チロル
飲食店月に吠えるの営業は、
日の出とともに始まる。
公都の住民の多くは、馴染みの飲食店を決めている為、
同じ連中が同じ時刻そして大抵は同じメニューを注文する。
「チロルちゃん、いつものと・・・そうだな、持ち帰りでドーナツ3個包んでくれるかな」
そんな中、いつもは8時過ぎにやってくるジェイコブが、
日の出とともにやって来た。
彼はこの街の行政府で働く官吏、つまりお役人である。
40を超えて独身である彼はここの常連だ。
「ジェイコブさん、今朝は随分早いですね」
「おやマスター。こちらの店で会うのは珍しいですね」
「チロルと引き継いでいたところです。まだ夜が明けたばかりですからね」
そんな挨拶を交わしていると、
チロルが手際よく、彼の定番メニューである、
砂糖のたっぷり入ったコーヒーとチーズを増量したサンドウィッチ、
そしてドーナツの入った包みを手渡す。
「実は厄介事が起こっていてね。昨晩も庁舎に遅くまでいたんだよ・・・」
「昨晩は随分街の中がせわしなかったようですが、なにかそれと関連があるんですか?」
「まぁ、そのうち分るだろうけど・・・」
ジェイコブは小さな声でこう打ち明けてくれた。
「実は今夜から、夜間の外出規制が命じられるんだよ」
「随分急な話ですね・・・」
「そうなんだよ、戦時下じゃないっていうのに。マスターの夜の営業にも迷惑がかかると思うんだ」
確かに夜間の外出が禁じられたら、
うちの店に客は来なくなるだろう。
この街の名は公都リンデンバーム。
二重の城壁に囲まれた城壁都市である。
日の出とともに開門し日の入りとともに閉門する。
公爵邸と行政府庁舎群を中心に円形に広がった街並みは、
時計の文字盤のように12区画で区切られている。
ライムバッハ公爵の封臣や寄子の貴族邸が立ち並ぶ地区や、
裕福層が暮す高級住宅街。
商業地区に工業地区などに区分けされているのだ。
行動制限下では、各エリアの往来が遮断される為、
とても酒を飲む様な状況ではない。
「ジェイコブさん、助かりました。今日の仕入れが無駄になるところでしたよ」
「お昼までには至る所に立て札で告知されるはずだけど、それまではくれぐれも・・・」
「もちろんご迷惑はお掛けしません。それより、制限が解除されたら1杯サービスさせてもらいますよ」
「ほほっ、これは今から楽しみですな」
やれやれ。
夜間外出禁止令か。
一連の失踪というか、神隠し事件というのは、
思った以上に行政府を混乱させているらしい。
チロルの持ち帰った情報だけでも、
失踪者の名前に関連性がある事が窺える。
ギルドや行政府が持ち合わせている情報であれば、
名前だけではなくもっと具体的な共通点があるかもしれない。
つまり、今後も失踪事件は起こると判断しているのだろう。
役人のジェイコブが店を出でほどなくすると、
いつもの時間にいつもの常連がやって来る。
チロルは慌ただしく注文を受け付けている。
まぁ、今夜は酒場の営業ができないのなら、
飲食店の手伝いでもするかと腕をまくると、
チロルが目でそれを制す。
まったく、この娘はなんて主想いなんだろう。
主といっても、チロルは俺の奴隷ではない。
純粋に「月に吠える」の従業員である。
ちゃんと給料も払っているし、
地球でいう所の日曜日である安息日には、
しっかり休暇を取らせている。
3食賄い付き社員寮まで完備されている環境は、
この世界では驚異的な福利厚生待遇なのだ。
まぁ、社員寮と言っても、店の上階層にある小部屋なんだけどね。
チロルが3階で寝泊まりできるようになったのは、
いまから半年くらい前のことだ。
それまでは一時期日本の上遠野家に寝泊まりしていた。
チロルは爺ちゃんが姿を消す半年前、
どこからか連れてきた娘である。
透き通るような銀髪が、真っ黒に変色する程汚れていた。
その時は「またどこかの浮浪児を拾ってきたのか?」
くらいにしか思わなかった。
腹を空かした浮浪児にそっと飯を食わせているのは、
よく見かける光景だったからだ。
チロルは何日も風呂は入っていないだけじゃなく、
食事もとっていないらしい。
とりあえず、BARのサンドウィッチを差し出すと、
両手で抱え込んで空の胃袋に流し込んでいった。
空の胃に固形食はマズかったかと心配したが、
空腹が満たされると、強烈な睡魔に襲われたらしい。
