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19話 迷宮異変④ 崩れ行く常識

 僕は目の前に倒れ伏した怪物を見下ろす。


 膨れ上がった筋肉は死んだあとも張りを失っておらず、裂けた皮膚の下では黒ずんだ血管のようなものが不気味に浮き上がっている。口元にはまだ新しい肉片がこびりつき、半ば潰れた片目は、完全に命を失ったあとですら何かを睨みつけるように濁っていた。


「……思ったより大したことなかった」


 チュールさんが、弓を下ろしながら淡々と呟く。その口調にはいつも通り抑揚がない。だが、油断しているわけではないことは、その視線が周囲から外れていないことではっきり分かった。


「ええ。ただし、“大したことなかった”で済ませていい相手ではありません」


 エルミナさんが静かに答える。


 彼女はすでに強化オークの傍へ歩み寄り、傷口や筋肉の状態、付着している血の質までを順に確認していた。感情の色は薄いが、その動きには明確な意図がある。観察だ。単なる確認ではなく、情報として持ち帰るための。


「魔力の巡りが異常です。肉体強化だけでなく、反応速度まで底上げされていました。しかも変異の進行が急激すぎる。自然発生的な個体差では説明がつきません」


「共食いによる変質、というわけですね」


 リンスさんが言いながら、背中に背負っていた大きめの荷袋へ手を回した。


 分厚い布と革で補強されたその袋は、今回の任務に際してギルドから支給された物資一式をまとめたものだ。応急処置用の備品、予備のポーション、簡易工具、そして──異常個体の回収を想定した装備も、その中に含まれている。


「恐らくは。他個体の魔石接種も併発している可能性があります」


 エルミナさんが頷く。


「いずれにせよ、この個体は明確な証拠になります。持ち帰る価値は十分以上にあります」


「だったら決まりだな」


 ガレスさんが短く言った。


「こういう時のために、重いもん背負ってきてんだろ?」


「ええ」


 リンスさんはそれだけ答えると、荷袋を下ろし、中から黒灰色の小袋を取り出した。


 一見すると何の変哲もない布袋だ。だがその表面には細密な魔術式が刺繍され、口元の留め具にはギルド章を刻んだ銀具が取り付けられている。


「空間拡張袋《無底袋(むていぶくろ)》……でしたよね」


 僕が口にすると、リンスさんが軽く頷いた。


「正式には内部容量を外部寸法から切り離した魔道具ですが、通称はそちらの方が通りがいいですね。今回の任務では、こういった異常個体の回収も想定されていますから」


「想定してたってことは、やっぱりギルドもただ事じゃねえって踏んでたんだろうな」


 ガレスさんが袋の口を受け取りながら言う。


「でなきゃ、こんな高価なもんを班ごとに配るかよ」


「え、そんなに高いのこれ?」


 リリアが目を丸くする。


「かなり、じゃ済みませんよ」


 リンスさんが淡々と返した。


「容量にもよりますが、貸与されたこれに付与された魔法を考えると…豪邸が建ちますね。紛失や破損は厳禁です」


「うわ、急に触るの怖くなってきたんだけど……」


 リリアが半歩だけ距離を取る。その様子に、わずかに空気が緩みかけたが──


 地面に横たわる強化オークの存在が、それを許さなかった。


「……やるぞ」


 ガレスさんが袋の口を大きく開く。


 その瞬間、袋の内側に淡い闇のような空間が広がった。底が見えない。いや、そもそも“底”という概念自体が存在しないかのように、空間が歪んでいる。


「アレン、こっち持て」


「はい」


 僕は肩口へ回り込み、ガレスさんと一緒に巨体を持ち上げる。ずしりと腕に食い込む重みは、通常のオークとは明らかに違う。筋肉の密度が異様に高い。まるで石を持ち上げているかのような感覚だった。


「リリア、下支え頼む」


「ちょ、ちょっと待って、ぬめってるんだけどこれ……!」


「文句言ってる暇あるなら手を動かせ」


「はいはい、やるってば!」


 言いながらも、リリアはしっかりと足元を支える位置へ入る。


 チュールさんは無言で脚側に回り込み、邪魔になる破損した部位を短剣で切り落としながら、袋へ収めやすい形へ整えていた。その手際の良さは、こういう作業に慣れている証拠だ。


