13話 中層再び
翌日。身体の芯に残っていた鈍い疲労がようやく引き、指先にまで力が行き渡るのを確かめてから、僕はベッドの上で静かに息を吐いた。無理をすれば動けなくもなかった昨日とは違い、今は明確に戦える状態に戻っている。なんなら、前よりも体が軽いくらいだ。
本来なら、みんなが顔を出してくれたタイミングで、こちらから探索再開の話を切り出すつもりだった。だが──
治療室の扉が開いた瞬間、その必要がないことを悟る。
現れた四人は、すでに出発直前といった出で立ちだった。装備は整えられ、無駄な隙は一切ない。誰一人としてこれから準備するような空気ではなく、いつでも行けるという張り詰めた実戦の気配をまとっている。
視線の先で、ガレスさんがにやりと笑い、右手の親指を立てて見せた。
──ああ、もう話は通っているのか。
僕が言い出すまでもなく、今日の方針は共有されているらしい。そのさりげない段取りの良さに、この人らしさを感じてしまい、思わず苦笑が漏れた。
対照的に、僕の格好はまだ部屋着のままだ。これでは話にならない。
「すぐ準備してきます。先に下で待っててもらってもいいですか?」
そう告げると、ガレスさんは軽く手を振って応じた。他の三人も特に異論はないらしく、そのまま踵を返していく。
彼らを見送ってから、僕は手早く身支度を整えた。服を替え、装備を確認し、借り受けている剣を腰に差す。その動作ひとつひとつに、昨日までとは違う意識が宿っているのを自覚する。
準備を終え、治療室を出る前に、世話をしてくれていた職員の女性に礼を述べた。すると背後から、「あの怪我でもう動けるの? 若いっていいわねえ」と、どこか呆れたような声が飛んでくる。
振り返るのが妙に気恥ずかしくて、僕は足早にその場を後にした。
階段を降り、一階ホールを抜けてダンジョンの入口へ向かう。
そこには、すでに四人の姿があった。
チュールさんは壁に背を預け、腕を組んだまま目を閉じている。リリアは椅子に腰掛け、杖の先端を布で丁寧に磨いていた。リンスさんとガレスさんはテーブルに地図を広げ、短く言葉を交わしながら何やら書き込んでいる。
それぞれが、それぞれの役割の中で自然に動いている。
その光景を目にした瞬間、胸の奥に溜まっていたものが、静かに──しかし確かに、押し上げられてきた。
僕は彼らの前まで歩み寄り、頭を下げる。
「……すみませんでした」
視線が集まる気配がする。
「今回のことで、みんなに迷惑をかけました。僕がもっとちゃんとしていれば、あんな危ない状況にはならなかったかもしれない」
言葉にしてしまえば単純だが、その一つひとつが胸に重くのしかかる。自分の未熟さを、これ以上なく明確に突きつけられた一戦だった。
短い沈黙が落ちる。
だが次の瞬間──
ごつん、と頭に軽い衝撃が走った。
「いてっ……」
顔を上げると、チュールさんが拳を引いたところだった。呆れたような表情だが、その目はどこか柔らかい。
「アレンのバカ」
ぶっきらぼうな一言。
だが、それだけで十分だった。
「パーティっていうのは誰かがミスしても全員で補うもの。一人で背負い込む話じゃない」
「そうそう!」
リリアが勢いよく立ち上がる。
「むしろさ、アレンがちゃんと生きて帰ってきたことのほうが大事なんだから! 暗い顔されるほうが嫌よ!」
明るく言い切るその声音に、胸の奥が少しだけ軽くなる。
「反省は必要です。しかし、過度な自己否定は意味を持ちません」
リンスさんが静かに言葉を重ねる。
「今回の件は、そもそも想定外の事象でした。階層を越えてモンスターが移動するなど、通常のダンジョン挙動ではあり得ません。責任の所在を論じること自体が不毛です」
そこまで言ってから、彼はわずかに視線を横へ流す。
「……強いて言うなら、索敵担当の不備でしょうか」
その言葉に、チュールさんが露骨に視線を逸らした。
明後日の方向を見ながら、口笛でも吹きそうな顔をしている。
「……まあ、そういうことだ」
ガレスさんが苦笑混じりに肩をすくめた。
