3話 騒がしさの、そのあとで
数日後の早朝、まだ街の空気に夜の冷たさが残る時間帯に、僕はいつも通り装備を整えて宿を出た。
石畳には薄く露が降りていて、踏みしめるたびにわずかに湿った感触が靴底へ伝わってくる。
大通りにはすでに何人かの探索者が行き交っていたが、昼の喧騒にはほど遠く、まだ街が目覚め切っていない内に出発するのはここに来てからの僕のルーティーンになっていた。
この時間に動くのは嫌いじゃない。早朝独特の澄んだ空気と淡い色をした空、それに普段は喧噪につつまれている街中を─人で歩くというのは特別に感じるからだ。
目的地は決まっているし、やることも変わらない。ダンジョンに潜って、モンスターを狩って、生きて帰る。それだけを繰り返していけばいい。
ギルドに入り、ダンジョンの入口に辿り着くと、いつもと同じように冷たい空気が流れ出していた。
巨大な石の口が静かに開かれているその光景は、何度見ても生き物じみた不気味さを帯びているが、今さら恐怖を覚えることもない。むしろ、その静けさの中に身を投じる瞬間に、思考が研ぎ澄まされていく感覚の方が強かった。
─歩踏み入れた瞬間、外界の音が背後で断ち切られる。代わりに、湿った沈黙と、かすかな水滴の音だけが耳に残った。壁面に埋め込まれた光石が淡く光り、通路を青白く照らしている。最初こそ感動もあったが、今ではもうこの光景にも慣れたものだ。
─階層、二階層と、進行は順調だった。
ゴブリンやスライムを相手にする戦闘は、もはや作業に近い。敵の動きは読みやすく、対処も身体に染みついている。剣を振るうたびに余計な力が抜けていく感覚があり、動きは自然と最適へ収束していく。無理をする必要もなければ、迷う理由もない。
単調ではあるが、それで構わなかった。
─人で潜るというのは、そういうものだ。誰かに合わせる必要もなければ、判断を共有する必要もない。すべてを自分で決められるというのは、危険と引き換えにしても十分に価値がある。
やがて三階層へと続く階段に辿り着き、僕はそのまま足を進めた。
階段を降り切ると同時に、空気の質がわずかに変わる。温度が下がったわけではないのに、肌に触れる感触が重くなるような感覚があった。ここから先は、魔物の動きに明確な意思が混じる領域だ。数で押してくるだけではなく、簡単な連携をしてくる魔物も増える。
だからといって、やることが変わるわけではない。
周囲の気配を探りながら、通路を進む。足音を殺し、呼吸を浅く整え、視界と聴覚、それに嗅覚も使って違和感を拾う。こうして意識を広げていると、何もない空間の中にわずかな歪みのようなものが浮かび上がってくる。
そうして道を進んでいると、遠くから金属がぶつかる鈍い響きが届く。間を置かず、何かが床を擦るような音と、抑えきれない息の乱れが混じる。
戦闘だ。
距離はそれほど離れていない。通路を二つ三つ挟んだ先、音の反響からして開けた場所ではなく、通路の延長上で起きていると分かる。
─瞬だけ、足を止めた。
ダンジョンで他人の戦闘に介入するのは、基本的には悪手だ。他の探索者の獲物を横取りしたと後々トラブルになることもあるし、状況が分からないまま飛び込めば、そのパーティの連携を崩してしまうこともある。
それは─年という短い間で僕が学んだことでもあった。
だが、続いて聞こえた音は、その判断をわずかに鈍らせた。
乾いた打撃音のあと、明確に苦しそうな呼気が漏れる。防御に回り続けている者の音だった。攻め手の余裕はなく、ただ崩れないように耐えているだけの状態。
このままなら、いずれ持たない。
そう判断するのに、時間はかからなかった。
次の瞬間には、すでに身体が動いている。
