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18話 迷宮異変③ 強化個体

 ダンジョンへ入ると、ひやりと湿った空気が肌を撫でた。


 地上とは切り離された、閉ざされた地下世界特有の冷たさ。岩肌に染みついた水気と土の匂いが鼻腔を満たし、足元に敷かれた石の感触が、いま自分たちが日常から外れた領域へ踏み込んだのだと改めて意識させる。


 先頭を行くのはガレスさんだ。そのすぐ後ろに僕が続き、左右をチュールさんとリンスさんが固める。少し距離を置いて、後方にはリリアとエルミナさん。進行速度は抑えめだが、隊列に迷いはない。こうして並ぶと、即席で編まれた任務隊でありながら、不思議と形になっているように思えた。


「……静かだな」


 不意に、ガレスさんが低く呟いた。


 僕も周囲へ意識を巡らせる。


 一階層。さらに二階層へと差しかかっているというのに、確かに魔物との遭遇が少ない。皆無ではない。だが、普段ならもっと頻繁に姿を見せるはずのゴブリンやコボルトが、今日は妙に少なかった。


 しかも、たまに遭遇した個体も様子がおかしい。


 こちらを見つけた瞬間に飛びかかってくるような獰猛さが薄い。落ち着きなく周囲を見回し、どこか焦燥に駆られたような動きを見せるものが多かった。実際、二度ほど小競り合いになったが、どれも拍子抜けするほど短時間で片がついている。


「分布が乱れてるのかしら」


 後方から、リリアが声を潜めて言った。


「数が少ないだけじゃないわね。動きに余裕がない。まるで何かに怯えてるみたい」


「怯えてる、か」


 ガレスさんが前を見たまま応じる。


「下から上ってきた奴に縄張りを荒らされた可能性はあるな」


「ただ、それだけでは説明のつかない点もあります」


 続いたのはエルミナさんだった。声はいつも通り落ち着いているが、周囲へ向ける視線には僅かな鋭さが混じっている。


「モンスターがここまで落ち着きを無くしているというのは見たことがありません。単なる生息域の変動だけではなく、行動原理そのものに乱れが出ている可能性があります」


 その言葉に、誰も軽く頷くことすらしなかった。


 結論を急ぐにはまだ早い。だが、ここまでの時点で既にいつものダンジョンではないことだけは全員が理解していた。


 慎重に進み、やがて三階層へ足を踏み入れる。


 この辺りからは、オークの出現も珍しくなくなる。新人にとっては十分に危険な領域であり、実際、銅級の探索者が足を止められることも多い階層だ。だが自分たちにとっては、隊列を崩さず慎重に進めば問題なく対処できる範囲でもある。


 ──本来なら。


「止まれ」


 ガレスさんが短く告げた。


 同時に、全員の足が止まる。


 前方の通路は緩やかに右へ曲がっている。その奥から、何かが擦れるような音が聞こえた。乾いた靴音ではない。爪でも、武器でもない。もっと粘ついた、耳に絡みつくような音だ。


「……数は?」


 リンスさんが小声で問う。


 チュールさんが目を細め、耳を澄ませる。


「最低でも三。いや、四か……五かも。まとまってる」


「三階層で群れですか」


 エルミナさんの声がわずかに沈む。


 オークがゴブリンを従えること自体は、ない話じゃない。力でねじ伏せて使役する例は報告にもある。だが、この場で問題なのは数ではなくその動き方である。


 ガレスさんが片手を上げ、前進の合図を小さく変える。警戒を一段階引き上げる指示だ。僕は剣の柄に手をかけたまま、呼吸を整えた。


 そして、曲がり角を越えた瞬間──


「……っ」


 思わず息を呑む。


 通路の先に、オークが一体。


 三階層で見かけること自体は不自然じゃない。だが、その周囲にいたのはゴブリンだけではなかった。


 左後方に二体、右後方に三体のゴブリン。そしてその少し外側に、コボルトが二体。距離を取りながらも、明らかに同じ群れとして動いていた。


「本来共闘するはずのないモンスターの集り」


 チュールさんが低く吐き出す。


 僕も同じだった。


 オークとゴブリン。そこまでは分かる。だが、コボルトまで加わって一つの群れを作っているとなれば話が違う。普段のダンジョンならありえない組み合わせだ。


 その群れが、こちらを見ていた。


 いや、違う。


 見ているというより、待っていたように見えた。


 オークが低く唸る。


 それに応じるように、周囲のゴブリンとコボルトが一斉に身構えた。


 嫌な気配が背筋を撫でた次の瞬間、群れが同時に動いた。


 先頭のオークが棍棒を振り上げながら突っ込んでくる。その一撃を正面から受ければ、体勢を崩される。僕は半歩だけ踏み込みの軌道をずらし、すれ違いざまに剣を振るった。浅い。腕の外側を裂いただけだ。だが、その隙にガレスさんの斧が横合いから叩き込まれ、オークの巨体がよろめく。


