1話 ダンジョン
初投稿です
どこまでも続く、鈍い茶色の石壁と天井。
閉ざされた洞窟であるにもかかわらず、ところどころに埋埋まっている光る石が周囲をぼんやりと照らしている。その光は決して明るいとは言えないが、完全な闇に呑まれるほどでもない──視界の端がわずかに滲む程度の、曖昧で不気味な明るさだ。
もしこれが地上の景色なら、あるいは幻想的だと感じたかもしれない。
だが、今の僕にはそんな余裕はなかった。
「……ッ、は……」
喉の奥が焼けるように熱い。
荒くなった呼吸を無理やり押さえ込みながら、僕は右手に握った剣を構え直した。腕が重い。だが下ろすわけにはいかない。視線の先にいる“あれ”が、いつ踏み込んでくるか分からない以上、気を抜いた瞬間がそのまま致命傷になる。
──ぐちゃり。
湿った足音が、やけに大きく響いた。
音の主が、ゆっくりと暗がりから姿を現す。
オーク。
人より頭一つは高い体躯に、異様に広い肩幅。赤茶けた皮膚は分厚く、ところどころに刻まれた傷跡が古い戦いの激しさを物語っている。その外見はただ肥え太っているようにも見えるが、皮膚の下には鎧のような筋肉が幾重にも折り重なっており、生半可な攻撃では刃すら通らない。
潰れた鼻に、突き出た顎。
そこから覗く黄ばんだ牙は、何度見ても慣れることがない。
──だが。
その顔に浮かんでいるのは、怒りだけではなかった。
かすかに歪んだ表情は、苦痛の色を帯びている。
(……効いてる)
胸の奥で、小さく確信する。
ここまで何度も斬りつけてきた傷が、確実に蓄積している証拠だ。
僕──アレン・ノーツは、剣を握る手に力を込めた。
「来るなら来い」
低く吐き出す。
次の瞬間、オークが喉を震わせ、低い咆哮と共に地面を蹴った。
その巨体からは想像もつかない踏み込みで、一気に間合いを詰めてくる。最初に対峙したときは、その速度に反応するだけで精一杯だった。
(だけど、今なら見える!)
振り上げられる腕。
わずかな癖。
踏み込みの重心。
これまでの攻防で叩き込まれたパターンが、脳裏に焼き付いている。
僕は半歩だけ踏み込みをずらし、振り下ろされる直前の脇へ剣を滑り込ませた。
肉を裂く手応え。
そのまま勢いを殺さず、背後へ回り込む。
──ガンッ!!
遅れて、拳が地面を叩き砕いた。石片が弾け、空気が震える。
だが、もうそこに僕はいない。
「グォッ!!」
怒りの咆哮。
振り向きざまに腕が伸びてくるが、その軌道もすでに読めている。僕は一歩後ろへ跳び、その間合いから外れた。
息を整え、自分に言い聞かせる。
焦るな、欲張るな、ゆっくりでいいんだ。
オークの全身から血が流れている。分厚い皮膚に阻まれながらも、確実に傷は増えていた。出血量は無視できない。このまま攻防を繰り返せば倒せるだろう。
そう判断した直後、オークが再び突進してくる。
同じ動き。
同じ癖。
だが、その速度はわずかに鈍っていた。
僕は呼吸を合わせ、再びその攻撃をいなす。
踏み込み、斬る。
離れる。
また踏み込む。
単純な繰り返し。
それでも、確実に相手を削るための最適解。
やがて──
「グ……ォ……」
喉の奥から漏れたかすれた音と共に、オークの巨体が前のめりに崩れ落ちた。
鈍い衝撃音が、洞窟内に響く。
しばらく、その場から動けなかった。
肩で息をしながら、倒れたオークを見下ろす。
動かない。
起き上がる気配もない。
完全に、沈黙している。
「……はぁ……」
ようやく、息を吐く。
どれくらい時間が経ったのかは分からない。
ダンジョンの中では、時間の感覚が曖昧になる。太陽は差し込まず、影も伸びない。ただ一定の光と湿った空気だけが、変わらずそこにある。
「……今日は、これで終わりかな」
呟きながら、周囲を確認する。
気配はない。
僕は剣を収め、倒れたオークへと歩み寄った。
解体作業に取りかかる。
慣れた手つき──とはまだ言えないが、以前よりは確実に無駄が減っているのが分かる。皮を剥ぎ、牙を外し、魔石を取り出す。
オークの魔石はそれなりに値が付く。
この分厚い皮も、加工すれば装備や鞄になる。
つまり──
「これで、しばらくは食っていけるな」
小さく呟く。
オークを一人で狩れるようになって、ようやく探索者として生計が立ち始めた。
