第7話 紙と人
街道の先に、宿場町の屋根が見え始めた頃には、空が夕暮れの色へ染まりつつあった。
王都を発ってから、初めて迎える旅先の夕刻だった。
石造りの家々が街道の両側へ並び、軒先には宿や食堂を示す看板が吊るされている。
馬を引く商人。
荷を降ろす御者。
酒場から漏れる笑い声。
王都よりはるかに小さな町だったが、街道を行き交う旅人たちの声で賑わっていた。
クラリスは馬車を降りると、街道図を開いた。
「銀鹿亭は、町の西側にあったそうです。」
先を歩く年配の警備隊員が頷く。
「ああ。」
「十五年前なら、町で一番大きな宿だった。」
「馬小屋も広く、使節や大商人が泊まることもあった。」
クラリスは周囲を見渡した。
宿屋の看板はいくつもある。
だが、銀の鹿を描いたものは見当たらない。
町の中央を抜け、古い石橋を渡る。
人通りが少なくなり、建物の間隔も広がっていった。
やがて老人は、一軒の大きな建物の前で足を止めた。
「ここだ。」
クラリスは顔を上げる。
二階建ての石造りの建物だった。
壁の一部には蔦が這い、窓は板で塞がれている。
入口の上には、看板を吊るしていたと思われる錆びた金具だけが残されていた。
人の出入りはない。
「ここが、銀鹿亭……。」
かつて宿だったことは、辛うじて分かる。
建物の脇には大きな馬小屋が残っていた。
だが、扉は傾き、屋根の一部が崩れ落ちている。
ローウェンが建物を見上げた。
「営業をやめたのは、いつですか。」
「十二年ほど前だ。」
老人が答える。
「主人が亡くなってな。」
「息子は宿を継がず、町を出た。」
クラリスは手にしていた木片を取り出した。
風雨に削られた表面には、『……鹿亭』という文字が残っている。
入口の金具へ近づき、その幅を目で確かめた。
木片の端には、小さな穴が二つ開いていた。
吊り看板の一部ではない。
「これは、看板ではありません。」
クラリスの言葉に、ローウェンが木片を覗き込む。
「では、何でしょう。」
「穴の位置が近すぎます。」
「この大きさなら、部屋の鍵に付ける札か、荷物を預けた時に渡す札だと思います。」
老人が目を細めた。
「宿札か。」
クラリスは頷いた。
「おそらく。」
もし、この木片が銀鹿亭の宿札なら。
十五年前、第三使節団の誰かが銀鹿亭へ立ち寄ったことになる。
だが、公式の日程には、その記録がない。
ローウェンが閉ざされた扉へ手を掛ける。
扉は動かなかった。
「中を確認するには、所有者の許可が必要ですね。」
「今の持ち主なら、町の東に住んでいる。」
老人が答えた。
「亡くなった主人の娘だ。」
クラリスは木片を握り直す。
「話を聞かせてもらいましょう。」
三人が来た道を戻ろうとした、その時だった。
背後から、低い声が届いた。
「その札を。」
クラリスは振り返る。
街道の向こうに、一人の男が立っていた。
日に焼けた顔。
肩まで伸びた黒髪には、細い革紐と銀の飾りが編み込まれている。
その背後には、草原馬を連れた数人の商人がいた。
第一中継所の手前で見かけた、プレアリアの商隊だった。
男はクラリスの手元を見つめていた。
「どこで見つけた。」
◇
男の視線は、クラリスが持つ木片へ向けられていた。
鋭い眼差しだった。
だが、敵意とは少し違う。
長い間失われていたものを、思いがけず目にしたような表情だった。
クラリスは木片を両手で持ち直す。
「第一中継所から西へ半日ほど進んだ街道脇です。」
「十五年前、第三使節団の馬車が発見された場所に残されていました。」
男の表情から、わずかに色が消えた。
背後にいた商人たちも、互いに顔を見合わせる。
ローウェンが一歩前へ出た。
「外交局のローウェン・ディルクです。」
「こちらはクラリス・ヴァイン。」
「使節団の失踪について調査しています。」
男はローウェンではなく、クラリスを見た。
「その札を見せてくれ。」
クラリスは一瞬だけ迷い、木片を差し出した。
男は受け取ると、汚れを親指で静かに拭った。
裏面。
縁。
二つの穴。
一つずつ確かめていく。
「銀鹿亭の宿札だ。」
迷いのない声だった。
クラリスは手帳を開く。
「ご存じなのですか。」
男は木片を見つめたまま頷いた。
「昔、この宿を使っていた。」
「十五年前にも?」
その問いに、男の指が止まった。
短い沈黙が流れる。
宿場町の通りでは、荷馬車の車輪が石畳を鳴らしていた。
遠くの酒場から笑い声が聞こえる。
だが、閉ざされた宿の前だけは、周囲から切り離されたように静かだった。
「名前を伺ってもよろしいでしょうか。」
クラリスが尋ねる。
男は木片を返しながら答えた。
「オルテム。」
姓は名乗らなかった。
プレアリアでは個人名だけを名乗る者が多い。
クラリスは学院で学んだ知識を思い出しながら書き留める。
「オルテム殿。」
男の眉がわずかに動いた。
「殿はいらない。」
「では、オルテム。」
クラリスは書き直そうとした。
「何を書いている。」