「アレン、右!」


 リリアの声。


 反射的に身をひねる。直後、飛び込んできたコボルトの爪が鼻先をかすめた。低い。速い。しかも一体が囮で、もう一体が死角から回り込んでいる。


 ──ありえない。探索者のような連携を上層のモンスターが見せるなんて!


 ぞっとするより先に、身体が動いた。踏み替え、剣を返し、二体目の前脚を斬り払う。着地を崩したところへ、チュールさんの放った矢が喉元へ吸い込まれた。


「ちっ、気味が悪いな!」


 その一方で、ゴブリンたちは無秩序に突っ込んでくるのではなく、オークの攻撃の死角へ合わせて間合いを詰めていた。個々の技量は低い。だが動きに無駄が少ない。明らかに、互いの位置を邪魔しないように動いている。


「ファイアアロー!」


 リリアの詠唱と共に放たれた炎矢が、後方のゴブリンを二体まとめて焼き抜く。空いたスペースへリンスさんが前に出て、残る一体を盾で弾き飛ばした。


「押し切ります!」


「おう!」


 返事と同時に、ガレスさんが体勢を立て直しかけたオークへ深く踏み込んだ。縦に振り下ろされた斧が肩口へ食い込み、巨体を大きく沈ませる。その好機を見て、僕も横から斬り込む。首筋。骨に止められる感触。だが手応えは十分だった。


 オークの巨体が崩れ落ちる。


 残ったコボルトが短く唸り、退こうとしたところをチュールさんが逃がさず仕留めた。


 戦闘が終わる。


 時間にして、せいぜい十数秒。


 それでも、終わった直後に残った感覚は、いつもの討伐後のそれとは明らかに違っていた。


「……見たかよ、今の」


 ガレスさんが息を整えながら言う。


「きっちり見た」


 チュールさんが吐き捨てるように返した。


「オークが前で圧かけて、ゴブリンが間合いを詰めて、コボルトが横から刺しに来た。あんなの偶然で噛み合う動きじゃねえ。まるで人間と戦ってるみたいだったぜ」


「ええ」


 リンスさんも表情を引き締めていた。


「少なくとも、普段のモンスターの挙動ではありません」


 僕は頷きながら、足元に転がるコボルトへ目を向ける。


 違和感は、戦い方だけじゃなかった。


 鼻につく臭いがある。


 血の臭いに混じって、もっと生臭く、内臓を晒したような匂いだ。戦闘で生じたものだけじゃない。既にこびりついていたような──そんな臭い。


「エルミナさん」


 僕が声をかけると、彼女は既にしゃがみ込んでオークの死体を確認していた。


 指先で血の付着具合を確かめ、裂けた牙の間まで視線を走らせる。その横顔には感情が浮かんでいない。だが、次に発せられた声はいつもよりわずかに低かった。


「……血液の付着量が不自然です」


「不自然?」


 ガレスさんが眉を寄せる。


「この個体の返り血だけではありません。別の個体の血が混じっています。それも、かなり新しい」


 その言葉に、場の空気が一段冷える。


「他のモンスターとやり合ったってことか?」


「可能性はあります。ですが──」


 そこでエルミナさんは一度言葉を切った。


 珍しい。彼女が断言を避けるように逡巡するのは。


「ですが、傷の付き方が少し……妙です。攻撃を受けた痕というより、もっと直接的に肉を抉り取られたような箇所があります」


 その時だった。


 通路の奥から、ぐちゃり、と湿った音が響いた。


 誰も動かない。


 だが全員の視線が、音のした方へ吸い寄せられる。


 ぐちゃり。


 ぐ、ちゃ……。


 何かを噛み砕くような、粘ついた音。


 音源は遠くない。曲がり角の先、開けた空間のあたりだ。


「……行くぞ」


 ガレスさんが低く言った。


 誰も異論は口にしない。


 僕たちは戦闘直後の陣形を素早く整え直し、警戒をさらに強めたまま奥へ進む。


 一歩ごとに、臭いが濃くなる。


 血と、腐臭と、湿った肉の臭い。


 喉の奥にへばりつくようなその気配に、嫌でも足取りが重くなった。


 やがて通路を抜け、小さく開けた空間へ出た瞬間──


 全員の足が止まった。


 そこには、死骸があった。


 ゴブリン。


 コボルト。


 そしてオーク。


 数体どころじゃない。十を超える死骸が折り重なるように転がっている。壁際には血が飛び散り、床には引きずった跡が幾重にも残っていた。ここで何かが起きたのは明らかだった。