だが同時に、それは限界も意味している。
一体倒すのにかかる時間。
消耗する体力。
武器の損耗。
そして、常に隣り合わせの死。
「……そろそろ、仲間が欲しいな」
ぽつりと漏れる。
前で受けてくれる戦士。
後ろから支援してくれる魔法使い。
そういう存在がいれば、効率も安全性も段違いに上がる。
──分かってはいる。
「……まあ、それは後で考えるか」
今はまだ、目の前の生活を回す方が先だ。
解体を終えた素材を鞄に詰め込みんで立ち上がり、今日はもうギルドに戻ることにした。
今僕がいるのはリオネル王国の都市、グローラント。その近郊にあるダンジョン「ブロスメイリ」である。
ダンジョンとは、地下に広がる巨大な空間のことで、その形は場所によって様々だ。僕が現在探索中のブロスメイリのように迷路になっている洞窟もあれば、なんと地下だというのに空が広がっているダンジョンもあるらしい。
そして一番大事なのがダンジョンに生息する魔物や、ダンジョン内で採れる鉱物などの所謂「ダンジョン資源」だ。
ダンジョンがある場所に探索者が集まり、ダンジョン資源を交換し合い市場が発展し、ダンジョンの近くに栄えた都市が出来上がっていくのだ。この都市、グローラントもダンジョン「ブロスメイリ」目当てでやってきた人々が作り上げた街だと聞き及んでいる。実際、リオネル王国でもこの都市は有数であり、豊富なダンジョン資源による交易が盛んだ。
今向かっている探索者ギルドでは、ダンジョン資源の買い取りの他、ダンジョン内部の安全性の確保、ダンジョン資源の管理、探索者の登録などダンジョン関係の多岐に渡る業務を行っている。
要するに、ダンジョンに関わる人たちの拠点ってことだ。
たまに現れるゴブリンやコボルト等のモンスターを倒しながら元来た道を進み、最後の曲がり角を抜けた先で、視界がわずかに開けた。
そこにあるのは、見慣れた石造りの大扉。
ダンジョンと地上──いや、この都市の中枢とを繋ぐ境界だ。
僕は一度だけ呼吸を整え、ゆっくりとその扉を押し開けた。
瞬間、空気が変わる。
ひやりと湿った地下の気配が背後へ押し流され、代わりに流れ込んできたのは、熱と人の匂いだった。
視界の先には、広いホールが広がっている。
探索者ギルド、一階大ホール。
ダンジョンの真上に築かれたこの建物は、内部でそのまま地下と接続している。つまりここは、“帰還地点”であると同時に、“出発地点”でもある。
耳に飛び込んでくるのは、ざわめきだった。
鎧の擦れる音。武器がぶつかる音。誰かの笑い声と、別の誰かの怒鳴り声。酒の匂いに混じって、血と鉄の残り香が漂っている。
ついさっきまでいたダンジョンと、あまりにも地続きすぎる空間。
なのに、ここはもう“安全圏”だと、誰もが当然のように理解している。
(……帰ってきた)
胸の奥で、小さく息を吐く。
ほんの一枚の扉を隔てただけなのに、緊張がじわりとほどけていくのが分かった。
僕はそのままホールへ足を踏み入れる。
床は磨かれた石畳で、ダンジョンの荒れた地面とは違って平坦だ。だが、その上を歩く探索者たちの姿は、ついさっきまで自分がいた場所と何も変わらない。
血の付いた鎧のままの者。
肩を貸し合っているパーティ。
笑いながら武器の話をしている連中。
ここでは、それが日常だ。
ホールの奥へ視線を向ける。
長いカウンターが並び、「依頼受付」「登録」「素材買い取り」といった札が掲げられている。その前では職員たちが休む間もなく手を動かし、探索者たちを次々と捌いていた。
僕は迷わず、「素材買い取り」の窓口へ向かう。
「すみません」
声をかけると、赤い制服の女性職員が顔を上げた。
ほんの一瞬でこちらの状態を見て取るような視線。
傷の有無、装備の状態、持ち込んだであろう素材の規模。
僕がダンジョンから戻ったばかりだから実はそれは気のせいで、ただ視線に敏感になっているだけかもしれないけれどそう感じてしまった。
素材の買い取りの話をすると、彼女は事務的に、しかし柔らかく言った。
「素材の買い取りですね。こちらにご記入をお願いします」
差し出された用紙を受け取る。
名前、探索者番号、素材の種類。
書き慣れてきた手順をなぞるように、淡々と埋めていく。
最初はこの紙一枚にも手間取っていたのに、今では考えずとも手が動く。
