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異世界外交官クラリス ~魔法が無い世界で魔法が生まれる瞬間に立ち会ってしまいました~  作者: 飯山知 春。


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第8話 初めての敗北

翌朝。


宿場町には、薄い霧が立ち込めていた。


石畳は夜露に濡れ、通りの向こうでは、店を開く準備をする人々の声が聞こえている。


クラリスは宿の食堂に置かれた小さな机へ向かっていた。


机の上には、昨夜まとめた紙が並んでいる。


第三使節団が銀鹿亭へ立ち寄ったこと。


馬車が二台だったこと。


二台目について、オルテムが口を閉ざしていること。


そして、使節団の者たちが、一人の男をオルテムの父へ預けたこと。


クラリスは最後の一文へ線を引いた。


「これ以上は、記録に残さない方がいいでしょう。」


向かいに座るローウェンが、湯気の立つ器を机へ置いた。


「オルテムが話すまでは、という意味ですか。」


「はい。」


クラリスは頷く。


「彼が恐れているのは、話した内容が多くの者へ伝わることです。」


「でしたら、閲覧できる者を限定します。」


用意していた紙をローウェンの前へ差し出す。


そこには、証言を扱うための手順が細かく記されていた。


証言者の名前は残さない。


証言内容は一通だけ作成する。


封印はクラリスとローウェンの立ち会いで行う。


開封できるのは、外交局長エリアスのみ。


複製は作らない。


調査終了後、必要がなければ焼却する。


ローウェンは黙って目を通した。


「よく考えられています。」


「これなら、オルテムの話が不用意に広まることはありません。」


クラリスは身を乗り出す。


「誰が読むのか。」


「どこへ保管するのか。」


「いつ処分するのか。」


「すべて明らかにします。」


「彼の言葉も、預けられた方も守れます。」


ローウェンは書面を机へ戻した。


「筋は通っています。」


クラリスの表情がわずかに明るくなる。


「では。」


「ですが。」


ローウェンの静かな声が、それを止めた。


「これは、オルテムが求めている答えでしょうか。」


クラリスは目を瞬いた。


「彼は、言葉が誰へ伝わるのかを恐れていました。」


「その危険をなくせば、話していただけるはずです。」


「そうかもしれません。」


ローウェンは否定しなかった。


それでも、書面へ視線を落としたまま続ける。


「昨夜、彼は何と言いましたか。」


クラリスは答えた。


「紙を見せるな。」


「私自身が何者かを見せろ、と。」


言葉にしてから、クラリスは口を閉ざした。


机の上には、何枚もの紙が並んでいる。


そのすべてが、オルテムを納得させるために用意したものだった。


「ですが。」


クラリスは紙を一枚ずつ揃えた。


「口約束だけでは、守れるものにも限界があります。」


「その通りです。」


ローウェンは穏やかに頷く。


「あなたの考えは間違っていません。」


「ならば、まず話してみます。」


クラリスは紙を鞄へ収めた。


話せば分かる。


互いが守りたいものを確かめ、危険を一つずつ取り除けば、納得できる場所へ辿り着ける。


それが外交なのだと、クラリスは信じていた。


宿を出る。


霧の向こうでは、プレアリアの商人たちがすでに天幕を畳み始めていた。


草原馬へ荷が積まれ、焚き火の跡には土がかけられている。


商隊は、今にも出発しようとしていた。


クラリスは無意識に足を速めた。



オルテムは、草原馬の鞍を確かめていた。


革帯を引き、荷の重さを確かめる。


クラリスたちが近づいても、手を止めようとはしなかった。


「お話があります。」


クラリスが声をかける。


「昨日の続きか。」


「はい。」


オルテムは革帯を締め終えると、ようやく二人へ顔を向けた。


「話すことはない。」


「その前に、聞いていただきたいことがあります。」


クラリスは鞄へ手を入れかけた。


だが、昨夜の言葉を思い出し、その手を止める。


「あなたが話した内容は、私とローウェン課長以外には伝えません。」


オルテムは何も答えない。


「証言者の名前も残しません。」


「話していただいた内容は一通だけ記録し、外交局長以外の閲覧を禁じます。」


「複製も作りません。」


「必要がなくなれば、私たちの立ち会いで処分します。」


一つずつ、丁寧に説明する。