「せーの、で入れるぞ」


 ガレスさんの声に合わせて力を込める。


 巨体を引きずり、袋の口元へ押し込む。


 ──その瞬間だった。


 抵抗が消えた。


 袋へ触れた部分から、強化オークの体が水面へ沈むように吸い込まれていく。肩、胴、脚と順に呑み込まれ、あれほど巨大だった肉塊が、あっけないほど滑らかに消えていく。


 最後に残った腕が、ぬるりと袋の内側へ消えた。


 あとには、何事もなかったかのように小さな袋だけが残る。


「……何回見ても慣れねえな」


 ガレスさんが口元を歪めながら、袋の口を締めた。


「便利だけど、ちょっと怖いわねこれ……」


 リリアが小声で言う。


「間違って自分の手とか入れたら、そのまま戻ってこなさそう」


「戻ってきます」


 エルミナさんが即答した。


「ただし安全は保証しませんので、試さないでください」


「だから冗談よ!」


 リリアが慌てて否定する。


 そのやり取りに、わずかに空気が和らぐ。


 だがそれも一瞬だった。


 袋の中に収まったのは、ただの討伐証明ではない。


 ダンジョンの異常を示す、動かぬ証拠だ。


 それを自分たちが抱えているという事実が、じわりと実感を伴って胸に沈んでくる。


「これで、報告の裏付けは取れるな」


 リンスさんが静かに言った。


「ええ。解析に回せば、魔力変質の傾向も見えてくるはずです」


 エルミナさんが頷く。


「だからこそ──無事に持ち帰る必要があります」


 その言葉に、誰も軽くは返せなかった。


 ただ生きて戻るだけじゃない。


 見て、確かめて、持ち帰る。


 それが今回の任務だ。


 強化オークの死体を収めた無底袋をリンスさんが再び荷袋へ収め、背負い直すのを確認してから、ガレスさんが短く息を吐いた。


「……よし。バルクスに報告を入れるぞ」


 そう言って、彼は腰の魔道具へ手を伸ばした。


「バルクス、聞こえるか。三班だ」


 短く魔力を流し込むと、掌に収まる黒石の表面に淡い光が走った。


『……入った。状況を報告しろ』


 返ってきたのは、雑音混じりのギルドマスターの声だ。


「三階層で異種混成群と交戦。構成はオーク、ゴブリン、コボルト。高度な連携を駆使していた。さらにその先で、共食いによる変質個体と思われる強化オークを一体確認、これを討伐した」


