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異世界外交官クラリス ~魔法が無い世界で魔法が生まれる瞬間に立ち会ってしまいました~  作者: 飯山知 春。


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第9話 選んだ命

西の街道を、冷たい風が吹き抜けた。


負傷者のいる森。


国境へ逃げる男。


クラリスは、二つに分かれた道を見つめていた。


逃亡者を捕らえれば、失踪事件へ繋がる手がかりを得られるかもしれない。


男が抱えている大きな革鞄には、記録や証拠が入っている可能性もある。


ここで逃せば、国境を越えられる。


プレアリアへ入れば、エストラドの警備隊は追跡を続けられない。


一方。


森には、深い傷を負った人間がいる。


まだ息はある。


だが、長くはもたない。


クラリスは唇を開いた。


声が出なかった。


負傷者の状態。


国境までの距離。


追跡へ向かった警備隊員の人数。


町から集められる人手。


確かめたいことはいくつもある。


一つずつ情報を揃えれば、より多くを救える答えへ辿り着けるかもしれない。


だが。


考えている間にも、森の男は血を失っている。


逃亡者は国境へ近づいている。


何も選ばないことも、選択になる。


クラリスは顔を上げた。


「負傷者のもとへ向かいます。」


警備隊員が目を見開く。


ローウェンは表情を変えなかった。


「逃げた者は。」


クラリスは喉の奥で息を詰まらせた。


それでも目を逸らさずに答える。


「追跡へ向かった二人に任せます。」


「追いつけないかもしれません。」


「分かっています。」


「国境を越えられれば、革鞄も失います。」


「はい。」


ローウェンの声に責める響きはなかった。


ただ、選んだ先まで見据えている。


クラリスは拳を握る。


爪が掌へ食い込んだ。


「それでも。」


「まだ生きている人を、見捨てることはできません。」


短い沈黙が落ちる。


「それが、あなたの答えですか。」


以前なら。


間違っていないかと尋ねていた。


もっと良い方法はないかと、ローウェンへ答えを求めていた。


だが、彼も結果を知っているわけではない。


クラリスは小さく息を吸った。


「私が選びます。」


声は震えていた。


それでも、言葉ははっきりしていた。


「負傷者を救います。」


ローウェンが頷く。


「分かりました。」


彼は警備隊員へ向き直った。


「町へ戻り、戸板と毛布を用意してください。」


「治療師にも知らせます。」


クラリスが続ける。


「湯と清潔な布もお願いします。」


警備隊員は一度だけ西の街道を見た。


やがて頷き、馬首を返す。


「すぐに戻ります。」


蹄の音が宿場町の方角へ遠ざかっていった。


クラリスも森へ向かおうとする。


「クラリス。」


ローウェンに呼び止められた。


振り返る。


「あなたは、負傷者を選びました。」


「はい。」


「では今は、逃亡者のことを考えないでください。」


クラリスの表情が強張る。


「ですが。」


「追跡は、すでに別の者が行っています。」


ローウェンは森へ視線を向けた。


「二つを選べない以上、一つに力を尽くすべきです。」


クラリスは返事をしなかった。


胸の奥では、もう迷いが芽生え始めている。


それでも。


クラリスは森へ続く道を見据えた。


「行きます。」


二人は馬へ乗った。


街道を外れると、道はすぐに険しくなった。


木の根が地面を這い、低い枝が行く手を塞ぐ。


朝の霧が林の奥へ残り、遠くまで見通せない。


先を行くローウェンが速度を落とした。


地面には、いくつもの蹄の跡がある。


一頭は街道へ戻っている。


逃亡者のものだろう。


ほかの二頭は、その跡を追って西へ向かっていた。


警備隊員たちの馬だ。


そして、その脇には。


森の奥へ、何かを引きずったような跡が続いている。


クラリスは馬を降りた。


「こちらです。」


枯れ葉の上に、黒ずんだ血が落ちていた。


二人は馬を引きながら、その跡を追う。


血の滴は、森の奥へ進むほど大きくなっていく。


やがて。


倒木の陰に、人の脚が見えた。


クラリスは手綱を放した。


「いました!」


男は太い木の根元へ横たわっていた。


外套は泥と血にまみれている。


脇腹には深い傷があり、押さえていたらしい手も赤く染まっていた。


顔は青白い。


胸が、かすかに上下している。