「今のお話を記録しています。」
その答えに、オルテムの眼差しが変わった。
「俺は、まだ何も話していない。」
クラリスの羽根ペンが止まる。
「お名前と、銀鹿亭を利用していたことを伺いました。」
「それを話した覚えはある。」
「だが、書いてよいとは言っていない。」
クラリスは戸惑った。
「調査で得た証言は、記録として残す必要があります。」
「なぜだ。」
思いがけない問いだった。
「なぜ……とは。」
「お前は俺の言葉を聞いた。」
「隣の男も聞いた。」
オルテムはローウェンへ目を向ける。
「それでは足りないのか。」
クラリスは静かに答えた。
「後から内容を確かめるためには、記録が必要です。」
「誰が、いつ、何を話したのか。」
「それを残さなければ、証言として扱うことができません。」
オルテムはしばらくクラリスを見つめていた。
やがて、背後の商人が小さく息を吐く。
「エストラドの役人だ。」
「言葉より紙を信じる。」
それは責める声ではなく、ごく当たり前のことを口にした響きだった。
オルテムは再び木片へ視線を落とす。
「俺たちは、紙より人を信じる。」
クラリスは答えられなかった。
◇
ローウェンはクラリスの手帳へ視線を落とした。
「今の部分は、ひとまず記録から外しましょう。」
クラリスは少し迷った後、静かに羽根ペンを置いた。
「分かりました。」
オルテムの表情から、わずかに険しさが消える。
ローウェンが尋ねた。
「あなたは十五年前、この町にいましたか。」
「ああ。」
「銀鹿亭へも?」
「泊まった。」
「第三使節団を見ましたか。」
オルテムは答えなかった。
視線だけが、閉ざされた宿へ向けられる。
夕暮れの光が古い石壁を赤く染めていた。
「十五年前。」
オルテムはゆっくりと口を開いた。
「俺は父の商隊にいた。」
「まだ荷を数えることしかできない若造だった。」
クラリスは手帳へ手を伸ばしかけ、思いとどまる。
オルテムはその動きを見ていた。
「書かないのか。」
「許可をいただいていませんから。」
オルテムの目がわずかに細められた。
それが満足なのか、警戒なのかは分からない。
「父は、この宿の主人と長く取引をしていた。」
「冬には毛皮を売り、春には塩と鉄を買った。」
「互いの子の名も知っていた。」
「約束を破ったことは、一度もない。」
クラリスは黙って耳を傾ける。
「使節団も、ここへ来たのですか。」
「来た。」
オルテムは短く答えた。
ローウェンの表情が引き締まる。
「何人いましたか。」
「それは言えない。」
「何台の馬車で?」
「言えない。」
「どこへ向かいましたか。」
「言えない。」
答えは同じだった。
クラリスは慎重に言葉を選ぶ。
「使節団の十人が、現在も行方不明です。」
「十五年前から、第三使節団の関係者が一人ずつ姿を消しています。」
「その理由を調べています。」
オルテムの表情は動かない。
だが、背後にいた商人たちの間に、わずかな動揺が走った。
クラリスは続ける。
「あなたの知っていることが、人の命を救うかもしれません。」
「だから話せと?」
「はい。」
クラリスは真っすぐ答えた。
「知っていることを、すべて。」
オルテムはしばらく沈黙した。
やがて、髪へ編み込まれた銀の飾りに指を触れる。
「十五年前。」
「俺の父は、一人の男を客として迎えた。」
ローウェンが静かに尋ねる。
「使節団の一員ですか。」
「それも言えない。」
「なぜです。」
クラリスの声に、わずかな焦りが混じった。
オルテムの眼差しが再び鋭くなる。
「父が約束したからだ。」
「その男の名を語らない。」
「どこから来て、どこへ行ったかも語らない。」
クラリスは思わず言葉を返した。
「ですが、その方は事件に関係している可能性があります。」
「可能性で、死んだ父の言葉を破れというのか。」
「そうではありません。」
「同じことだ。」
オルテムの声は荒くなかった。
それでも、言葉は重かった。
「父はその男を客として迎えた。」
「客を守ると誓った。」
「父が死ねば、その誓いも死ぬと思うか。」
クラリスは口を閉ざした。
オルテムは静かに言った。
「父の名に懸けた言葉を、俺が捨てることはできない。」
◇
閉ざされた銀鹿亭の前に、重い沈黙が流れた。
クラリスは手帳の白い頁を見つめていた。
何も書かれていない。
「オルテム。」
クラリスはゆっくりと顔を上げた。
「あなたがお父上との約束を守ろうとしていることは理解します。」
「理解する?」
「少なくとも、軽い約束ではないことは分かります。」
オルテムは黙って続きを待った。
「ですが、私たちにも守らなければならないものがあります。」
クラリスは鞄から調査命令書を取り出した。
王家の紋章。
外交局長エリアスの署名。
それを両手で広げる。
「私たちは王国の命令で失踪者を捜しています。」
「確認した事実は、誰が見ても同じ形で残さなければなりません。」
