家庭教師
公都リンデンバームはライムバッハ公爵領の領都である。
ライムバッハ公爵家はフォルツバルク王国の筆頭公爵であり、
王国の開祖初代フォルツバルク国王の実弟の血を受け継ぐ名門である。
王国配下ではあるが、ライムバッハ領は極めて高い自治権が認められており、
王国の属国である近隣諸国からも独立国家と同等の扱いを受けている。
ゆえに領都リンデンバームは公都と呼ばれ、
王国南部の軍事、商業の中心都市として栄華を誇っている。
王国貴族は自領邸宅のほか、王都ロレンシアにタウンハウスと呼ばれる別邸を構えている。
王城に出仕する場合や、夜会など外交活動には、
タウンハウスに滞在することとなる。
王家並みに影響力のあるライムバッハ公爵家。
公爵家の寄子と呼ばれる派閥貴族は、
王都だけではなく、リンデンバームにもタウンハウスを構えている場合が多い。
経済的に余裕の無い貴族は、貴族御用達のホテルに滞在する事もあるが、
寄親である公爵家への忠誠心の証という一面もあり、
子爵家以上の多くの貴族は、王都と公都にタウンハウスを設けている。
タウンハウスは所有すればいいという訳ではない。
貴族の屋敷を維持するには、執事やメイド、調理人や庭師といった従者が、
最低15~20名程度必要であった。
そして、タウンハウスを構える場合、
貴族家当主の家族が常に住まうことが暗黙の了解となる。
法的な拘束力は一切ないのだが、
当主家族がタウンハウスに住まうという事が、
実質的な人質として、王家や公爵家に忠誠を誓う証とされるのだ。
そんな貴族家につかえる職業のなかに、
家族でもなく使用人でもないどちらつかずの役目をもつものがいる。
それが家庭教師だ。
家庭教師はただ学問を教える能力があればいい訳ではない。
採用には、教師の素養のほか家柄も大切な要因となる。
大抵は家督を継ぐことのない次男や三男、
そして女性の令嬢がその役割を担った。
そして今夜、そんな家庭教師のとある女性が、
酒場月に吠えるにやって来たのだが・・・
「マスター、今夜は帰りたくないぃ・・・」
うら若き乙女からそんな事を言われたら、
ありがたく頂戴したくなるのが男の性だろう。
だが、今宵その言葉を発したのは、
三十路を超えて幾久しい独り身淑女なのだ。
「アンナ先生、ずいぶんお召し上がりですけど大丈夫ですか?」
「うるはい、わらしは酔っていない・・・っひく」
「・・・」
ベルモント子爵家の家庭教師、
アンナ・モンテールはライムバッハ公爵の寄子モンテール男爵の三女である。
家督をつげない貴族の子弟は、男子の場合は婿入りするか、
国軍や貴族家騎士団などの軍閥に所属する。
女子の場合は、家督を継ぐ貴族に嫁入りするのが一番とされるが、
家督を継ぐ貴族の場合、大抵は幼少期に許嫁が決まっており、
縁組が成立しなかった女性は、高位貴族家のメイドや、王家または高位貴族家の女官となる。
それらも高位貴族の人脈をたよりに、よりよい縁談を結ぶための目的があるのだが、
かならずしも貴族の令息令嬢が職にありつけるわけではない。
アンナ・モンテールのように、貴族の令息・令嬢の専属家庭教師として糧を得ている者も多い。
「私の教えているバ●娘ときたら、週末から王都で勉学に励むからって、2週間お役御免だって、今日になって伝えてきたのよ。ほんと頭くる!」
「それはお気の毒です・・・」
アンナ・モンテールは貴族令嬢であが、
家庭教師を務めるベルモント子爵の家族ではない。
といってもベルモント子爵の使用人でもない。
立場的には使用人以上家族未満という、
なんとも宙ぶらりんな立ち位置にある。
今回のように、ベルモント子爵が令嬢を連れ立って王都に出かける場合、