(……慣れてきたな)
小さく実感する。
書き終えた用紙と共に首から下げていたギルドタグを提出する。
ギルドタグとは自分がギルドに所属する探索者であることの証明だ。素材の買い取りや依頼を受ける際は必ずこれを提出しなければならない。
職員はギルドタグと書類に目を通してすぐに頷いた。
「確認しました。受付番号はこちらです」
差し出された札には「62」と書かれている。
「準備が整い次第お呼びしますので、館内でお待ちください」
「分かりました」
軽く頭を下げて、その場を離れる。
ホールの柱へ寄りかかりながら、周囲を見回した。
この時間帯は、まだ人が少ない。
多くの探索者が戻ってくるのは、もう少し後だ。だからこそ、こういう時間は処理も早い。
(すぐ呼ばれるな)
そう思った矢先。
「──六十二番の方」
予想通り、名前が呼ばれる。
僕は札を握り直し、奥の部屋へと足を向けた。
案内された先は、静かな鑑定室だった。
外の喧騒が嘘のように、音が抑えられている。
「お願いします」
軽く頭を下げながら、背負っていた鞄をカウンターへ乗せる。
中から取り出すのは、折りたたんだオークの皮と牙、そして布に包んだ魔石。
「オークの素材と魔石です。さっき取ってきました」
男性職員がそれを受け取り、無言で確認を始める。
皮の状態を指先で確かめ、切断面を見る。魔石は光に透かし、内部の濁りをチェックしている。
その一連の動作は無駄がなく、慣れきっていた。
やがて、彼が顔を上げる。
「……いいですね」
「え?」
「処理が丁寧です。魔石も損傷なし。状態はかなり良い」
思わず、息が止まる。
褒められることに慣れていないせいで、反応が遅れた。
「最初は、全然ダメだったんですけど……」
苦笑しながら言うと、職員はわずかに頷いた。
「皆そうです。ですが、この仕上がりなら十分に通用します」
そう言って、素材を計量台へ乗せる。
カチャ、と乾いた音。
しばらくしてから、彼は結果を告げた。
「今回の査定額はこちらです」
差し出されたトレーに乗っていたのは、これまでで見たことのない量の銀貨だった。
「……え、こんなに?」
「状態が良いですからね。妥当な金額です」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
確実に前に進んでいる。
そう思えた。
「最近、慣れてきました?」
何気ない問い。
「そんな感じです。まだギリギリですけど」
「いえ、一人でオークを安定して狩れているなら、十分な実力です」
その言葉は、軽くはなかった。
オークを単独で狩れる。
それは、“食っていける探索者”のラインに立ったということだ。
しかし、職員が「ただ」と少しだけ声音を変えてその後に続ける。
「この先を考えるなら、パーティを組むことをおすすめします。安全性も効率も、段違いに変わりますから」
やはり、その話になる。
僕は苦笑しながら、軽く肩をすくめた。
「組みたいんですけどなかなか見つからなくて…。ただ今より下の階層にもその内挑戦しようと考えているので、その際は仲間を探してみようと思います」
そんな他愛もない会話をしながら、お金を受け取る。
ずしっと手に乗る感触に、自然と口元が緩んだ。
「また、お待ちしております!」
軽く手を振られて、僕は部屋から退出した。
ポーチに報酬をしまいながらホールへ戻ると、先ほどと変わらない喧騒の中に、どこか落ち着かないざわめきが混じっているのに気づいた。
視線を向ければ、依頼掲示板の前に人が集まっている。もともと人の多い場所ではあるが、今日はその密度がやけに高く、誰かを囲むような空気になっていた。
怒鳴り声と、それを抑えようとする声が交じり合っている。だが距離のせいか、はっきりとした内容までは聞き取れない。ただ、ただ事ではないという雰囲気だけが、じわりとこちらへ伝わってくる。
少し迷ったものの、僕はそのまま人だかりの方へ歩み寄った。
人の隙間から掲示板を覗き込むと、何枚かの依頼書が乱れたまま貼られており、その前で誰かが声を荒げているのが見える。周囲の探索者たちが静かに様子を窺っていることからも、単なる雑談ではないことだけは明らかだった。
僕は輪の中に混ざり、そのやり取りを眺めることにした。