「今回は全員がギリギリだった。誰か一人のせいにする話じゃねえよ。それに──」
視線がこちらに向く。
「お前は、よくやった方だ」
その一言が、まっすぐ胸に届く。
こみ上げてくるものを抑えながら、僕は小さく息を吸った。
「……ありがとうございます」
視線を落とす。
腰に差した剣──借り物の一振りが、そこにある。
本当に欲しい剣は、まだ手に入っていない。あの職人が示した道のりは、決して容易なものではなかった。
素材がいる。
そのためには、もっと深くへ潜らなければならない。
顔を上げる。
「僕の剣、あの一戦でボロボロになってしまって、新しく剣を打ち直すにしても結構なお金がかかるみたいで──それで、素材を取りにいくために下層を目指したいです」
一瞬の間。
だが、返ってきたのはあまりにも自然な反応だった。
「アレン、今さら」
チュールさんが鼻で笑う。
「最初からそのつもり」
「え、確認だったのそれ?」
リリアが目を丸くする。
「私たち、最初から下層行く前提で動いてるんだけど?」
「準備は既に完了しています」
リンスさんが地図を畳み、立ち上がる。
「元々の目標は九階層到達でした。アレンくんの加入で進行速度を調整していただけです。今回の件で、その必要がなくなっただけの話です」
あまりにも当たり前のように言われて、思わず笑みがこぼれる。
胸に残っていた重さが、ゆっくりとほどけていく。
「…皆さん、ありがとうございます!!」
せめてもと、僕はそう言ってくれるみんなにお腹の底からお礼を言った。
それを見た仲間達は笑って頷き、僕たちは連れ立って歩き始める。
背後に残る喧騒を抜け、ダンジョンの巨大な扉の前に立つ。
これから目指すは、パーティの誰も到達したことのない〈下層〉。数多の探索者を呑み込み、幾度となく命を奪ってきた迷宮の墓場。
それでも──
足は止まらない。
チュールさんが矢筒を肩に担ぎ、リリアが軽く肩を回す。リンスさんは槍を握り、周囲の気配に意識を巡らせる。
ガレスさんは静かに前へ立ち、全体を見渡した。
僕は、借り物の剣の柄を握る。
まだ手に馴染みきらない柄の感触を確かめるように握り直し、指のかかり具合や重心の位置を意識の奥で反芻する。わずかな違和感は残っているものの、それは不安ではなく、むしろ自分の未熟さとこれから埋めていくべき余白を示しているようで、妙にしっくりと来ていた。
「──行くぞ」
ガレスの低い声を合図に、一行は迷いなくダンジョンへと足を踏み入れる。
入り口付近はまだ地上の延長に近く、空気も軽い。だが階層を下るにつれて、その質は徐々に変質していく。湿気は増し、壁面の石は冷えきり、踏みしめる床は微妙な傾斜や亀裂を孕み始める。視界を支えていた人工の灯りもまばらになり、代わりに鉱物の鈍い反射や、光石が頼りになる場面が増えていく。
それでも、進行は順調だった。
出現する魔獣は確実に強くなっているが、それ以上に自分の動きは洗練されていた。無理に力で押すのではなく、当てるべき位置に、当てるべき角度で刃を滑り込ませる。その感覚が以前よりもはっきりと掴めている気がする。なんだろう。病み上がりなのに以前よりも明らかに調子がいい。
みんなとの連携も問題なくできているし、むしろスムーズすぎるくらいにあっさりと階層を進んで行くが、七階層に差し掛かった頃、何か違和感を感じた。
足音が、妙に響く。
本来ならどこかで反響が濁り、遠くで何かが動く気配と混じるはずのそれが、やけに澄んで返ってくる。通路が広いわけでもないのに、余計な気配だけが削ぎ落とされたような、不自然な静けさだった。
「……静かすぎるな」
ガレスさんの低い声に、軽く頷くこともできなかった。七階層ともなれば接敵頻度は上がるはずで、この“空白”はどう考えても異常だ。
ふと、先日の疾風魔豹と遭遇した時の状況が頭をよぎる。今の静けさは、あの時に酷似していた。
そこで改めて警戒を高めて周囲を観察してみると、壁面に新しい擦過痕が残り、地面には乾ききっていない血が細く引きずられているのを見つけた。
これは…群れ?