生きている。


クラリスは男のそばへ膝をついた。


「聞こえますか。」


男の瞼が、わずかに動く。


「エストラド外交局の者です。」


「助けに来ました。」


返事はない。


クラリスは震える指を男の首筋へ当てた。


弱い。


それでも、脈は残っている。


ローウェンが外套を開き、傷を確かめる。


「刃物です。」


男の右手には、折れた短剣が握られていた。


袖口には、自分のものとは違う血が付いている。


抵抗したのだ。


クラリスは上着を脱ぎ、畳んで傷口へ押し当てた。


「押さえます。」


「強く。」


ローウェンが男の身体を支える。


クラリスは両手へ力を込めた。


温かい血が、たちまち布へ染み込んでくる。


男の口が、かすかに動く。


クラリスは顔を近づけた。


「何ですか。」


声にはならない。


「もう一度。」


男の指が動いた。


血に濡れた手が、クラリスの袖をつかむ。


薄く開いた目が、彼女の胸元の外交局の紋章を見つめていた。


「……鞄。」


途切れた声だった。


「逃げた男が持っていた鞄ですか。」


男の指が、わずかに動く。


「中には何が入っているのですか。」


「……渡す、な。」


「誰にですか。」


男の唇が震える。


だが、声は続かなかった。


その時。


森の向こうから、馬の蹄が聞こえた。


一頭。


速い。


木々の間から、追跡へ向かった警備隊員の一人が現れる。


男は馬から飛び降り、肩で息をしながら報告した。


「逃げられました。」


クラリスの手が、一瞬だけ止まりかける。


「国境を越えたのですか。」


「はい。」


逃亡者は消えた。


革鞄も。


その中にあるものも。


クラリスは傷口から目を逸らさなかった。


布を押さえる手に、もう一度力を込める。


「分かりました。」


声は静かだった。


「もう一人の方は。」


「国境の手前で監視を続けています。」


「そのまま続けてください。」


警備隊員が目を瞬く。


「追わなくてよいのですか。」


「許可なく国境を越えることはできません。」


「ですが。」


「分かっています。」


クラリスは男の傷から目を離さなかった。


「逃がした責任は、私が負います。」


その時。


横たわる男の指が、再びクラリスの袖をつかんだ。


「……違う。」


クラリスが顔を寄せる。


「何が違うのですか。」


「国境……ではない。」


「では、どこへ。」


男は苦しげに息を吸った。


「奴は……逃げたんじゃない。」


森を風が吹き抜ける。


枝葉がざわめいた。


男は血に濡れた唇を動かす。


「届けに……行った。」



「届けに行った。」


男の掠れた声が、森の静寂へ溶けた。


クラリスは傷口を押さえたまま、さらに顔を近づける。


「誰に届けるのですか。」


男は苦しそうに息を吸った。


「……知らん。」


「では、どこへ。」


「国境じゃ……ない。」


その言葉に、追跡から戻った警備隊員が眉をひそめる。


「だが奴は国境道へ向かった。」


男はゆっくり首を横へ振った。


「見せた……だけだ。」


「追わせるために。」


ローウェンが静かに尋ねる。


「本当の目的地は。」


男は唇を震わせた。


「西丘……。」


「古い……見張り小屋……。」


警備隊員が顔色を変える。


「あそこか。」


「街道から外れた廃屋です。」


「国境道を途中で逸れれば辿り着けます。」


クラリスは頭の中へ街道図を描いた。


国境へ向かう一本道。


その途中から西へ分かれる細道。


追う者の目は、どうしても国境へ向く。


その隙に、小屋へ荷を届ける。


最初から、そのための道筋だったのだ。


「鞄は。」


「……小屋。」


「置く……。」


男の声はそこで途切れた。


呼吸が乱れる。


ローウェンが首を振る。


「これ以上は危険です。」


クラリスも頷いた。


知りたい。


だが、今は命が先だった。


「町へ運びます。」


警備隊員が一歩前へ出る。


「なら、私は小屋へ向かいます。」


クラリスは反射的に顔を上げた。


また一人だけを向かわせる。


もし待ち伏せされていたら。


もし相手が複数だったら。


この男と同じことが繰り返される。


「駄目です。」


警備隊員は驚いた。


「しかし、今なら間に合うかもしれません。」


「分かっています。」


クラリスは苦しそうに答えた。


「それでも、一人では向かわせません。」


警備隊員はローウェンを見る。


「課長殿。」


ローウェンは静かに言った。


