11話 再出発
「大丈夫でしたか?」
心配そうな声が、すぐ傍で響いた。
顔を上げる。
そこに立っているのは、長い青髪を揺らすミスリル級探索者――〈銀閃ぎんせん〉アウレリア・フロストレイン。
薄浅葱の瞳が、こちらを真っ直ぐに射抜いている。
ついさっきまで、あの疾風魔豹の首を一刀のもとに断ち落とした人物と、同一だとは思えないほど静かな気配だった。
だが、僕たちは、誰一人としてすぐに言葉を返せなかった。
ただ、その場に立ち尽くしていた。
倒れ伏す魔獣の巨体。
転がる首。
血の匂いさえ、どこか現実感を欠いている。
あれほどの死地が。
あれほどの緊張が。
一瞬で終わった。
「……ああ、なんとかな」
最初に口を開いたのはガレスさんだった。
だがその声は、いつもよりもわずかに重い。
「助かった。正直、あのまま戦っていれば俺たちは全滅していた」
視線が、魔獣の亡骸へと落ちる。
あの場にいた全員が理解している。
ダメージは確かに与えていた。確かに僕達の攻撃は奴に届いていた。
しかし、それでも遠く及ばない。純然たる力の差がそこにはあった。
「いいえ」
アウレリアさんは穏やかに首を振った。
「連携は十分に機能していました。あの豹も追い詰められ焦っていたはずです。だからこそ、なりふり構わず一番脅威と感じたこの少年を仕留めにかかったのでしょう」
淡々とした評価。
だがそこには、過不足のない確信があった。
「……そんなことなかったです。僕にとびかかってくるあの一瞬まで、どこかあの魔獣は本気ではなかった…そう思います」
僕はそう感じてしまった。
それを、彼女は否定しない。
「ええ。ですから、その差を埋める力が必要になります。それが、下層という環境なのです」
静かな声音。
だが、その言葉は刃のように鋭かった。
僕は、無意識に自分の剣を見下ろしていた。
確かに当てた。
確かに捉えた。
だが、それは“決定打”にはならなかった。
対して、彼女の一撃は。
過程を省略したかのように――ただ結果だけがこの場に残っている。
そこに至る理屈が、まるで見えない。
「……それと」
アウレリアが視線を移す。
「この個体は私たちのパーティーが打ち漏らしたものです。まさかこんな階層にまで逃げるとは思っておらず…皆さんを危険に晒してしまい、申し訳ございませんでした」
そう僕らに告げ、深々と頭をさげるミスリル級探索者。
「いえ、そんなことはないです!そもそもダンジョンというのは危険なものであって、弱かった僕が悪いというか、もっと僕が強ければこんなことにはなってませんし──」
自分より圧倒的に格上の人に頭を下げられ、思わずしどろもどろになってしまう。
自分でも何を言ってるのかわからなくなってきたところで、急に意識が薄れ始める。
「あ、れ……」
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れる感覚があった。
「あなたたちをこのままギルドまで送り届けます。元はと言えば私たちの責任。疲れ切ったあなたたちがこのままダンジョンで死なれても目覚めが悪いですから」
まるで風鈴のような澄んだ女性の声が、どこか遠くに聞こえる。
僕はその場に座り込んだまま、揺れる青髪を見つめていた。
遠い。
あまりにも。
同じ剣を使っているはずなのに、まるで別の世界の技に見える。
あの一撃。
あの速度。
あの美しさ。
思考がそこに囚われたまま、離れない。
「……アレン?」
呼ばれて、ようやく気づく。
視界が揺れている。
剣を握っているはずの手の感覚が、曖昧だ。
地面が、わずかに傾いて見える。
身体が、言うことをきかない。
ああ――と、どこかで納得する。
限界だ。
身体が傾く。
誰かが僕を抱きとめてくれたようだ。
「命に別状はありません、極度の緊張から解放されたことでこれまで気力で保っていた意識が途切れてしまったのでしょう。私が──」
静かな声が耳元で響き、それを最後に僕の意識は闇へと沈んでいった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
目を覚ましたとき、最初に意識へと浮かび上がってきたのは、やわらかな薬草の匂いだった。乾いた葉と煎じた液の混じり合ったそれは、鼻腔をくすぐるというより、ゆっくりと身体の奥へ染み込んでくるようで、まるで「もう安全だ」と告げられているような感覚を伴っていた。
重たい瞼を持ち上げると、視界の上には白く塗られた天井が広がっている。ところどころに残る木目の梁が、規則正しく並び、その隙間から差し込む光が、柔らかく室内を満たしていた。窓から入る日差しは強すぎず、布越しに濾されたような穏やかさで、静かな空気の中にゆるやかな時間の流れを作っている。
――ギルドの治療室だ。
そう理解するまでに、ほんのわずかな間があった。意識は戻っているのに、現実と結びつくまでに遅れがある。身体の奥に残る疲労と、頭の中に漂う靄のような感覚が、その理由だった。
「……起きた?」
すぐ傍から、控えめな声が届く。
首を巡らせると、ベッドの横に置かれた椅子に腰掛ける赤髪の少女の姿が目に入った。いつもならどこか勝気さを宿しているその表情は、今は影を潜め、代わりに安堵とわずかな疲れが滲んでいる。長くここにいたのだと、それだけで分かった。
「……リリア」
呼びかける声は、思った以上にかすれていた。
「まったく。心配させないでよ」
呆れたように肩をすくめるが、その声音には棘がない。むしろ、張り詰めていたものが解けたあとの柔らかさがあった。
「丸一日、寝てたのよ。途中で目も覚まさないし、呼んでも反応ないし……ちょっと本気で焦ったんだから」