誰が読むのか。


どのように保管するのか。


どこまで秘密が守られるのか。


曖昧な部分が残らないよう、言葉を選んだ。


オルテムは黙って聞いていた。


やがて、静かに尋ねる。


「それを決めたのは誰だ。」


「私です。」


「守ると約束できるのか。」


「はい。」


クラリスは迷わず答えた。


「私の名において、お約束します。」


オルテムの背後で、商人の一人が顔を上げた。


だが、オルテムの表情は変わらなかった。


「お前が死んだ後は。」


クラリスの言葉が止まる。


「その約束は、誰が守る。」


「外交局が管理します。」


「お前ではない。」


「ですが、局長は信頼できる方です。」


「俺はその者を知らない。」


「王国の外交を預かる方です。」


「それが、俺と何の関係がある。」


問いかける声に怒りはなかった。


だからこそ、クラリスは答えを失った。


「では。」


一度息を整え、言葉を続ける。


「何があれば、信用していただけるのですか。」


「昨日、言ったはずだ。」


オルテムは鞍へ手を置いた。


「信用できる者の紹介を受けろ。」


「ですが、この町であなたと私の双方を知る方はいません。」


「ならば、今は話せない。」


「それでは、人が死ぬかもしれません。」


オルテムの目がわずかに細められた。


「十五年前から、第三使節団の関係者が一人ずつ消えています。」


「今回、残っていた十人も姿を消しました。」


「あなたが守ろうとしている方も、狙われている可能性があります。」


「だから話せと。」


「その方を守るためでもあります。」


「お前は、その者を知らない。」


「知りません。」


「どこにいるかも知らない。」


「はい。」


「誰に狙われているかも分からない。」


クラリスは答えられなかった。


オルテムは静かに言う。


「何も知らない者へ、父から預かった命を渡すことはできない。」


「渡してほしいとは言っていません。」


「同じだ。」


オルテムの声が低くなる。


「居場所を知らせれば、お前たちは会いに行く。」


「拒めば命令書を見せる。」


「扉を開けなければ、王国の権限で開けさせる。」


「違います。」


クラリスは即座に否定した。


「私たちは、その方を無理に連れ出すつもりはありません。」


「それを、誰が保証する。」


クラリスは胸元へ手を添えた。


「私が保証します。」


オルテムは、しばらく彼女を見つめた。


朝霧が薄れ、淡い陽光が二人の間へ差し込む。


やがて男は小さく首を振った。


「お前は、自分の言葉を信じている。」


「だから、嘘をついているとは思わない。」


クラリスの表情がわずかに緩む。


だが。


オルテムは続けた。


「それでも、俺がお前を信じる理由にはならない。」


クラリスの顔から、微かな期待が消えた。


「私は、どうすれば。」


「分からないことを、俺に聞くな。」


オルテムは草原馬の手綱を取った。


「信用とは、条件を並べれば手に入るものではない。」


「お前は、自分が正しいことは示した。」


「だが。」


オルテムはクラリスを真っすぐ見据える。


「お前自身は、まだ何も見えてこない。」



商隊の出発は、昼まで延期された。


草原馬の一頭が脚を痛めていたためだった。


商人たちは荷を降ろし、蹄を確かめ、代わりの馬へ積み替える準備を始めている。


クラリスに残された時間は、わずかだった。


彼女は宿場町の東側にある小さな家を訪ねた。


銀鹿亭の元主人の娘が暮らしている家だった。


扉を開けた女性は六十歳を過ぎていた。


銀鹿亭について尋ねると、しばらく考えた後、二人を物置へ案内した。


「父の物は、ほとんど処分しました。」


「宿を閉じてから、ずいぶん経ちますから。」


薄暗い物置には、古い椅子や食器、壊れた燭台が積まれていた。


その奥から、女性は小さな木箱を引き出す。


「帳簿だけは、捨てられませんでした。」


箱の中には、革表紙の帳簿が数冊収められていた。


宿泊者の名前。


利用した部屋。


預かった馬や荷物。


代金。


宿で起きたことが、日ごとに記されている。


クラリスは十五年前の日付を探した。


一冊目。


二冊目。


紙をめくる指が速くなる。


やがて、第三使節団が宿場町を通過した日に辿り着いた。


だが。


その日の頁だけが、きれいに切り取られていた。


クラリスの手が止まる。


「この頁は。」


女性が帳簿を覗き込む。


「さあ。」