家庭教師の仕事はお役御免となる。
家庭教師の仕事は学業の他、貴族の礼節や社交ダンスなど多岐にわたる為、
住み込みで契約する場合が多い。
彼女の場合もベルモント子爵家のタウンハウスに自分の部屋がある。
執事やメイドなどの使用人は大部屋に寝泊まりしているが、
家庭教師には個室があてがわれる。
だが、ベットにクローゼットと小さな机だけがある極めて質素な部屋だ。
貴族の客人として迎い入れられたわけではない証左だ。
お役御免といっても、
教え子令嬢が不在の間、タウンハウスから追い出されるという訳ではないが、
主不在の屋敷では、家庭教師への使用人の態度はあからさまに変わるらしい。
使用人からみれば家庭教師とは、
自分たち以上の存在であるが、
子爵一家とは血縁関係のない他人である。
使用人もまた主不在時の彼女への接し方が面倒なのだ。
「子爵がいないとき、メイド長の嫌味って凄いのよ」
「・・・それはそれは」
「どんなに酷いのか聞きたいでしょ?」
「・・・できれば遠りょ「聞きたいわよねぇ!!」
話したいのなら合意を求めないでほしい。
「私、朝食はいつも一人で食べてるの。子爵ご一家は食堂で。使用人たちは使用人用の食堂で食べてるの」
「・・・はぁ」
「でもさみしいなんて思ったことないわ。ちゃんと決まった時間に準備してもらえるもの」
「・・・食べられる事は喜ばしい事です」
「喜ばしい?はぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
しまった。
なにか地雷を踏み抜いたか。
「今朝、たまにはと思って食べ終えた食器を厨房にもっていったのよ」
「・・・ご立派です」
「そうしたら、使用人たち食べていた皿を一斉に隠したのよ」
「隠すですか。そんなに見られたくない貧相な食事だったのですかね?」
「何言ってんの。私には硬いライ麦パンと薄い塩味の豆スープだけだったのに、使用人たちは分厚いベーコンと卵を2個も使った目玉焼き。パンは真っ白な上等なもの。そして朝なのに赤と白のワインを開けていたのよ。私の朝食とのこの差はいったいなんなのよ!お酒頂戴。強いヤツ!!」
・・・これは何ハラスメントと呼べばいいのか。
「今朝はずいぶん冷え込んだじゃない。私冷え性だから何枚も厚着して寒さに耐えているの」
「そういえば、今朝は初霜が降りたって話でしたね」
「お皿を持って行ったとき、使用人たちの食堂。暖炉にこれでもかって石炭がくべられていたの。部屋の中ここは南国かってくらい熱いのよ。私の部屋の水差しなんか初氷はってたのにぃぃぃぃ!!!マスター、はやくお酒頂戴っ!!!」
・・・冬将軍が酒場に降臨した。
貴族令嬢がひとりで酒場で酒を飲む。
普通ではありえないのだが、家庭教師の仕事がお役御免中であれば、
家庭教師が外泊しようと酒場で酒を飲もうとそれは本人の自由である。
実家に帰れるものは実家に帰ることもあるし、
アンナ・モンテールのように寄宿先に不満があれば、
ホテル住まいなどの外泊も許される。
ただし、使える貴族家の品格を傷つけない事が前提なのだが・・・
「家令のク●親父も本当に●ソ野郎なのよ」
「・・・先生、ご令嬢がク●は不味いでしょ」
「ふん、そんなの召し上がったことがないから味なんてわからないわ!それより●ソ親父の事なのよ!」
「・・・はぁ」
「私がシャワー室つかってた時なんだけどね。ちゃんと入口に鍵かけてたのに、ク●親父が入ってきちっゃたのよ」
「鍵どうやって開けたんですか。まさか魔法とか?」
「まさか、魔力のマの字もないボンクラ爺よ。ただ家令だから、合鍵もってたってだけなの」
