2話 赤髪の魔法使い
普段であれば、依頼内容を吟味する探索者たちの落ち着いた会話が広がっている時間帯のはずだった。だがこの日は、同じ掲示板の前でありながら、明らかに質の異なるざわめきが渦を巻いている。
人だかりは半円を描くように広がり、野次馬たちが肩越しに内側を覗き込んでいた。その中心から、鋭く張りのある声がホール全体へ突き抜ける。
「別にわがままで言ってるんじゃないんだから! 納得できないだけよ!」
怒鳴り声であるにもかかわらず、不思議と耳に残る、よく通る声だった。
人の隙間を縫うようにして中を覗いた瞬間、僕はわずかに視線を奪われる。
そこに立っていたのは、腰まで届く鮮やかな赤髪の少女だった。炎を思わせる長い髪が動きに合わせて揺れ、館内の灯りを受けて微かに光を弾く。年は僕と同じく十代半ばくらいだろうか。黒を基調としたローブには少しの装飾が脚らえられており、手にした細身の杖の先端は、対峙する相手の胸元へと迷いなく突きつけられていた。
「前に出て戦ってたのは俺たちなんだぞ?」
対するのは、いかにも前衛といった風体の男たちだった。中央に立つ大剣使いが、苛立ちを隠そうともせず言葉を投げる。
「取り分が多くなるのは当然だろ」
「でも魔物倒したの、ほとんどわたしの魔法じゃない!」
即座に返される反論。いつから揉めているのかは知らないが、僕がホールに戻ってくるまでそれほど時間は経っていない。せいぜい15分程だろう。
「あたしがどれだけパーティに貢献してると思ってるの!?」
「こっちは殴られながら足止めしてんだよ! お前は後ろから魔法撃ってるだけだろ!」
横に立つ槍使いが吐き捨てるように言うと、周囲の空気がわずかにざわついた。
その一言が、確実に一線を越えたのだと分かる。
少女の眉が、ぴくりと動く。
「……“だけ”?」
「事実だろ。守られてる後ろで撃ってるだけじゃねえか」
さらに追い打ちをかけるように、弓を背負った男が腕を組んだまま口を開いた。
「索敵もしない、防御もできない、荷物も持たない。戦闘のときだけ出てきて偉そうにする。魔法使い様は楽でいいよな」
その言葉を受けた瞬間、少女の表情が一度だけ完全に固まった。
だが、すぐに息を整え、正面から言い返す。
「わたしが前に出たら、誰がモンスターに有効打を与えるの? それが難しいから、あたしがこのパーティに入ったんじゃない」
「魔法使いだからって、それ以外何もしねえとは思わなかっただけだ」
大剣の男が、まるで当然の理屈でも語るかのように淡々と返す。
「当たり前の話をしてるだけだ」
「こっちは魔力切れ寸前まで魔法撃ってるの! 他のことまで気が回らないのを、なんで分かってくれないの!?」
声がわずかに震えた。それでも、言葉は止まらない。
「魔法だって撃てば終わりじゃない! 詠唱も、魔力制御も、タイミングだって──」
「こっちだって同じだろ」
言葉を遮るように、リーダー格の男が静かに被せる。
「体力削られながら敵を引きつけて、お前の攻撃が自分に当たらないように位置を調整して、装備も削れていく。それ全部含めて考えりゃ、取り分が多くなるのは当然だ」
その理屈は、冷静に聞けば一面の正しさを持っている。
だからこそ、少女は次の言葉を一瞬失った。
握りしめた杖に力が入り、白い指先がわずかに震える。
「……つまりさ」
大剣の男が結論を出すように言う。
「今回の報酬はリリアが二割。それで納得できねえなら、他を当たってくれ」
リリア、と呼ばれた少女は、しばらく何も言わなかった。
周囲のざわめきが遠のいたように感じるほどの沈黙が落ちる。
やがて、ゆっくりと顔を上げた。
「……わかった」
意外なほど落ち着いた声だった。
「そこまで言うなら、もういい」
「分かってくれりゃ──」
「報酬、全部そっちで分けていい」
三人が揃って言葉を失う。
「は?」
「その代わり」
彼女は胸元に手をかけ、迷いなくギルドタグを外した。
「わたし、このパーティー抜けるから」
小さな金属音が、妙に大きく響く。
「おい、本気か?」
「うん。本気」
振り返らずに答えるその声音に、揺らぎはなかった。
「後ろで魔法撃ってるだけの人、いらないんでしょ?」
皮肉でも怒りでもない。ただ事実を確認するような口調だった。