そこで何やら奇妙な魔法の気配を察知した爺ちゃんが、
あわてて裏口からチロルを地球の自宅に連れて行った。
東北のとある限界集落に存在している上遠野家。
茅葺屋根をガルバリュウム鋼板に葺き替えた、
築150年の古民家。
都会の酔狂な人から、
別荘として買い取りたいとか、
蕎麦屋として使用するから移築したいとか。
そのような依頼もある見た目は古臭い田舎屋敷だが、
中は大規模なリノベーションが施されており、
見た目ほど悪い住環境ではない。
むしろ天井の歴史を感じる剥き出しの黒光りする梁など、
俺は結構気に入っている。
地球からすれば異世界人のチロルを、
爺ちゃんが連れて行った事には理由がある。
チロルはこちらの世界では眠ることが出来なかった。
いや、その表現は正確ではない。
眠れば死んでしまう。
だから眠ることが出来ないのだ。
原因はよく分からないが、
爺ちゃんいわくチロルには呪いが掛けられていたらしい。
なんでも眠ると二度と目が覚めなくなる類の呪詛なのだとか。
ただし、その呪詛のトリガーは、
異世界エルカンダルの魔素によって発動する。
つまり、魔素が存在しない地球で眠れば、
呪詛はいつまでも発動しないという理屈だ。
爺ちゃんが苦労してこのやっかいな呪詛を解呪するとともに、
行先を告げずに姿を消した。それが半年前の出来事だ。
年寄りが半年も帰ってこない事は不可解なことかもしれないが、
もともと爺ちゃんは放浪癖があったので、
1週間から1ヶ月程度、行先を告げずに姿を消すことがあった。
だが、さすがに半年も連絡が無いって事はなかった。
本来であれば、もっと真剣に爺ちゃんの行方を捜すべきかもしれないが、
あの爺に限って死んでることはないだろう。
それだけとんでもない爺だとだけ言ったおこう・・・
それ以来チロルは「月に吠える」の住込み従業員となったのだ。
爺ちゃんがいなくなるとは思ってもみなかった俺は、
チロルがどういった経緯で爺ちゃんと出会ったのか。
詳しい話は一切聞いていない。
チロルも自分の素性というか、
過去の話は一切しない。
しないという事は嫌なんだろう。
それくらい不器用な俺にだって理解できる。
まぁ、どのような事情があるにせよ。
チロルはチロルであり、
話したくなったらいずれ話してくれるだろう。
今はその時を気長に待っているという具合だ。
飲食店の制服としてチロルが着ているのは、
俺がAm●z●nから買った渾身のメイド服。
彼女には「地球の伝統的な作業着」と説明してある。
これがまたよく似合っているものだから、
多少の戦闘力不足も目をつぶれるというものだ。
夏になったら新しい薄手のメイド服を買ってやろう。
「あら、マスター。こっちにいるのは珍しいわね」
見覚えのある戦闘力を揺らし現れたのは、
冒険者チーム「風の護り手」の弓手クラリッサだった。
「むぅ、まったくもってけしからん・・・もとい。クラリッサさんこそ随分早くからいらっしゃいましたね。これからお出かけですか」
「ええ。先日の件なのだけど、思う所があって少し調べてみようと思っているの。しばらく街から離れる予定なのよ」
「それじゃ、アランの旦那もしばらく酒場にはお見えになられませんね」
「・・・昼食用にドーナツとサンドウィッチを包んでもらえるかしら」
「はい、お買い上げありがとうございます。チロル・・・」
そんな会話を察しているのか、
大きな紙袋にドーナツを詰め始めているチロル。
「・・・少し多めに入れておいた」
「あら、ありがとう。調査が終わったら酒場の方にも顔を出すわね」
そういってたわわに実ったものを大きく揺らしながら、
お●ぱいエルフ・・・もとい、
クラリッサは店を去っていった。
(むむぅ。目が離せない)
こちらの世界の女性たちは、
胸のあたりの防御がまったくもって無防備である。
(・・・それにしてもアランの旦那に何かあったか)
アランの話をふった際、クラリッサの反応には違和感があった。
確信は無いが、アランの身に起った事が原因で、
「風の護り手」のメンバーが動いているように思える。
一連の失踪事件は俺が思っているより、
ずっと大きな秘密が隠されているのだろうか。
「・・・予想よりでかいな」
グサっ。
「主、死ねばいいのに・・・」
チロルのプライドを大きく傷つけたのは、
尻に刺さったアイスピックが証明している。