「下に流れてる」
チュールさんの言葉通り、痕跡は明確に一方向へ収束していた。
その直後に遭遇した魔獣も、明らかに様子が違っていた。縄張りを守る動きではなく、どこか焦燥に駆られたように移動しながらこちらと接触してくる。散発的で、統率はない。だがそれが逆に僕達の不安を余計に駆り立てる。
そして、その傾向は階段を降りた先で決定的になる。
八階層。
足を踏み入れた瞬間、まず鼻を突いたのは匂いだった。
血だ。
まだ新しい鉄の匂いが、空気に濃く混じっている。床には踏み荒らされた跡が幾重にも重なり、無数の足跡が交錯しながら奥へと続いていた。壁面にも衝突の痕や削れが目立つ。
戦闘の痕跡が、異常な密度で残っている。
「……これは」
思わず声を失う僕の代わりにリンスさんが冷静に言葉を引き継ぐ。
「恐らく七階層で探索者が複数のモンスターと交戦。あまりに数が多かったため、上層階ではなく、八階層にあるセーフティエリアを目指した。その途中で深い傷を負い、現在どうなっているかは不明…。そんなところでしょうか」
淡々とした推測だったが、その内容は決して軽くない。状況の輪郭を与えられたことで、逆に現実味が増していく。
もしその通りなら、ここに残っているのは“戦闘の痕跡”ではなく、“逃走の痕跡”だ。しかも、引きずられている血の跡からしてかなりの重傷を負っている。
リンスさんの推測は、誰の中でも即座に現実として受け止められていた。
僕たちは互いに短く視線を交わし、そのまま足を止めずに奥へと進んだ。ここで立ち尽くして状況を整理する余裕はない。残されている痕跡の鮮度が、それを許してくれなかった。
踏み荒らされた地面を辿るほどに、匂いはさらに濃くなる。血だけじゃない。焦げたような臭いと、獣の体臭が混じり合い、喉の奥にまとわりつく。足元に転がる破片の中には、明らかに誰かの鎧だったものも混ざっていて、視界の端でそれを認識するたびに、無意識に奥歯に力が入った。
やがて、通路の先にわずかな光が見えた。
規則的に揺らぐそれは、自然光じゃない。それの正体を確かめるため、急いで通路を抜け、視界が開けたそこには──。
小さな広間。壁面は抉れ、床は砕け、まるでそこだけが何度も戦場になったかのように荒れ果てている。そして、その中心に半球状の光が張られていた。
防御魔法による結界。
淡く揺らめくそれは、外側からの衝撃を受け続けているのか、絶えず波紋のような歪みを浮かべている。
そして、その内側。
膝をついたまま、両手を前に突き出し、必死に術式を維持している少女の姿があった。額からは汗が流れ、呼吸は浅く、今にも意識が途切れそうなほどに消耗しているのが遠目にも分かる。
そしてその背後にももう一人、同い年ぐらいの少女が倒れている。
全身が血に濡れ、片腕は不自然な方向に曲がっている。胸元も大きく裂け、呼吸しているのかどうかすら判別しづらいほど動きがない。
今は結界だけで辛うじて持ちこたえているが、それも長くは保たないだろう。
結界の外側ではモンスターが絶え間なく押し寄せ、ぶつかり、爪を立て、牙を叩きつけている。そのたびに光が軋み、今にも砕け散りそうな音が微かに響いた。
「……時間がないな」
ガレスさんの声は低く、だが迷いはなかった。
僕も同じ結論に至っていた。
あの状態で持ちこたえられる時間は、長く見積もっても数分。判断を一つでも誤れば、あの結界ごと押し潰される。
助けるか、見捨てるか──そんな選択肢は、最初から頭にない。
僕は無意識に、剣の柄を強く握り込んでいた。
借り物の剣。まだ手に馴染みきっていないはずなのに、なぜか今は、昨日までよりもずっと軽く感じる。
身体の奥で、何かが噛み合っている。
視界が、やけに澄んでいた。
押し寄せる魔獣の動きがひとつひとつくっきりと見えている。間合い、踏み込み、重心の移動──理解が追いつくより先に、身体がそれを捉えている感覚。
……いける。
根拠はない。だが、それ以上に確かな実感があった。
「リリアにまずデカいのを撃ち込んでもらいます。そしたらその後は──」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
恐怖がないわけじゃない。むしろ状況は最悪に近い。それでも、あの子たちを見捨てるなんて僕には出来ない。たぶん、みんなもそう思っているだろう。
僕は一歩、踏み込む。
群れの密度は高い。だが、壁じゃない。流れだ。
「──僕が、突破口を開きます!」
感想、ブクマ嬉しいです。励みになります╰( ⍢ )╯ウオ-