返す言葉を失った三人を残し、彼女はギルドタグを置いて背を向ける。
「今までありがと」
それだけ言って歩き出すと人の波は自然に割れ、彼女の進む道を作る。ざわめきがわずかに後退し、その背中だけが妙に鮮明に目に残った。
その流れの中で、ふと彼女と目が合った。
近くで見ると、強気な印象の奥に、押し殺された悔しさがかすかに滲んでいる。
だが彼女は、それ以上何も言わなかった。
視線を外すでもなく、ただほんの一瞬だけこちらを見据え、それから何事もなかったかのように前を向くと、そのまま人垣の外へと歩き出していく。
先ほどまであれだけ言い合っていた余韻を、まるで振り切るように。
やがて彼女は人混みの向こうへと紛れ、特徴的な燃えるような赤い髪の色も見えなくなった。
呼び止める理由はなかったし、そもそも関わるつもりもなかった。
ただ──ほんのわずかに胸の奥へ引っかかった感覚だけが、後に残る。
僕はそれを意識の外へ押しやるようにして、視線を前へ戻した。
周囲のざわめきが徐々に元の調子へ戻り、誰かの軽口や、依頼の話し声が重なり始める。ほんの少し前までの緊張感が、嘘のように薄れていく。
夕方の光が石畳を長く照らし、人の影がゆっくりと伸びている。ギルドから吐き出される探索者たちの流れはまだ途切れず、鎧の擦れる音や、今日の成果を語り合う声が街路に混ざり合っていた。
いつも通りの光景だ。
もうすぐ日も沈む、今日は疲れたしもう今日はダンジョンに潜るのはやめよう。
そう判断して、僕は自然と足を宿のある通りへと向けていた。
この街──グローラントは、ダンジョンによって成り立っている都市だ。
地下に巨大なダンジョンが存在し、その恩恵と危険を同時に抱えながら、探索者たちの出入りによって発展してきた場所。だからこそ、ギルドの支援は他の都市とは比べものにならないほど手厚い。
例えば、現在僕が利用している宿だ。
探索者向けに用意された提携宿は、最低限の設備を備えながらも価格が抑えられており、駆け出しから中級者にいたるまで幅広く利用されている。安全面も考慮されていて、門限や簡単な身元管理もあるため、長期滞在にも向いている。
僕がこの街に来てからずっと世話になっているのも、その中の一つだった。
豪華ではないが、寝る場所があって、水浴びもできて、食事が取れる。
それで十分だ。
大通りから一本外れた通りへ入ると、さっきまでの喧騒が少しずつ遠ざかり、代わりに生活の音が近くなる。窓越しに聞こえる笑い声や、夕食の支度をする匂いが、街がただの戦場ではないことを思い出させる。
しばらく歩いた先に、見慣れた看板が見えた。
木製の簡素な造りの建物だが、入口の前には何人かの探索者が腰を下ろし、今日の戦果を語り合っている。いつも通りの光景だった。
扉を開けると、温かい空気とともに、食事の匂いが流れ込んでくる。
「おかえり」
カウンターの奥から、顔なじみの店主が軽く手を挙げた。
「ただいま戻りました」
短く返し、そのまま部屋の鍵を受け取る。
特別な会話はない。けれど、それが妙に落ち着く。
階段を上がり、自分の部屋の前で一度だけ足を止める。
何かを考えようとしたわけじゃない。
ただ、ほんの一瞬だけ、さっきの光景が頭をよぎった。
雑踏の中で見た、あの表情。
強気な言葉の裏に押し込められていたもの。
それを思い出しかけて──やめる。
(……僕には関係のないこと)
小さく息を吐き、扉を開けた。
部屋の中は静かで、簡素なベッドと机があるだけの、いつもと変わらない空間が広がっている。
剣を外し、壁に立てかける。
その動作も、すっかり体に染みついていた。
一人でいること。
一人で決めること。
一人で潜ること。
それが一番効率がいいし、安全だ。
そうやって、ここまでやってきた。
だから、これからも変える必要はない。
ベッドに腰を下ろし、ゆっくりと息を吐く。
外のざわめきが、少しずつ遠ざかっていく。
今日はもう終わりだ。
明日も、きっと同じように潜る。
同じように戦って、同じように帰ってくる。
それでいい。
それだけで、十分だ。
そう思いながら、僕は静かに目を閉じた。
──その数日後、自分があの赤髪の少女と関わることになるとは、この時はまだ考えてもいなかった。