「判断は主任補佐官が行います。」


その言葉に、クラリスは小さく息を呑む。


ローウェンは判断を引き取らない。


答えを与えない。


自分で選び、自分で責任を負わせようとしている。


「町へ戻ってください。」


クラリスは警備隊員へ言った。


「応援を集めます。」


「十分な人数で小屋を包囲します。」


「それでは遅れるかもしれません。」


「はい。」


「鞄を持ち去られるかもしれません。」


「はい。」


答えるたび、胸が締め付けられる。


それでも言葉は変えなかった。


「それでも、一人で向かわせることはしません。」


警備隊員はしばらく黙っていた。


やがて深く頭を下げる。


「承知しました。」


馬へ飛び乗り、街道へ駆け戻っていく。


蹄の音が遠ざかった。


森へ静寂が戻る。


クラリスは傷口へ押し当てた布を見る。


血は、まだ止まらない。


赤く染まり続けている。


男が薄く目を開いた。


「……水。」


革袋を開け、唇を湿らせる程度に含ませる。


男は小さく息を吐いた。


「……礼を言うのは。」


「まだ早い。」


クラリスは静かに頷く。


「助かります。」


男は弱く首を横へ振った。


「分からん。」


その一言は、ローウェンが何度も口にしてきた言葉と同じだった。


だからこそ。


今できることを選ぶしかない。


やがて森の向こうから複数の足音が近づいてきた。


警備隊員。


戸板を担いだ町人。


そして白髪の治療師。


老人は男の傷を見るなり膝をついた。


「どけ。」


クラリスは場所を譲る。


老人は布を外し、新しい布と薬草で手早く傷を縛り直した。


脈を測り、小さく息を吐く。


「まだ生きる気はある。」


クラリスは思わず尋ねた。


「助かりますか。」


老人は鼻を鳴らした。


「そんなものは分からん。」


「儂は助けるために手を動かすだけだ。」


その言葉に、クラリスは静かに頷いた。


男を慎重に戸板へ移した、その時だった。


腰から小さな銀の札が落ちる。


澄んだ音が森へ響いた。


クラリスは拾い上げる。


円の中へ三本線が刻まれた銀札。


銀鹿亭で見た印と同じだった。


裏返す。


そこには一つの名前が刻まれている。


クラリスの呼吸が止まった。


十五年前の第三使節団名簿。


失踪者一覧。


何度も見返した、その名前だった。


クラリスは思わず男を見た。


男もまた、ゆっくりと彼女を見返す。


「……まだ。」


掠れた声が漏れる。


「終わって……いない。」



負傷した男は戸板へ乗せられ、宿場町へ運ばれた。


治療師は歩きながら傷口を押さえ続ける。


クラリスも戸板の脇を離れなかった。


宿へ戻る頃には、空はすっかり昼の色になっていた。


男はそのまま一室へ運び込まれる。


扉が閉まる。


治療師が治療を始める音だけが、中から聞こえてきた。


クラリスは扉の前で立ち尽くす。


「命は。」


小さく尋ねた。


「今を越えれば、生きる。」


治療師は手を止めずに答える。


「越えられなければ。」


その先は言わなかった。


沈黙が流れる。


その時。


階下から慌ただしい足音が響いた。


「ローウェン殿!」


先ほどの警備隊員だった。


「応援を集めました。」


「見張り小屋へ向かえます。」


ローウェンは頷く。


「何人ですか。」


「警備隊六名。」


「町の猟師二名です。」


十分とは言えない。


それでも先ほどとは違う。


「行きましょう。」


八人の警備隊とともに、西丘へ馬を走らせた。


街道を外れた細道は、人二人が並ぶのがやっとだった。


木々は深く、昼なお薄暗い。


やがて古びた見張り小屋が姿を現す。


屋根は崩れ、壁板も剥がれていた。


人の気配はない。


警備隊が静かに小屋を包囲する。


ローウェンが頷いた。


「開けます。」


警備隊員が扉を蹴り開けた。


乾いた音が森へ響く。


全員が一斉に中へ踏み込む。


小屋は空だった。


壊れた机。


倒れた椅子。


積まれた薪。


そして。


床の中央に、大きな革鞄だけが置かれていた。


クラリスは駆け寄る。


「残っていました。」


ローウェンは慎重に革鞄を開いた。


全員が息を呑む。


中は空だった。


入っていたのは、一枚の紙だけ。


クラリスが拾い上げる。


そこには短く書かれていた。


『遅かった。』


それだけだった。


署名もない。


印章もない。


誰が残したのかも分からない。


だが。


