麦酒
「マスター、そろそろビールの在庫が心もとないですね」
「あとどれくらい残ってる?」
「350mlが3ケースです」
店舗2階にあるストックヤードの棚卸は、
安息日前日の営業後かかさずやっている。
長期保存が可能である蒸留酒はまとめ買いできるが、
長期保存が難しい醸造酒、特に生ビールや火入していない日本酒などは、
在庫を見据えながら都度仕入れている。
間もなく本格的な冬の訪れを迎える公都リンデンバーム。
秋に収穫された麦を醸造した麦酒の新酒が出まわる季節となる。
麦酒は季節に関係なく通年醸造されているのだが、
収穫された新麦を使用した麦酒は人気が高い。
まぁ、江戸っ子の初ガツオみたいなものだ。
冷蔵技術が発達していないこの世界。
魔石を使用した冷蔵魔道具は、
貴族や大商人など一部の上流階級で使用されているが、
一般家庭では高嶺の花である。
事業規模の大きい飲食店で使用されていると聞くが、
うちの店では酒場も飲食店も日本から引き込んでいる電気のおかげで、
年がら年中冷えたビールや氷を使用することが出来る。
ゆえに大衆向けの居酒屋や、一般家庭で麦酒は常温で飲まれることが多い。
夏場の麦酒は発酵が進むため、
酸味が強くなりすぎたり、風味が損なわれてしまう。
その点、気温の下がる冬にかけて醸される麦酒は、
夏場飲むものよりおいしく感じられるのかもしれない。
地球で麦酒はエールとビールに大分される。
簡単に言えば醸造方法と原材料が違っている。
大麦や小麦をビール酵母で発行させたものがエール。
ビールはそれにホップが加えられ、独特な苦みと風味が加わる。
日本の大手ビール会社はコーンスターチを使用しているものもるが、
プレミアムビールは麦芽とホップのみ使用しているものか多い。
公都リンデンバームでは、エールもビールも飲まれているのだが、
麦芽を使用して醸造した発泡酒の総称を麦酒と呼んでおり、
ラガーでもペールエールでもエールなのだ。
うちの店は通年でキンキンに冷えたビールを提供しているが、
需要が高まるのは夏場より冬にかけてであり、
そこが日本と大きく違っている。
「それじゃ、そろそろ仕入れに行くか」
ナータンから、ビールの在庫不足を指摘され、
仕入れを考えなくてはいけなくなった。
(日本の日付は、と・・・)
扉の隣の壁に、日本のカレンダーがピン留めされている。
日付は5月4日までバツ印が記入されており、
ここ2週間ほどカレンダーにあらたなバツ印は記入されていない。
「それじゃナータン、明日の安息日は仕入れに行ってくるよ。ビール以外も不足気味の食材は多めに調達するから」
「・・・ご武運を」
「ご武運って、戦いに行く訳じゃないぞ」
「・・・ご武運を」
「買い物に行くだけなんだけど」
「・・・ご武運を」
ーーー不器用にも程がある。
酒場の裏口の扉は、日本の爺ちゃん家の襖に繋がっている。
「月に吠えるグループ」と魔法による雇用契約を結ばないと、
この異世界に通じる扉を使うことが出来ない。
日本に買い物にいくには、必ずこの扉を通らなくてはいけないのだが、
ここにもう一つの秘密が隠されている。
俺と爺ちゃんが扉に魔力を籠めると、
元いた世界の時間は停止するのだ。
異世界エルカンダルから日本に仕入に出かける時、
扉に時間停止の魔力を籠める。
異世界の時間は10月8日、午前6時だとする。
扉の先の日本では、5月4日午後2時だとしよう。
買い物に2時間かかれば5月4日午後4時だ。
異世界に戻る際、襖に時間停止の魔力を込めて裏口から帰還する。
異世界では10月8日、時刻は午前6時からスタートする。
日本の時刻は5月4日午後4時のまま止まっている。
これにはもうひとつのルールがある。
扉に時間進行の魔力を籠める。
異世界の時間は10月8日、午前6時だとする。
扉の先の日本では、5月4日午後2時に到着。
買い物に2時間かかれば5月4日午後4時だ。
異世界に戻る際、襖に時間進行の魔力を込めて裏口から帰還する。
異世界では10月8日、時刻は午前8時となっている。
つまり、どちらの世界にいても、
消費した時間を同期することも、
一時停止することも可能であるという事だ。
そして今、ウチには日本の時間を進めたくない理由がある。
爺ちゃんが行方不明だという事だ。
戸籍上も住民票でも日本に存在している爺ちゃんと俺。
年金受給者は年に一度の現況届が必要だし、
ご近所付合いだってある。
爺ちゃんがいなくなってから、