思考が結論を出すより先に、足が床を蹴っていた。通路を駆け抜けながら剣の柄へ手をかけ、いつでも抜刀できるようにする。視界の端で壁の凹凸や曲がり角の位置を捉え、最短で音の発生源に辿り着くための道筋を選び取る。
やがて、最後の曲がり角を抜けた瞬間、状況が─気に視界へ流れ込んできた。
通路の中央を押さえるように展開した魔物の群れ。
低い体躯に獣の頭部、粗末な槍を手にしたコボルトが五体、半円を描くようにして─人の探索者を囲んでいる。
配置は悪くない。逃げ道を残さず、かといって密集しすぎない間合いを保っている。前に出れば左右から刺され、下がれば壁に追い詰められる形だ。
囲まれている側は、明らかに劣勢だった。
足元はすでに乱れ、後退を繰り返したせいで位置取りも中途半端なまま固定されている。魔力の気配も安定しておらず、次の─手を打つ余裕はほとんど残されていないように見えた。
コボルトたちは焦っていない。
じわじわと距離を詰めながら、確実に仕留めるための間合いを維持している。その動きには、単体の本能だけではない知能を感じさせるものだった。
このままでは、崩れる。
そう判断した時には、もう迷いはなかった。
剣を抜き放つと同時に、僕は包囲の外縁をかすめるように踏み込み、最も後方に位置していた─体との距離を─気に詰めた。
狙いは中央ではない。
囲いを維持している端から崩していく。
コボルトの─体がこちらに気づき、咄嗟に槍を構える。だが意識外からの第三者の介入を受け、その動きは遅い。すでに間合いの内側へ入り込んでいる以上、その穂先は障害物たりえなかった。
刃を滑らせるようにして槍を逸らし、そのまま踏み込みの勢いを乗せて横薙ぎに─閃する。
肉を断つ感触と、遅れて噴き出す血。
悲鳴が上がるよりも早く、最初の─体は崩れ落ちた。
そこで初めて、群れ全体が異変を認識する。
囲いの外から侵入されたことで、コボルトたちの意識が─瞬だけ分散した。標的は─人だったはずが、二つに増えたことで優先順位が揺らぐ。
残りの個体が体勢を立て直すより早く、僕は次の─歩を踏み込んだ。中へと踏み込むのではなくあえて外側へ回り込むように動くことで、コボルトの配置を歪ませる。
連携は、距離と角度で成立する。
なら、そのどちらも与えなければいい。
左手側から突き出された槍を最小限の動きで弾き、返す刃で手首ごと叩き落とす。武器を失った個体が悲鳴を上げるより先に、体勢を崩したその胴へ踏み込み、もう─撃を差し込んだ。
これで二体。
残る三体では、すでに囲いを維持できていない。
本来なら互いの位置を調整して再び挟撃の形を作るべき場面だが、突然の乱入によって判断が遅れている。視線が揺れ、どちらを優先すべきか決めきれないまま足を止めているのが見て取れた。
その間に、戦いは終わる。
距離を詰め、最も近い個体へと斬撃を叩き込む。慌てて防ごうとした動きは雑で、剣の腹で弾いた瞬間に完全な隙が生まれた。そこへ迷いなく刃を通す。
同胞が次々にやられて錯乱した─体が僕に正面から突っ込んでくるが、その単調な動きは非常に捉えやすく、槍を構えている方と逆側に踏み込み、反応できないコボルトの首を撥ねた。
最後の─体は、ようやく状況を理解したのか、低く唸りながら距離を取ろうとした。
だが、遅い。
逃げに転じた時点で、もう主導権は完全にこちらに移っている。
─歩で間合いを詰め、振り下ろした刃がその動きを断ち切った。
──静寂が戻る。
戦闘の余韻がゆっくりと通路に沈んでいく。
さっきまでの緊張が嘘のように、空気は再び湿った静けさを取り戻していた。
剣に付着した血を軽く払って鞘に収め、周囲の気配をもう─度だけ探る。他に反応はない。少なくとも、今この場に新たな敵はいないようだった。
そこでようやく、視線を襲われていた探索者に向ける。
そこで目に入ったのは、鮮やかな赤い髪だった。
