一本、当然のようにおれに手渡した。緊迫した空気のはずなのに、二人でもぐもぐ串焼きを食べる時間が、微妙に挟まった。おれはその居心地の悪い平和さに、少しだけ笑ってしまった。
串を食べ終えたところで、おれは、少し迷ってから、路地で聞いた話を、そのまま伝えることにした。隠しておく方が、後で拗れる気がした。
話を聞き終えた銀さんは、しばらく無言だった。串の先を見つめながら、静かに目を伏せる。
「……そうか」
「銀さん、あの、マーサさんのこと、何か知ってるんですよね。おれが聞いても」
「……今は、まだいい」
銀さんは、そう言って、窓の外を見つめた。ラファールの空は、今日も晴れていたが、その横顔には、どこか陰りがあった。
「マーサとのことは、いずれ話す。だが、今はまだ、私の中で整理がついていない」
「分かりました。無理には聞きません」
おれは、それ以上、踏み込まなかった。
「……その代わり」
銀さんが、ふと付け加えた。
「今夜のパン、もう一個くらいくれてもいいだろう」
「空気読んでください、今の流れで!」
しんみりした空気が、見事に霧散した。だが、なんだろう。この人がいつも通りだと、少しだけ、ほっとする自分もいた。
◇ ◇ ◇
逃亡者同士の、暗黙の距離感。詮索しない優しさと、踏み込まない冷たさは、案外、紙一重なのかもしれない。
――なお、このときのおれは知らなかった。
その日の夕方、宿の窓の外、路地の暗がりに、見覚えのある赤毛の女が、静かに佇んでいたことを。
「……サノ、と、聖女リリアーヌ、か」
リーゼロッテ・クロイツは、遠くケルシュの港から、ここオーレンスまで、静かに足取りを追い続けていた。
「面白いことになってきたな」
鷹の目は、二重の獲物を、同時に捉えようとしていた。
ちなみに、この鷹、道中の宿代とパン代で、彼女自身の懐もそれなりに寂しくなっていたのだが――それはまた、別の話である。