「私が見た時には、もうその状態でした。」


紙の切断面は古い。


宿を閉じた後に失われたものではない。


ローウェンがそれを受け取り、頁の綴じ目を確かめた。


「意図的に切り取られています。」


クラリスは前後の日付へ目を走らせる。


前日。


翌日。


どちらにも、第三使節団を示す記述はなかった。


記録から消されている。


王都の編成表と同じように。


「ほかに、その日のことが分かる物はありませんか。」


女性は首を横へ振りかけた。


だが、何かを思い出したように物置の奥へ目を向ける。


「父は、帳簿とは別に札を使っていました。」


「荷を預かった時に、同じ印を付けた札を二枚作るのです。」


「一枚を客へ渡し、もう一枚を荷へ結ぶ。」


クラリスは街道で拾った木片を取り出した。


女性の目が見開かれる。


「それです。」


「やはり銀鹿亭の預かり札なのですね。」


「ええ。」


女性は木片を受け取り、汚れた表面を指でなぞった。


「裏に印があるはずです。」


木片を返し、斜めから光へかざす。


削れた面に、薄い線が残っていた。


円の中へ、三本の短い線。


女性は物置の棚を探り、一冊の小さな控え帳を取り出した。


預かり札の印と、荷の種類を記した帳面だった。


同じ印を探して頁をめくる。


クラリスの鼓動が速くなる。


やがて。


女性の指が、一行で止まった。


『客人一名。


西の商人へ預ける。


代金、受領せず。』


名前はない。


荷物でもない。


一人の人間が、宿から商人へ預けられていた。


その下には、宿の主人による短い書き込みがあった。


『約束により、記録はこれのみとする。』


クラリスは息を呑んだ。


オルテムの話と一致している。


使節団の者たちが、男を父へ預けた。


銀鹿亭の主人は、その男をさらに西の商人へ渡した。


「西の商人とは、誰ですか。」


女性は首を横へ振る。


「分かりません。」


「父は何も話しませんでした。」


クラリスは控え帳へ視線を落とした。


オルテムの証言が事実である可能性は高まった。


それだけではない。


使節団が預けた男が、その後さらに別の誰かへ渡ったことも分かった。


十五年前。


一人の人間が、幾人もの約束によって守られた。


その誓いは、今も続いている。


だが、その間にも人は消え続けた。


クラリスは帳面を閉じる。


「これを、オルテムへ見せます。」


ローウェンが彼女を見る。


「何を伝えるつもりですか。」


「私たちが、すでにここまで辿り着いていることを。」


「彼が話さなくても、調査は進みます。」


「ならば、私たちへ協力した方が、その方を安全に守れます。」


ローウェンはすぐには答えなかった。


「それは説得ですか。」


「はい。」


クラリスは控え帳を抱えた。


「ここまで分かれば、話していただけるはずです。」


その声には、先ほどまでより強い決意があった。


ローウェンは静かに彼女を見つめる。


やがて、短く頷いた。


「行きましょう。」


二人が家を出ると、町の外から馬の嘶きが聞こえた。


商隊の荷造りは、すでに終わりかけていた。



オルテムは、商隊の先頭に立っていた。


荷を積み終えた草原馬が、何頭も街道へ並んでいる。


出発を待つ商人たちの視線が、近づいてくるクラリスとローウェンへ集まった。


「待ってください。」


クラリスが呼びかける。


オルテムは足を止めた。


その表情に、朝のような余裕はなかった。


「まだ何かあるのか。」


クラリスは控え帳を開いた。


「銀鹿亭に残されていた記録を見つけました。」


オルテムの目が、帳面へ向けられる。


「十五年前、銀鹿亭の主人は一人の客を西の商人へ預けています。」


「その方は、あなたのお父上が預かった方ですね。」


商人たちの間に、小さなどよめきが走った。


オルテムの表情が変わる。


「どこで、それを。」


「銀鹿亭の元主人の家です。」


「勝手に持ち出したのか。」


「所有者の許可をいただきました。」


クラリスは帳面を閉じる。


「私たちは、あなたの話を奪おうとしているのではありません。」


「ですが、調べれば事実へ近づくことはできます。」


「その方を確実に守るためにも、協力していただきたいのです。」


オルテムは何も答えなかった。


「私たちへ話していただければ。」


「危険な場所を避け、王国の保護を受けることもできます。」


「追っている者を特定できるかもしれません。」


「十人の失踪者も救えるかもしれません。」