 だが、問題はその死に方だった。


 どの死体も、肉が削がれている。


 腕が半ばから失われたもの。腹部が裂かれ、中身だけが無理やり引きずり出されたもの。喉元を喰い千切られ、骨が覗いているもの。戦闘の結果として生じた損壊にしては、あまりにも生々しすぎた。


「……なんなのよ、これ」


 リリアの声がかすれる。


 答えられる者はいない。


 ただ一つ確かなのは、これが通常の討伐跡などではないということだけだった。


 ダンジョンの魔物は、基本的に共食いをしない。


 それは探索者なら誰もが知る常識だ。


 弱肉強食の性質はあっても、同じダンジョンに属する魔物同士で肉を喰らい合うことはない。地上では互いに縄張りを争ったりする魔物でも、ダンジョンで出現する際はお互いに不干渉を貫いているのだ。


 その常識が、目の前で無惨に崩れていた。


「……まだ、新しいですね」


 エルミナさんが死骸の一つへ目を落としたまま呟く。


「血が完全に固まっていません。つい先ほどです」


「つまり、やった奴は近いってことか」


 ガレスさんが斧を握り直す。


 その瞬間だった。


 死骸の山の向こう側で、何かが動いた。


 ぬちゃり、と肉を踏み抜く音。


 全員の視線が一点へ集中する。


 そこにいたのは、オークだった。


 だが、最初に見た瞬間、頭が認識を拒んだ。


 大きい。


 いや、ただ大きいだけじゃない。


 筋肉が異様に膨れ、皮膚の下で不自然に盛り上がっている。右腕は明らかに左右の均衡を欠いて肥大化し、血と脂で濡れた口元には、まだ新しい肉片がべっとりと付着していた。片目は潰れているのに、残るもう片方だけが爛々と光っている。


 理性のない獣の目ではない。


 かといって、知性があるわけでもない。


 そこにあったのは、飢えと痛みと狂気が混ざり合ったような、あまりに異質な光だった。


 そして、その足元には、喰いかけのゴブリンの死体が転がっていた。


「……っ」


 息を呑む。


 目の前の光景が示しているものは、あまりにも明白だった。


「共食い、でしょうか……?」


 リンスさんが絞り出すように言う。


 あり得ない。


 だが、現に起きている。


 しかも、ただ喰らっただけじゃない。その結果として、目の前の個体は明らかに変質していた。膨れ上がった筋肉も、皮膚の下で暴れるような魔力の気配も、通常のオークの範疇に収まっていない。