「そんなに……」
身体を起こそうとして、思うように力が入らないことに気づく。筋肉が鉛のように重く、関節のひとつひとつが軋むような感覚を伴っていた。
無理に上体を起こそうとしたその瞬間、リリアの手がすぐに肩に添えられる。
「無理しないで。まだ本調子じゃないでしょ」
押さえつけるというより、支えるような手つきだった。
その言葉に素直に従い、再び枕へと身を預ける。天井を見上げると、さっきよりも輪郭がはっきりして見えた。意識は確かに戻っている。だが、身体の奥に溜まった疲労だけは、簡単には消えてくれそうにない。
静かな時間が流れる。
その沈黙の中で、断片的だった記憶が、ゆっくりと繋がっていく。
五階層にて遭遇した魔獣、疾風魔豹。
まるで風を切り裂くかのような速度。視界に映る残像。肌を撫でるだけで命を奪いかねない殺気。
それに対して、必死に食らいついた自分たち。
そして――
「……すごかったな」
気づけば、言葉が零れていた。
リリアは一瞬だけ視線を逸らし、それから小さく頷く。
「ええ。あれが、ミスリル級」
その一言には、説明以上のものが含まれていた。
僕は、無意識に右手を動かす。そこにあるはずの剣の重みを確かめるように。しかし、握っているのは空気だけで、代わりに残っているのは、あのときの感触だった。
確かに捉えた。
確かに届いた。
けれど、それでも到底及ばなかった。
「……同じ剣なのにさ」
喉の奥から押し出すように言葉が出る。
「全然、違った」
思い返すほどに、差は鮮明になる。
技量の差、経験の差――そんな単純な言葉では足りない。あの一撃には、もっと根本的な力の差があった。戦いをどう捉えているのか、何を見て、どこに刃を通しているのか。そのすべてが、自分とは別の次元にあった。あの一撃だけで、その差を如実に感じてしまった。
あの時の自分は何をしていたのか。
ただ、目の前の敵の動きに必死に食らいつき、遅れまいとするので精一杯だった。
「僕は……」
言葉が、自然と形になる。
「強くなりたい」
それは、衝動ではなかった。
憧れでも、見栄でもない。
ただ、理解してしまったのだ。
「あの人みたいに、強くなりたい」
自分の声が、やけに冷静に響く。
守れない。
届かない。
あと一歩で、すべてを取りこぼすあの感覚。
リリアはすぐには答えなかった。
ただ、こちらを見ている。その視線には、軽い同意でも慰めでもない、もっと真剣な何かが宿っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……そうね」
静かな声だった。
「私も同じ」
意外だった。
思わず視線を向けると、リリアはわずかに苦笑する。
「正直、私はもっとやれると思ってた。魔法学校での成績は上位の方だったし、探索者になってからもうまくいかない事なんてなかった。目の前のモンスターは、全部私の魔法で倒してきた」
その言葉は、僕に話しかけるというよりも、まるで自分に言い聞かせているようだった。
「うぬぼれてたのかもね。安全マージンを大きくとって、それなりに強い前衛に守ってもらって。自分の限界に挑戦したことなんて思い返せばなかったのかもしれない。なのに自尊心ばかり大きくなっちゃって、前のパーティーも辞めさせられちゃったし」
リリアは、そこで言葉を切った。
自嘲気味の笑みはすぐに消えて、視線がわずかに伏せられる。
「……ダサいでしょ」
ぽつりと落ちた声は、思っていたよりも弱かった。
僕は、少しだけ考えてから首を振る。
「そんなことないよ。リリアは強いし賢い。パーティーでの連携もきちんととれてるし、探索者なら危険は冒さず安全にダンジョンに潜らなきゃいけないんだよ。それは間違ってない」
自分でも驚くほど、すんなりと言葉が出た。
「でも、それじゃ先へは進めないんだ」
それは正しくない。ゆっくりでも先へは進める。ただ、ゆっくりじゃダメなんだ。
早く、あの人に追いつきたい。肩を並べてあの人と同じ景色が見てみたい。
守れなかった感覚。届かなかった距離。
それを理解してしまった”今なら、はっきりと言える。
「僕も、同じだから」
視線を逸らさずにそう言うと、リリアはしばらく黙っていた。
風が、ゆるやかに吹き抜ける。
何かを探すように――けれど、確かめるように、リリアはじっと僕を見つめ、やがて小さく息を吐いた。
「……そっか」
短い言葉だった。
けれど、それだけで十分だった。
否定も、慰めもない。
ただ、同じ場所に立っていることを確かめるような声音。
リリアはわずかに目を細める。
「私だけじゃなかったんだ」
その呟きは、軽いものじゃない。
どこかで一人で抱えていたものが、少しだけほどけたような響きだった。
僕は何も言わない。
言葉にしなくても、もう分かっている気がした。
届かなかった距離。
守れなかった感覚。
それを知ってしまった者同士。
目を逸らさないまま、リリアがわずかに笑う。
今度のそれは、自嘲でも取り繕いでもない。
ただ、まっすぐな笑みだった。
「……強くなろう」
自然に頷いていた。
その一言に、全部が含まれている。
誰に、とは言わない。
何に、とも言わない。
それでも、互いに同じものを思い描いていることが分かる。
リリアは一歩だけ近づく。
距離は、ほんのわずかに縮まる。
けれど、それだけで十分だった。
それ以上は、もう何も言わなかった。
同じ景色を見て、同じ距離を知って、同じ一歩を踏み出そうとしている。
それだけで、十分だった。
風が止む。
静かな空気の中で、二人の呼吸だけが重なる。
――もう、迷いはなかった。