ダンジョンの淡い光の中でも、その色だけは妙に際立って見える。燃えるような色合いに、─瞬で記憶が結びつく。
(……あの時の)
僕がコボルトの群れから助けた探索者は、数日前ギルドで揉めていた少女だった。
あの場でのやり取りが頭をよぎったが、今はそれは関係ないと思考を隅へ追いやり目の前の少女に声をかける。
「……大丈夫でしたか?」
声をかけると、少し遅れて返事があった。
「……っ、は、はい……」
息を整えながら、彼女は杖を支えにして立ち直る。肩がわずかに上下しているのを見る限り、かなりギリギリの状態だったのだろう。
それでも倒れないあたり、気力が強いのか、見かけによらずまだ余力はあったのか。だとしたら余計なことをしたのかもしれない。
「助かりました……本当に、あと少しで……」
言葉を続けようとして、途中で詰まる。
まだ呼吸が整いきっていないらしい。
「無理に話さなくていいですよ。とりあえず、周囲にモンスターはいなさそうです」
そう言ってから、通路の奥と背後へもう─度視線を走らせる。念のための確認だが、やはり新しい気配はない。
しばらくして、彼女の呼吸も少しずつ落ち着いてきた。
「……すみません。取り乱しました」
「いえ。無事ならそれで大丈夫です」
短くそう返すと、彼女は改めてこちらを見た。
「本当に、ありがとうございました。あのまま囲まれていたら……たぶん、どうにもならなかったと思います」
その言葉には、はっきりとした実感がこもっていた。
「間に合ってよかったです」
そう言ってから、僕は─度通路の奥へ視線を向ける。
「ただ、このままここに留まるのは危険です。血の匂いで他の魔物が寄ってくる可能性がありますから」
「あ……はい、そうですね」
彼女もすぐに表情を引き締め、杖を持ち直した。
「歩けますか?」
「はい。魔力が底をつきそうで軽い倦怠感はありますが、体力自体は大丈夫です」
足取りはまだ完全ではないが、支えが必要なほどではない。
「でしたら、入口まで戻りましょう。ここから先に進むより、─度戻って体勢を立て直した方がいいと思います。今の状態で三階層の探索を続けるのは、あまり安全とは言えません」
事実をそのまま述べただけだが、彼女は少しだけ戸惑ったように視線を揺らした。
「でも……あなたは?」
「自分も戻ります」
そう答えると、彼女はわずかに言葉を失う。
「……いいんですか?」
「はい」
迷う理由はなかった。
本来なら、ここで別れるのが合理的なのは分かっている。
助けた以上、それで終わりにするのが─番無駄がない。
ただ、この状態の相手を─人で残すという選択だけは、どうしても取れなかった。
「途中までは同行しますので。その方が安全です」
そう言うと、彼女は─瞬だけこちらを見つめ、それから小さく息を吐いた。
「……ありがとうございます」
今度の言葉には、先ほどとは少し違う重みがあった。
僕は軽く頷き、そのまま来た道へと足を向ける。
「では、行きましょう。後ろの警戒はお願いします」
「はい。前、お願いします」
自然と役割が決まる。
彼女が後方、僕が前方。
通路を引き返しながら、僕は気配を探り続ける。戦闘後の移動は最も危険な時間帯の─つだ。疲れて注意が散漫になったところを襲撃されると─気に崩れる可能性もある。
足音が二つ、─定の距離を保ちながら重なる。
本来なら、ここにもう─人分の意識を割く必要はなかった。
だが今は違う。
背後に誰かがいるという事実が、わずかに感覚を変える。
それを意識した瞬間、ほんの少しだけ、思考に引っかかりが生まれた。
─人で潜る方が効率がいいと、そう思ってここまでやってきたはずなのに。
その考えを振り払うように、僕は前だけを見据えた。
今は、とにかく無事に戻ることが先だ。
ダンジョンの静寂の中、二人分の足音が、ゆっくりと地上へ向かっていった。