 一瞬、魔道具の向こうで沈黙が落ちる。


『……強化オークだと?』


「ああ。肉体強化、反応速度上昇、魔力異常。通常個体とは別物だった。三階層で出ていい相手じゃねえ」


 ガレスさんの声に冗談は一切ない。


 その横でエルミナさんが補足する。


「他個体の魔石接種が起点になっている可能性があります。変異速度も異常です。単独事例とは考えない方がいいでしょう」


『……分かった。共有する。他班にも警戒を上げさせる』


 そこでわずかに間があり、続けて別の声が割り込んだ。


『こちら二班! 今の報告、本当なの!?』


 女性の声だ。少し若い。


『こっちも四階層手前でオーク群を確認したけど、明らかに動きが変だった! まだ変質個体とは当たってないけど、数が多い!』


『一班からも報告あり。五階層にて階層逸脱個体確認。通常八階層以降に出現する魔獣の痕跡を発見したとのことだ』


 空気が、じわりと冷えていく。


 三階層だけじゃない。


 五組に分かれてなお、それぞれが別種の異常を拾っている。局地的な撹乱なんかではなく、ダンジョン全体のどこかで大きな歪みが起きている。


「……やっぱり、想像してたよりずっと広い範囲で起きてるわね」


 リリアがいつもより小さな声で言った。


 けれど、その声音には怯え一色というわけではない。むしろ、緊張を噛み殺しながら無理やり平静を保っているような響きがあった。


「もうちょっとこう……嫌な予感って外れてくれてもいいのに」


「外れないから嫌な予感なんだろ」


 ガレスさんが前を向いたまま返す。


「うわ、正論。今それ言う?」


「言う」


 ぴしゃりと返され、リリアが「もー」と小さく頬を膨らませた。


 場違いなほど軽いその反応に、ほんの少しだけ肩の力が抜ける。


 たぶん、彼女なりに空気を張り詰めさせすぎないようにしているのだろう。こういう時、リリアの明るさは思っている以上に助けになる。


 一方で、チュールさんは相変わらず淡々と周囲へ視線を巡らせていた。


「前方、足跡」


 短い声に、全員の意識が引き締まる。


 通路の脇。血が薄く擦れた床の上に、いくつもの足跡が重なっていた。


 オークのものと思しき大きな足跡。

 ゴブリンやコボルトの、小さく浅いもの。

 それに混じって、人の靴跡もある。


「探索者か」


 リンスさんがしゃがみ込んで痕を確かめる。


「数は三……いや、四人。比較的新しいですね」


「逃げた跡だね」


 チュールさんが壁際に目をやる。


「追われてる。足運びが荒い」


 歩幅のばらつき方、足跡の荒さから見ると、落ち着いて移動したというよりなりふり構わず駆け抜けた跡だ。


「セーフティエリアの方角かしら」


 リリアが指先で通路の先を示す。


 この先には、三階層の大き目なセーフティエリアがあったはずだ。普段ならそこで商売をしている探索者がいたりして、緊急時の退避地点としては十分機能する。


「行くぞ。生き残りがいるなら保護する」


 ガレスさんの一声で、僕たちは進路を早めた。


 慎重さは崩さない。けれど先ほどまでより明確に速度を上げる。負傷者がいるなら、一刻を争う可能性がある。


 数分も進まないうちに、通路の空気が変わった。


 微かに、血の匂いに混じって薬草の匂いがする。


「近いですね」


 エルミナさんが言う。


 セーフティエリアに着くと、そこには負傷した探索者が三人いた。一人は壁にもたれたまま座り込み、左脚を血で染めている。もう一人は肩口を深く裂かれていて、荒い息を繰り返していた。残る一人──まだ動ける男が、剣を構えたままこちらへ振り向く。


「すまないあんたたち!誰かポーションを持ってたりしないか!」


 ガレスさんがその言葉に反応する。


「ああ、持ってきているし、回復魔法の使い手もいる。安心しろ。だがその前に状況を話せ!」


「四階層へ下りる途中で群れに当たった! オークとゴブリン、それにコボルトまでいやがった! なんとか振り切ったが、二人やられた……!」


 やはりだ。


 僕たちだけが見た異常じゃない。


 しかも、ここまで逃げてきたということは、あの混成群はこの近辺一帯に出没している可能性が高い。


「エルミナ!」


「分かっています」


 返事と同時に、彼女はすでに負傷者のもとへ膝をついていた。


 傷を一目見て、即座に判断を下す。


「脚部裂傷、骨は無事。こちらは深いですが止血可能です。命に別状はありません」


「助かるのか!?」


 男が食い気味に問う。


「静かに。回復の邪魔です」


 ぴしゃりと言いながらも、エルミナさんの手つきに迷いはない。淡い治癒光が広がり、裂けた肉がゆっくりと閉じていく。肩口の傷も同様だ。完全治癒とはいかないにせよ、応急処置としては十分以上だった。


「すご……」


 思わず漏れたリリアの声に、エルミナさんは顔も上げずに言った。


「感心している暇があるなら、周囲警戒を」


「はーい。……あ、でもほんとにすごいのはすごいからね?」


 そう言ってリリアは杖を握り直し、少しだけ唇を尖らせながら通路の奥へ視線を戻す。


 ガレスさんとリンスさんが探索者たちから追加の状況を聞き出している間、僕も周囲へ意識を張る。

 さっきから何度も感じている違和感が、また胸の奥をざわつかせる。


「……気味が悪いな」


 思わず呟くと、すぐ横でチュールさんが頷いた。


「うん」


 弓を構えたまま、彼は通路の暗がりを見つめている。


 次の瞬間だった。


 ひゅ、と。


 風を裂く音。


「伏せて!」


 チュールさんの声が飛ぶより早く、一本の矢が暗闇から射ち込まれた。


 金属音。


 リンスさんが咄嗟に盾でそれを弾く。


「矢だと!?」


 ガレスさんの目が見開かれる。


 ありえない。


 この階層の魔物が、矢を射るなんて。


「……弓を使うゴブリン、知能が高い」


 チュールさんが淡々と呟く。


「しかも、待ち伏せ」


 暗闇の奥。岩陰の向こうに、いくつもの小さな気配がある。


 数は多くない。けれど散っている。正面から突っ込んでくるんじゃない。入口を見張り、負傷者を抱えた相手に追い打ちをかける配置だ。


 そのいやらしさに、背筋が冷たくなる。


 リリアが杖を握り直し、わずかに口元を引きつらせながらも言った。


「ちょ、ちょっと待って。ゴブリンってそこまで頭よかったっけ?」


「よくはない」


 チュールさんが短く返す。


「だから、おかしいんだよ。もうこれまでのダンジョンの常識は捨てるしかねえな」


 ガレスさんが斧を構え直す。


「ったく、次から次へと面倒なもん出してきやがって」


 その声には苛立ちと、同時に戦意が混じっていた。


 セーフティエリアの入口を挟み、僕たちは暗がりの奥と対峙する。


 直後、空気を切り裂く鋭い風音が重なった。単発ではない。間隔をずらして放たれた複数の矢が、ほとんど同時に視界へ飛び込み、回避の余地を狭めるように軌道を散らしてくる。