こちらの動きを見越して書かれた言葉だった。


ローウェンは小屋の奥へ進む。


窓際でしゃがみ込み、地面へ目を向けた。


「足跡があります。」


全員が集まる。


柔らかい土には、一人分の靴跡。


その横には、二組の馬の蹄跡が残っていた。


警備隊長が眉をひそめる。


「ここで馬を乗り換えています。」


「待っていた者がいたということか。」


ローウェンが静かに頷く。


「逃げた男は、一人ではありません。」


クラリスは革鞄へ視線を落とした。


国境へ向かった男。


追わせるための革鞄。


そして、この見張り小屋。


最初から。


こちらの行動を計算した上で仕組まれていた。


ローウェンが口を開く。


「あなたが負傷者を選んだから失敗した。」


「そういう話ではありません。」


クラリスは顔を上げる。


「……課長。」


「逃亡者を追っていても、こちらは人数が足りませんでした。」


「小屋に仲間がいた以上、結果は変わらなかった可能性があります。」


クラリスはゆっくり息を吐いた。


胸を締め付けていた重さが、ほんの少しだけ和らぐ。


その時。


外から声が上がる。


「こちらです!」


警備隊員が地面を指差していた。


小さな焼け跡がある。


灰は、まだ温かかった。


誰かが、つい先ほどまで火を使っていたのだ。


クラリスは棒で灰を探る。


黒く焦げた紙片が現れた。


慎重に拾い上げる。


ほとんど焼けていた。


それでも、一行だけ読むことができた。


『……十三人目……』


クラリスの表情が固まる。


十五年前。


第三使節団は十三人。


失踪したのは十人。


そして。


今、生きている男が一人。


残る一人は、誰なのか。


ローウェンも焦げた紙片を見つめる。


「王都へ戻れば、名簿を照合できます。」


クラリスは静かに頷いた。


敵は、まだ一歩先を歩いている。


それでも。


初めて、敵が確かに存在する証拠を掴んだ。


その事実だけは、誰にも奪えなかった。



宿へ戻る頃には、日が傾き始めていた。


負傷した男は、まだ眠り続けている。


治療師は部屋を出ると、額の汗を拭った。


「峠は越えた。」


その一言に、クラリスは肩の力を抜く。


「ですが。」


老人は続けた。


「目を覚ますまでは、何とも言えん。」


そう言い残し、薬を煎じるため部屋を後にする。


クラリスは静かに扉を見つめた。


逃亡者は逃がした。


革鞄も失った。


それでも、自分が選んだ命は、まだ繋がっている。


その時。


部屋の中から、小さな物音がした。


クラリスは扉を開ける。


男の指先が、わずかに動いていた。


ゆっくりと瞼が開く。


焦点の合わない目が天井を見上げ、やがてクラリスへ向いた。


「聞こえますか。」


男は弱く頷く。


クラリスは枕元へ膝をついた。


「名前を教えてください。」


しばらく沈黙が続く。


やがて掠れた声が漏れた。


「……ギル。」


クラリスの胸が高鳴る。


「ギル・ハルト。」


男はゆっくり目を閉じた。


肯定だった。


ローウェンが静かに尋ねる。


「十五年前の第三使節団ですね。」


「……そうだ。」


部屋の空気が張り詰める。


ようやく。


失踪者本人の証言が聞ける。


クラリスは息を整えた。


「なぜ今まで姿を隠していたのですか。」


ギルは苦しそうに息を吐く。


「約束……した。」


「誰と。」


「皆で。」


その一言に、クラリスとローウェンは視線を交わした。


皆。


第三使節団全員。


「何を約束したのですか。」


ギルは首を横へ振る。


「まだ……言えん。」


「命を狙われています。」


クラリスは身を乗り出す。


「仲間も行方不明です。」


「それでも話せないのですか。」


ギルは弱く笑った。


「だから……話せん。」


その笑みは、どこかオルテムに似ていた。


守るべきものを抱えた人間の笑みだった。


「約束を破れば。」


「全部……終わる。」


「何が終わるのです。」


返事はない。


代わりに、ギルは震える手を持ち上げた。


クラリスの袖をつかむ。


「……聞け。」


「誰にですか。」


「オルテム。」


クラリスは目を見開く。


「オルテムさんに。」


ギルは小さく頷いた。


「まだ……間に合う。」


「何がです。」


「約束が……。」


言葉は途中で途切れた。


治療師が部屋へ戻り、クラリスの肩へ手を置く。


「もう休ませろ。」


クラリスは唇を噛み、静かに頷いた。


ギルは目を閉じる直前、もう一度だけ口を動かした。