「そうしなければ、無関係な者が疑われることもあります。」
「記録は、人を疑うためだけのものではありません。」
「言葉を変えられないようにし、話した人を守るためのものです。」
オルテムは静かに命令書を見た。
「その紙が、お前の言葉を保証するのか。」
「はい。」
クラリスは迷わず答えた。
「署名した者が、内容に責任を負います。」
「では聞こう。」
オルテムはクラリスへ一歩近づく。
「その紙に名のない者は、誰が守る。」
クラリスは言葉を失った。
「父が守ると誓った男の名を、俺が話したとする。」
「その名が何人もの役人の手を渡り、知らぬ者の机に置かれる。」
「その中に、使節団を消した者がいないと、誰が保証する。」
外交局で文書が差し替えられた形跡。
消されていた閲覧記録。
それが脳裏をよぎる。
クラリスは答えられなかった。
オルテムは命令書から視線を外した。
「お前たちは、紙に書けば言葉が守られると考える。」
「俺たちは、人に預けた言葉は、その人間が守ると考える。」
「どちらも裏切られることはある。」
「それでも俺は、顔も知らない者が読む紙より、父を信じる。」
ローウェンが静かに尋ねた。
「あなたが話せる範囲は、どこまでですか。」
オルテムはしばらく考えた。
「第三使節団は、銀鹿亭へ来た。」
「馬車は二台だった。」
クラリスの表情が引き締まる。
警備隊員の証言と一致した。
「二台目には何が積まれていましたか。」
「答えられない。」
「誰が乗っていましたか。」
「答えられない。」
「銀鹿亭を出た後、どこへ。」
「答えられない。」
クラリスは奥歯を噛みしめた。
「では、どうすれば話していただけますか。」
オルテムはクラリスを見つめた。
「信用できる者の紹介を受けろ。」
「紹介?」
「俺がお前を知らないように、お前も俺を知らない。」
「知らない相手に、大切な言葉は預けられない。」
クラリスは調査命令書へ視線を落とした。
王家の紋章が押されている。
エストラドであれば、それ以上の保証はほとんど存在しない。
だが、オルテムにとって。
そこに誰の顔もなかった。
◇
夕日が沈み、宿場町に灯りがともり始めていた。
街道を行き交う人の数も減り、商人たちは夜営の準備を始めている。
プレアリアの商隊は、町の外れに天幕を張っていた。
宿屋が並んでいても、彼らは建物へ入ろうとはしない。
草原馬が円を描くようにつながれ、その中央では火が揺れていた。
クラリスとローウェンは、その様子を少し離れた場所から眺めていた。
「紹介者を探すしかないのでしょうか。」
クラリスが口を開く。
「それも一つの方法です。」
ローウェンは頷いた。
「ですが、誰なら彼の信用を得られるのか分かりません。」
「本人に聞いても、答えないでしょうね。」
クラリスは小さく息を吐いた。
「行きましょう。」
ローウェンが宿場町へ向き直る。
「今夜は聞いた内容を整理します。」
クラリスは頷き、歩き始めた。
その時だった。
「クラリス。」
背後から名前を呼ばれる。
振り返ると、オルテムが一人で立っていた。
火の明かりが、髪へ編み込まれた銀飾りを淡く照らしている。
クラリスは足を止めた。
「何でしょう。」
オルテムは周囲へ目を配り、商隊の者たちにも聞こえないほどの声で言った。
「一つだけ教える。」
クラリスは反射的に手帳へ手を伸ばしかける。
だが、すぐにその手を下ろした。
オルテムは閉じられた手帳を見て、小さく頷く。
「十五年前。」
「父が客として迎えた男は、使節団から逃げてきたのではない。」
クラリスの表情が引き締まる。
「では。」
「使節団の者たちが、父へ預けた。」
ローウェンも静かに振り返る。
「何のために。」
オルテムは首を横へ振った。
「それ以上は言えない。」
「その方は、今も生きているのですか。」
オルテムは答えなかった。
「どこにいるのです。」
「それも言えない。」
クラリスは一歩近づく。
「その方が生きているなら、事件の真相を知っている可能性があります。」
「会わせてください。」
オルテムの眼差しが冷たくなる。
「まだ分からないのか。」
「お前に会わせる理由がない。」
「ですが、失踪者を救うために必要です。」
「必要だと言えば、他人の誓いを奪えるのか。」
クラリスは言葉に詰まった。
オルテムは背を向ける。
「待ってください。」
その声に、男は足を止めた。
「どうすれば、私を信用していただけますか。」
長い沈黙の後。
オルテムは振り返らないまま答えた。
「紙を見せるな。」
「お前自身が何者かを見せろ。」
それだけ言い残し、商隊の火の中へ戻っていく。
クラリスはその背中を見送った。
夜風が街道を吹き抜ける。
手の中の調査命令書が、かすかに鳴った。
その紙は王国では何より重い。
けれど。
目の前の一人を動かすには、あまりにも軽かった。
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