異世界では約1年が経過しているが、
日本の時間はまだ2か月しか経過していない。
その内、約1ヵ月はアリサ達の身を隠す事と、
魔族化したカラダを回復す療養機関として消費してしまった。
あとは店で使用する酒類仕入れが必要であり、
やむを得ず日本の時間を進めてしまっている。
そろそろ本格的に爺ちゃん行方を探さないとまずい状況になりそうなので、
酒場にナータンという不器用な従業員を雇えたのは僥倖である。
彼に店を任せられれば、まとまった時間で爺ちゃんを探す事が可能となる。
日本時間、5月5日、午前2時15分。
今は時間を1分たりとも無駄にしたくない。
24時間営業のスーパーで仕入れる事にする。
同じ日に何回も買い物に行くと、怪しげな客と疑われないよう、
前回の仕入れ先と重複しないように気を付けている。
(・・・今日はこどもの日か)
世間ではゴールデンウィーク真っ只中であり、
多くの人々が大型連休を楽しんでいる事だろう。
そんな中、俺達は真夜中に愛車チャッピーを走らせ、
荷台いっぱいに買い物をする。
ツーシーターの軽トラックゆえに、
買い出しの相棒はチロルひとり。
そのうちリーネにも爺ちゃん家以外の日本の風景を見せてあげようかと思っている。
現在、うちの酒場では、
生ビール用のサーバーは置いてあるのだが、
樽詰の生ビールは取扱っていない。
地球の時間を進めたくないがゆえに、
業務用の樽詰ビールの仕入が困難だからだ。
量販店ならどこでも売っている缶ビールを使用しているが、
ビール用のグラスに注ぐコツさえ掴めれば、
缶ビールでも十分おいしく提供できる。
毎度のことながら、仕入れの際は、
前回の仕入先と重複しないように気を付けなくちゃいけない。
「・・・マスター。ビールのどこが美味しいの?」
チロルはビールが苦手だ。
異世界では15歳で成人を迎えるが、
チロルは自称大人の満年齢12歳。
戦闘力も味覚もまだまだ子供である。
店にくる客たちが「ぷはぁーっ」と豪快に飲み干していくビール。
興味本位でビールを一口飲む・・・というか、
舐めてみたのだが、これが苦いのなんの。
獣人の血を引く白狼族は嗅覚が人間の何倍も鋭いがゆえに、
その苦さも何倍増しだったようだ。
「ビールは味わうってより喉越しだな」
「・・・シュワシュワは好きじゃない」
「大人なればビールの良さがわかるようになるさ」
「・・・ワタシはもう大人」
そう背伸びするチロル。
あと3年もすれば成人するのだろうが、
俺にしてみれば、チロルは幾つになっても妹みたいなものだ。
成人すれば結婚もできるこの世界。
実際、貴族や裕福な商家の子息令嬢が、
成人と同時に婚姻という事はそう珍い事じゃない。
俺との年の差を考えれば娘でも不思議じゃないのだが。
(このまま年をとらないでくれたら、この関係が続いてい来るだろうか。戦闘力の成長がないのは残念至極だが・・・)
この日、スーパーで仕入れたビールは25箱。
ふたりで店内から軽トラックまで、
何往復も買い物カートを走らせる。
仕入はすべて現金で行っているが、
さすがに深夜ビールの大量買いは、
現金を支払ったとしても悪目立ちする。
顔を覚えられたくないがゆえのサングラスは逆効果だったようだ。
「チロル、ずらかるぞ!」
「・・・悪いことしてない」
極端に車高が低くなったチャッピーが、
真夜中の田舎道を疾走していく。
そんな訳で、このところ日本から酒を仕入れるのも一苦労している。
酒場に帰宅後は、カレンダーに日本で過ごした最終時刻を記入。
日本での滞在時間を有効に使う為には必要な事である。
「やれやれ、こっちはもうお昼か。なぁチロル。先に昼飯にしようぜ」
スーパーのレジ袋から取り出したのは、
チーズハンバーク弁当とデミハンバーグ弁当。
大きめのハンバーグに鎮座するはとろりとけたチーズ。
たっぷりのデミグラスソースを纏ったハンバーグには、
半熟に焼かれた目玉焼き。
「・・・はんばーぐ!」
チロルの目は弁当に釘付けとなる。
「それとこれは生姜焼き弁当に唐揚げ弁当。日本の定番弁当だな。リーネとアリサを呼んできてくれ。みんなでお昼を食べたら、2階のストックヤードまで荷物運びだ」
安息日の酒場のランチタイム。
休みの日くらい、昼からビールを飲んでも罰が当たらないだろう。
アリサとピルスナーグラスに並々注がれたビールを片手に、
グラスを掲げる。
「乾杯!」
ちなみにチロルとリーネはノンアルコールの子供ビールだ。