「……追え。」


「オルテムを……。」


それだけ言い残し、再び意識を失う。


部屋には静かな寝息だけが残った。


クラリスは眠るギルを見つめる。


昨日までの自分なら。


何としてでも、その場で答えを聞き出そうとしていただろう。


だが今は違う。


答えを持っている者のもとへ向かう。


それが最も早く真実へ辿り着く道だと理解していた。


クラリスはゆっくり立ち上がる。


「課長。」


「オルテムさんを追いましょう。」


ローウェンは静かに頷いた。


「私も同意見です。」


「今なら、まだ追いつける可能性があります。」


クラリスは窓の外を見る。


西へ続く街道は、夕日に赤く染まっていた。


商隊は半日ほど先を進んでいる。


急げば、まだ間に合う。


その時。


宿場町の見張り塔から、警鐘が鳴り響いた。


一度。


二度。


続いて階下から叫び声が聞こえる。


「王都から伝令だ!」


クラリスとローウェンは顔を見合わせた。


二人はすぐに部屋を飛び出した。



宿場町の見張り塔では、警鐘が鳴り続けていた。


街の人々が何事かと外へ集まり始める。


一頭の馬が、土煙を上げながら門をくぐってきた。


騎乗しているのは、王都の伝令だった。


馬はそのまま宿の前で止まる。


伝令は馬を降りると、息も整えずローウェンへ封書を差し出した。


「外交局長エリアス様より。」


ローウェンは封を切る。


書状へ目を通した瞬間、その表情がわずかに変わった。


「クラリス。」


書状が差し出される。


クラリスは受け取った。


そこには短く記されていた。


『第三使節団名簿の原本を確認。


失踪者十名のほか、生存を確認できない者が一名。


ギル・ハルトではない。


至急帰還されたし。』


クラリスは息を呑んだ。


「もう一人……。」


ローウェンが静かに言う。


「焦げた紙の『十三人目』。」


「そして、この書状。」


「繋がりました。」


第三使節団は十三人。


失踪した十人。


生きていたギル。


そして、なお所在の分からない最後の一人。


その存在が、はっきりと浮かび上がった。


伝令が口を開く。


「至急帰還との命です。」


「すぐ出発されますか。」


クラリスは答えなかった。


王都へ戻れば、新たな資料を確認できる。


最後の一人についても分かるかもしれない。


だが。


ギルは最後まで言っていた。


『オルテムを追え。』


今なら、まだ追いつける可能性がある。


再び。


道は二つに分かれていた。


クラリスは静かに目を閉じる。


昨日までなら。


資料を集め。


情報を比べ。


もっとも失敗の少ない答えを探していただろう。


だが。


そんな答えは、もう存在しない。


選ばなければならない。


そして。


選んだ結果も、自分で受け止めなければならない。


クラリスは目を開いた。


「課長。」


「私は、オルテムさんを追います。」


ローウェンは静かに尋ねる。


「理由を聞かせてください。」


「ギルさんは。」


クラリスは迷わず答えた。


「命が危うい状態でも、オルテムさんの名前を口にしました。」


「それほど重要な人物だということです。」


「王都の資料は残ります。」


「ですが。」


「オルテムさんは待ってくれません。」


しばらく沈黙が続いた。


やがてローウェンが小さく頷く。


「分かりました。」


伝令が驚いた表情を浮かべる。


「ですが、局長命令は。」


「私が説明します。」


ローウェンは穏やかに答えた。


「現場での判断は、現場が責任を負います。」


伝令はそれ以上、何も言わなかった。


クラリスは深く頭を下げる。


「ありがとうございます。」


ローウェンは首を横へ振る。


「礼は不要です。」


「これは、あなた自身が選んだ道です。」


その言葉に、クラリスは静かに頷いた。


自分で選び。


その結果も、自分で背負う。


それが、この調査を任された者の務めだった。


クラリスは馬へ歩み寄る。


西へ続く街道は、夕日に赤く染まっていた。


商隊の残した轍が、まだ道にはっきりと残っている。


手綱を握る。


昨日までの自分なら。


正しい道を探していた。


今日の自分は違う。


選んだ道を、正しいものにするために進む。


「行きましょう。」


二頭の馬が、夕暮れの街道を駆け出した。


その先には、まだ追いつけるかもしれない真実が待っていた。

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