 魔石接種によるモンスターの強化。


 異常そのものが、目に見える形で結実した怪物だった。


 オークが、ゆっくりとこちらを向く。


 肉を噛み砕きながら、濁った息を吐く。


 次の瞬間、その喉から迸った咆哮が空間そのものを震わせた。


「総員、迎撃!」


 ガレスさんの怒声が飛ぶ。


 僕は反射的に剣を構えた。


 震えていたのは恐怖のせいか、それとも武者震いか、自分でも分からない。


 ただ一つだけ確かなのは──


 ここから先は、もう単なる調査だけでは終わらないということだった。


 咆哮と同時に、強化オークが床を蹴った。


 速い。


 あの巨体に似合わない突進速度だった。肉を踏み潰し、血を撒き散らしながら一直線にこちらへ迫る。その進路上にいたのは、最前列のガレスさんと僕だ。


「正面から受けるなよ!」


 怒声が飛ぶ。


 言われるまでもない。


 僕は半歩右へ、ガレスさんは左へ。真正面の軌道を外した直後、強化オークの肥大した右腕が唸りを上げて振り抜かれた。


 空気が裂ける。


 直撃していれば骨ごと持っていかれていた。そう確信できる一撃だった。


 だが、振りは大きい。


「アレン!」


「はいっ!」


 踏み込みながら応じる。


 巨腕が空を切った隙に、僕は脇腹へ剣を走らせた。肉を裂く感触。だが浅い。分厚すぎる筋肉に刃が止められる。


「硬っ……!」


「なら、こいつはどうだ!」


 次の瞬間、横合いからガレスさんの大斧が叩き込まれた。


 狙いは首ではない。膝。


 鈍い衝撃音が響き、強化オークの体勢が大きく揺らぐ。完全には崩れない。だが、狙いはそれで十分だった。


「リリア!」


「分かってるわよ!」


 短い詠唱と共に、炎弾が二発、間髪入れずに放たれる。


 一発目が胸部へ直撃し、二発目が顔面のすぐ脇で炸裂した。爆ぜた火炎に強化オークがたたらを踏む。そのわずかな硬直を逃さず、チュールさんがすかさず矢を何本も放つ。


 急所を狙った攻撃だった。だが、刺さった瞬間にチュールさんは舌打ちした。


「…これじゃあ攻撃の意味ない」


 常軌を逸しているのは膂力だけじゃない。肉の密度そのものが変質している。通常のオークなら今の連撃で、とっくに崩れているところだ。

 それでも、押されているのはあくまで向こうだった。


「前へ出ます!」


 リンスさんが盾を構えたまま踏み込み、強化オークの進路を斜めから塞ぐ。真正面から受けるのではなく、軸をずらして誘導する。堅実で無駄のない動きだ。


 強化オークは唸り声を上げ、そちらへ向けて巨腕を叩きつける。


 だが、当たらない。


 リンスさんは最小限の動きでその軌道を外し、盾の縁で腕を滑らせるように逸らしていた。


「エルミナさん!」


「既に」


 返ってきたのは、いつも通り落ち着いた声だった。


 次の瞬間、淡い光が前衛へ降りる。


 身体が軽い。


 脚に力が通る。


 視界まで僅かに澄んだような感覚があった。


「身体強化と感覚補助です。長くは持ちません。押し切ってください」


「十分だ!」


 ガレスさんが吼える。


 そこから先は、一方的だった。


 再び強化オークが突っ込む。だが今度は速度に頼った単調な踏み込みじゃない。さっきまでよりも明らかに荒れている。痛みか、怒りか、それとも飢えのせいか。いずれにせよ、動きが雑になった。


 僕は真正面からぶつからず、踏み込みの外へ回る。振り下ろされた拳を紙一重で外し、手首へ斬撃を入れる。続けてガレスさんが肩口へ斧をねじ込み、リリアの炎矢が露出した傷へ吸い込まれた。


 肉が焼ける臭いが広がる。


 強化オークが絶叫し、反射的に後退る。


 そこへ、リンスさんの盾撃が胸へ叩き込まれ、オークの体勢が完全に崩れた。


「アレン!」


 呼ばれるより早く、僕は踏み込んでいた。


 狙うのは首ではない。さっきから何度も斬りつけ、熱と衝撃を与え続けた右肩の付け根。肥大化した腕を支えている、明らかに負荷の集中している箇所だ。


 剣を下段から振り上げる。


 手応えは重い。骨まで届かない。だが、裂け目はさらに広がった。


「そこだァ!」


 ガレスさんの斧が、ほとんど同時に振り下ろされる。


 轟音。


 今度こそ、深く入った。


 肩口から胸にかけて大きく裂け、強化オークの巨体が大きくのけ反る。支えきれなくなった右腕が、ぶらりと不自然に垂れ下がった。


 勝負は決まった。


「燃やす!」


 リリアの詠唱が鋭く響く。


 生み出された火球はこれまでのものよりも小さかったが、最も圧縮されていた。放たれた火球は一直線に飛び、裂けた胸部へ直撃する。


 爆ぜる炎。


 その衝撃で強化オークが膝をつく。


 僕は一気に間合いを詰めた。


 最後の一撃。


 剣を両手で握り込み、焼けただれた首筋へ全力で振り下ろす。


 肉を断ち、骨を噛み、そして──。


 強化オークの首が、大きく傾いた。


 次の瞬間、巨体が横倒しに崩れ落ちる。


 床が震えた。


 しばし遅れて、静寂が訪れる。


 誰もすぐには喋らなかった。


 荒い呼吸だけが、わずかに遅れて耳に戻ってきた。

 先ほどまでこの場を満たしていた暴力的な気配は、強化オークの巨体と共に地面へ沈み、代わりに残ったのは、血と焦げた肉の臭い、それからどうにも拭いきれない違和感だけだった。

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