「それでも女性の入浴を除いちゃ犯罪ですよ・・・」
「まったくその通りね。バスタオルで大切なところは隠してあったけど、バッタリ会った瞬間『きゃー------------!!』って大声よ。絶叫よ!」
「まぁ、女性が覗かれたんなら仕方がない事じゃないですか。叫び声はお屋敷中に聞こえましたよね」
「そうなの。使用人が全員集合しちゃったんだけど、それが問題だったのよ。大声で叫んだのはク●親父の方。私は声すら出せなかったの。でもよく見たら、私が男性用のシャワー室使ってたのよね。見られ損っていうのかしら、これは」
「・・・家令さんにク●呼ばわりした事をお詫びにいきましょうか」
「あっ、その時のショックで心臓止まっちっゃたからもう会うことは出来ないかな・・・」
・・・殺●事件発生。憲兵さーん。
「マスター、自分定時なのでここで失礼します」
「あっ、ナータン。逃げる・・・まっ、まぁ。お疲れさん」
・・・ナータン。ついに我慢の限界を迎える。
時刻は深夜0時をまわっている。
酒場の街灯は深夜0時で消灯する。
消灯後の営業は、新規客を受け入れるのはご法度だが、
それまでの客は最後のグラスを飲み干すまで店にる事が出来る。
さて、いつもの事だが、
アンナ・モンテールは最後の一杯を飲み終えると、
そのままカウンターで眠りにつく。
三十路のご令嬢だが、もちろんたたき出すわけにはいかない。
帰りたくない客には飲食店の開店まで、
疲れた精神を安らいでもらいたい。
さて、そんな彼女になにを出すとしようか。
ここは爽やかな気分で夢の世界に旅立ってもらいたい。
子爵家と使用人との狭間で苦しむ彼女へのラストオーダー。
「こちらジン・トニックになります」
このところジャパニーズ・ジンが流行しているが、
俺が一番好きなジンは、伊豆大島で醸すクチナシを使用したクラフト・ジン。
初夏甘く爽やかに香るクチナシのにほい。
バニラのような芳醇な香りは甘く清らかかで、
いやな事を忘れさせる魅力がある。
少々お高いのだが、酒場月に吠えるから、
彼女にささやかなプレゼント。
「・・・すごい華やかお酒ね。嫌な事を忘れさせてくれるような優しいお酒」
「はい、これはクチナシの花を蒸留したクラフト・ジンなんですよ」
「・・・クチナシ?」
「はいクチナシの花です」
フルフルと小刻みにカクテルグラスが揺れだした。
まいったな。
感動して泣きたくなったのか。
俺はつくづく罪な男だ。
はっ、もしかしてこのままガバっという展開になってしまうのだろうか。
ちょっと年はいってるけど、よく見れば戦闘力もそこそこのレベル。
クラリッサがチョモランマだとすれば、アンナはキリマンジャロ。
安定的なおわん型だと見て取れる。
さっきまでナータンがいるからそんな事を考える暇がなかったけれど、
このま朝までならば時間はたっぷりあるじゃないか。
あとは対チロルの索敵能力封じの結界を張れば、
なんとかここでもできちゃうんじゃないのかぁ?
まてまて、爺ちゃんの神聖な酒場で、
なんていう事を考えているんだ。
けしからん。
まったくもってけしからん。
でも爺ちゃんがいないから、
少しのお痛くらい大丈夫だよね。
相手がいいっていうんだから、
それはそれでしょうがないよね。
人間だもの♪
「マスター、クチナシの花言葉ってしってる?」
「・・・はい?花言葉ですか??」
はて。
クチナシに花言葉などあるのだろうか。
「クチナシは『嫁に行く口がない』つまり嫁に行きそびれるって事です!マスターの意地悪ぅぅぅぅ!!!」
こうしてアンナ・モンテールの孤独な夜は、
朝まで止まることのない愚痴を吐き出し続け、
更けていくのであった。