「すべて、筋の通った話だ。」


オルテムが静かに言った。


真っすぐ彼を見つめる。


「では。」


「だが、話さない。」


はっきりとした拒絶だった。


クラリスは一瞬、言葉を失った。


「なぜです。」


「朝、答えた。」


「状況が変わりました。」


「変わっていない。」


オルテムの声が低くなる。


「お前は俺の父が守った言葉を調べ回り、皆の前へ持ち出した。」


「名前は書かれていません。」


「そういう話ではない。」


オルテムは周囲の商人たちへ目を向けた。


彼らの顔から、先ほどまでの穏やかさが消えている。


「俺が守っていると知りながら、お前は他の場所から同じ話を探した。」


「調査ですから。」


クラリスは答えた。


「一つの証言だけで判断することはできません。」


「だから、俺を試したのか。」


「違います。」


「俺が嘘をついていないか確かめた。」


「事実を確認しただけです。」


「同じだ。」


オルテムの言葉が、クラリスの胸へ刺さった。


「あなたの言葉を疑ったのではありません。」


「なら、なぜ同じ答えを探した。」


クラリスは答えようとした。


だが。


その問いに、王都なら迷うことはなかった。


証言は照合する。


記録は複数の資料で確かめる。


一人の言葉だけで事実を決めてはならない。


それは調査を行う者として、当然の手順だった。


「間違いを防ぐためです。」


クラリスは静かに答えた。


「人の記憶は、年月とともに変わることがあります。」


「悪意がなくても、誤った内容を話すことはあります。」


オルテムの背後で、誰かが息を呑んだ。


男の目から、最後に残っていた温度が消えた。


「父も。」


低い声だった。


「俺も。」


「間違っているかもしれないと。」


「可能性の話です。」


「だから、お前たちは紙を信じる。」


オルテムは一歩下がった。


「人の言葉より。」


「そうではありません。」


クラリスは思わず声を強めた。


「記録も証言も、どちらも必要なのです。」


「それが、人を守るために。」


「もういい。」


オルテムは彼女の言葉を遮った。


「お前が何者か、よく分かった。」


クラリスの指が、控え帳の表紙を強くつかむ。


「私は、失踪した方々を助けたいだけです。」


「知っている。」


「なら。」


「だから信用できない。」


クラリスは息を止めた。


オルテムは静かに続けた。


「お前は人を助けるためなら、正しい手順で他人の秘密を暴く。」


「理由を並べ、拒む者が間違っているように追い詰める。」


「その先に人の命がある限り、お前は止まらない。」


「それの何が悪いのですか。」


声が漏れた。


クラリス自身、口にしてから気づいた。


周囲が静まり返っている。


ローウェンも、何も言わない。


オルテムは怒らなかった。


ただ、悲しむようにクラリスを見た。


「悪くない。」


「お前は、お前の正しさに従った。」


男は草原馬の手綱を取る。


「だから俺も、俺の正しさに従う。」


「待ってください。」


「今日から、俺は何も知らない。」


「あなたが黙れば、また誰かが消えるかもしれません。」


オルテムの足が止まった。


クラリスは続ける。


「亡くなったお父上との約束を守るために、生きている人を見捨てるのですか。」


言葉が落ちた瞬間。


商人たちの顔色が変わった。


誰かが、低く息を吐く。


別の者は、クラリスから視線を逸らした。


オルテムは振り返った。


怒りではなかった。


それよりも深い何かが、その眼差しにあった。


「父を侮辱するな。」


「そのつもりでは。」


「今、口にした。」


静かな声だった。


クラリスは、何も言えなくなった。


オルテムは二度と彼女を見なかった。


「出るぞ。」


商人たちが一斉に動き始める。


草原馬の蹄が石畳を鳴らす。


クラリスは道の中央に立ったまま、その列を見送った。


呼び止める言葉は、もう残っていなかった。



商隊が見えなくなった後も、クラリスは動けなかった。


街道には、草原馬の蹄が巻き上げた土埃だけが残っている。


手の中には、銀鹿亭の控え帳。


そこには、十五年前の事実が確かに記されていた。


オルテムの証言とも一致している。


調査は前へ進んだ。


そのはずだった。


「宿へ戻りましょう。」


ローウェンが静かに声をかける。


クラリスは返事をしなかった。


控え帳を見つめたまま、ようやく口を開く。