「散れ!」


 ガレスさんの低い号令と同時に、全員が左右へ跳んだ。壁面と床へ連続して突き立つ矢が乾いた音を響かせ、そのうちの一本がリリアの頬をかすめ、細い血の線を引く。


 狙いは甘くない。むしろ、あえて急所を外しているようにすら見えた。回避を強制し、陣形を崩し、次の一手へ繋げるための射撃。そんなわけがないとこれまでの僕なら思っていただろうが、今起こっているダンジョンの異変を考えると、それだけの知性をゴブリンが持っていても不思議ではない。


「……位置、固定じゃない」


 チュールさんが呟く。その視線はすでに暗闇の奥を正確に捉えていたが、矢は放たれない。撃てば当たる、という距離ではない。撃てば、位置を露見させるだけになる。


「撃つたびに移動してる。二箇所……いや、三」


 その分析が終わるより早く、次の矢が飛来した。今度は低い軌道。床すれすれを滑るように放たれたそれは、前衛をすり抜けて後方へ──負傷者のひとりへ真っ直ぐ伸びる。


 だが、到達する寸前で軌道が弾かれた。リンスさんの盾が割り込み、重い金属音と共に矢を叩き落とす。


「優先順位を理解してますね……!モンスターらしからぬ厭らしさです!!」


 リンスさんの声には警戒と焦燥が滲んでいた。弱っている者、動けない者、支援役。潰すべき対象を迷いなく選ばれると、その分リンスさんの負担が増えてしまう。


「わかっちゃいたが、ただのゴブリンじゃねえな」


 ガレスさんが低く吐き捨てる。


「リリア、視界を潰せ!」


「了解っ!」


 声の調子はいつも通り明るく、だが杖を握る手に迷いはなくすぐさま魔法を完成させる。


「ファイアアロー!」


 放たれた炎矢が通路奥の岩陰で炸裂し、瞬間的に視界を白く焼き払う。爆炎と煙が広がり、隠れていた位置を強引に暴き出す。


 その一瞬を逃さず、チュールさんの弦が鳴った。


 矢は炎の残光を切り裂き、正確に一つの影へ突き刺さる。短い悲鳴。だが、それでも終わらない。別の位置から、ほとんど間を置かずに新たな矢が放たれ、通路脇の窪みから影が跳ねた。


 ゴブリンが二体、時間差で飛び出し、さらにその背後からコボルトが低い姿勢で滑り込む。前方を弓で押さえ、死角から近接を差し込む、明確に意図された挟撃。


「崩れるな!」


 ガレスさんが踏み込む。斧の横薙ぎで先頭のゴブリンをまとめて弾き飛ばし、その動きを止めると同時に、自分の正面を強引に空ける。仕留めるためではなく、動線を制御するための一撃。


 その隙を突くように、コボルトが僕の懐へ潜り込んできた。その小さい体躯を活かした低く、鋭く、無駄のない踏み込みで腹部に噛みつこうとしてくる。


 だが、その直前で横から衝撃が走り、コボルトの軌道が大きく逸れた。リンスさんの盾が、最小限の動きで割り込んでいた。


「前を見てください!」


「……助かります!」


 返しながら、体勢を立て直したコボルトへ剣を滑り込ませる。喉元を裂いた感触が手に残るのと同時に、さらに上から気配。


 見上げる。


 岩棚の影に、弓を引き絞ったゴブリンアーチャー。


 狙いは──エルミナさんか!


 しかし放たれた矢はエルミナさんの防御魔法によって大きく軌道を逸らし、壁へ当たって砕ける。


「後衛から狙うというのは間違っていませんが…攻撃がお粗末すぎます」


 その声に合わせるように、最後のゴブリンが退こうとする。だが、その判断は遅すぎた。


「逃がさないわよ!」


 リリアの火弾が背中に直撃し、炎に包まれたまま倒れ込む。


 短時間の戦闘だった。だが、セーフティエリアで待ち伏せをされていたという事実が僕達の肩に重くのしかかる。


「……最悪だな」


 ガレスさんが吐き捨てるように言う。


「弓で足止めして、近接で刺す。しかも狙いが的確だ。完全に分かってやってる動きだぞ、今のは」


「入口、押さえてた」


 チュールさんが続ける。


「逃げ込む前提で配置してる」


 その言葉に、リリアが小さく息を呑んだ。


「……それってさ、ここに来ること読まれてたってことよね?」


 誰も否定しなかった。


 それが何を意味するか、全員分かっている。


 セーフティエリアに辿り着けばひとまず安全──その前提そのものを、逆手に取られている。


「……もうダンジョンに安全な場所なんてないのかも」


 リリアが呟く。


 その声は、さっきまでよりもずっと静かで、軽口で誤魔化す余地も残っていないようだった。


 ダンジョンの常識が、一つずつ崩れていく。

 その音を、確かに聞いた気がした。


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