「私の考えは、間違っていましたか。」


「いいえ。」


ローウェンは答えた。


「証言を確認することも。」


「情報が広がらない方法を考えることも。」


「失踪者を救おうとしたことも。」


「どれも間違ってはいません。」


「それなら。」


クラリスは顔を上げる。


「なぜ、あの人は動かなかったのでしょう。」


ローウェンはしばらく沈黙した。


「人は、正しい答えに従うとは限りません。」


「では、どうすればよかったのですか。」


「分かりません。」


思いがけない答えだった。


クラリスは目を見開く。


ローウェンは穏やかな表情のまま続ける。


「私にも、正解は分かりません。」


「時間をかければ、信用を得られたかもしれない。」


「別の紹介者を探せば、話してくれたかもしれない。」


「何も調べず、彼の言葉だけを信じればよかったのかもしれない。」


「ですが、そのどれを選んでも、失踪者を救える保証はありません。」


クラリスは控え帳へ視線を落とす。


「私は。」


声が震えた。


「間違えないようにしただけです。」


「証言を確認して。」


「危険を減らして。」


「誰も傷つけない方法を考えて。」


「それでも、全部失いました。」


オルテムは去った。


預けられた男がどこにいるのかも分からない。


西の商人が誰なのかも分からない。


一度は話しかけてくれた相手から、完全に信用を失った。


「私は、正しいことをすれば。」


クラリスは言葉を探した。


「少なくとも、悪い結果にはならないと思っていました。」


ローウェンは何も答えなかった。


否定されないことが、かえって苦しかった。


クラリスは父の言葉を思い出す。


外交官は、戦争を止める最後の砦。


幼い頃から、何度も胸の中で繰り返してきた。


正しい言葉を届ければ。


事実を積み重ねれば。


互いの誤解を解けば。


争いは止められる。


そう信じていた。


だが今。


クラリスの手元には、記録だけが残されている。


人は、いない。


「父なら。」


小さく呟く。


「父なら、どうしたのでしょう。」


ローウェンは静かに首を横へ振った。


「それを考えても、答えは出ません。」


クラリスの指が止まる。


「あなたの父上が向き合った相手と、オルテムは違います。」


「同じ場面も。」


「同じ答えも。」


「外交には、二度とありません。」


風が街道を吹き抜けた。


控え帳の頁が、ぱらぱらとめくれる。


記された文字は変わらない。


それでも、その意味は人によって違って見える。


クラリスは初めて、そのことを恐ろしいと感じた。


「戻りましょう。」


ローウェンが歩き始める。


クラリスも、その後を追おうとした。


その時。


町の西から、馬が一頭駆けてきた。


年配の警備隊員が手綱を引き、二人の前で馬を止める。


「ローウェン殿!」


男は息を切らしていた。


「街道の先で、人が見つかりました。」


クラリスは顔を上げる。


「使節団の方ですか。」


「分からん。」


「ひどい傷を負っている。」


「だが、外交局の紋章を持っていた。」


ローウェンの表情が引き締まる。


「場所は。」


「西の森へ入ったところだ。」


「まだ息はあるが、長くはもたん。」


クラリスはすぐに歩き出しかけた。


だが、警備隊員が続ける。


「それと。」


男は街道の西を振り返った。


「倒れていた男の近くから、馬で逃げた者がいる。」


「目撃した木こりによれば、一人だ。」


「大きな革鞄を抱えて、国境の方角へ向かった。」


ローウェンが尋ねる。


「追跡は。」


「二人を向かわせました。」


「だが、こちらは負傷者を運ぶ人手が足りない。」


「逃げた者も、このままでは国境を越える。」


西へ向かう一本の街道。


その途中で、道は二つに分かれる。


一方には、瀕死の人間。


もう一方には、事件へ繋がるかもしれない逃亡者。


両方へ向かう時間はない。


クラリスは立ち尽くした。


正しい答えを探そうとする。


だが。


どちらを選んでも、何かを失う。


先ほどまでとは違う重さで、沈黙が胸へ落ちた。


ローウェンは何も言わない。


ただ、クラリスを見ていた。


決めるのを待っている。


クラリスは初めて知った。


答えが見つからないのではない。


最初から、誰も傷つかない答えなど存在しないのだ。

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