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異世界外交官クラリス ~魔法が無い世界で魔法が生まれる瞬間に立ち会ってしまいました~  作者: 飯山知 春。


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第6話 残された馬車

夜明け前の外交局は、まだ眠りの中にあった。


普段なら職員たちの声が行き交う執務室にも人影はなく、薄暗い廊下には靴音だけが静かに響いている。


クラリスは自席の前に立ち、机の上をもう一度確認した。


筆記具。


手帳。


街道図。


第三使節団の関係者をまとめた名簿。


そして、局長の署名が入った調査命令書。


どれも昨夜のうちに用意したものだった。


それでも、忘れ物がないか気になってしまう。


これまで任されてきた仕事は、ほとんどが外交局の中で完結していた。


文書を作り、記録を調べ、必要な部署へ届ける。


学院を卒業して王都へ来てから、仕事で城壁の外へ出たことは一度もない。


「準備はできましたか。」


声に振り返ると、執務室の入口にエリアスが立っていた。


傍らにはローウェンもいる。


「はい。」


クラリスは書類鞄を抱え直した。


エリアスは机の上へ視線を向け、静かに頷く。


「現地では、街道警備隊が待っています。」


「馬車が発見された場所は、第一中継所から半日ほど西です。」


壁に掛けられた街道図の前へ歩み寄り、細い指先で一点を示す。


王都アストレア。


第一中継所。


その先に続く街道。


そして、馬車が発見された場所。


地図の上では、指先ほどの距離しかない。


だが、実際には一日近く馬車に揺られることになる。


「現場を確認した後、第一中継所で関係者から話を聞いてください。」


エリアスの指が、街道沿いの小さな町へ移る。


「使節団が最後に確認された場所です。」


ローウェンが尋ねた。


「王都へ戻る時期は。」


「決めません。」


エリアスは静かに答えた。


「必要な情報が揃うまでです。」


その言葉に、クラリスはわずかに表情を引き締めた。


数日の出張ではない。


調査の行方によっては、さらに西へ向かうことになる。


街道の先には宿場町があり、そのさらに先には国境がある。


国境を越えれば、プレアリアの草原へ続いていた。


エリアスはクラリスへ視線を向ける。


「現地では、記録どおりに物事が進むとは限りません。」


「書かれていないこともあります。」


「見たものだけでなく、見えなかったものも覚えておきなさい。」


クラリスは静かに頷いた。


「承知しました。」


エリアスは続いてローウェンを見る。


「彼女をお願いします。」


「はい。」


ローウェンはいつもと変わらぬ穏やかな声で答えた。


それから、クラリスが抱えている鞄へ目を向ける。


「ずいぶん重そうですね。」


「必要になりそうな資料を入れました。」


「何冊ほど。」


「帳簿の写しを四冊と、過去の街道報告を三年分です。」


ローウェンは一度黙り、クラリスの鞄を受け取った。


予想していた以上の重さだったのか、腕がわずかに下がる。


「半分は置いていきましょう。」


「ですが。」


「馬車にも積める量には限りがあります。」


「現地で頼りになるのは、まず自分の目と耳です。」


クラリスは鞄を見つめた。


しばらく迷った後、素直に頷く。


「……分かりました。」


必要な資料だけを選び直し、鞄へ収める。


最後に机の引き出しを閉めた。


使い慣れた机と、整然と並ぶ書類。


昨日までと変わらない光景だった。


それでも、その場を離れた瞬間、自分の日常はもう戻れない場所になったような気がした。


エリアスが静かに告げる。


「行ってらっしゃい。」


その言葉に、クラリスは深く一礼した。


「行ってまいります。」


扉を開く。


冷たい朝の空気が、廊下の奥から流れ込んできた。


クラリスはローウェンとともに、まだ眠る外交局を後にした。



東門を抜ける頃、太陽がゆっくりと地平線の向こうから姿を現した。


朝霧をまとった街道は淡い金色に照らされ、夜露を含んだ草が風に揺れている。


王都の城壁は、馬車が進むたびに少しずつ遠ざかっていった。


クラリスは思わず振り返る。


白い塔。


朝日に染まり始めた王城。


幼い頃から憧れ続けた景色が、ゆっくりと小さくなっていく。


「初めてですか。」


隣に座るローウェンが尋ねた。


「はい。」


「仕事で城壁の外へ出るのは。」


「王都そのものを離れることも初めてです。」


ローウェンは小さく笑った。


「私も最初はそうでした。」


馬車は一定の速度で街道を進んでいく。


石畳はやがて土の道へ変わり、車輪の音も柔らかくなった。


街道沿いには麦畑が広がっている。


収穫を迎えた黄金色の穂が風を受け、波のように揺れていた。


畑では農夫たちが朝早くから働き始めている。


子どもが家畜を追い、犬がその後を駆け回る。


王都の中では見ることのない光景だった。


「外交局にいると。」


クラリスがぽつりと呟く。


「国は書類の中にあるような気がしていました。」


ローウェンは景色を眺めたまま答えた。


「書類は国を映します。」


「ですが、国そのものではありません。」


その言葉を、クラリスは静かに胸の中で繰り返した。


馬車は小さな川を渡る。


橋の下では旅人が水筒へ水を汲み、荷馬車が順番を待っていた。


街道は王都だけのものではない。


商人も。


巡礼も。


兵士も。


外交使節団も。


皆、この道を行き交う。


クラリスは父のことを思い出した。


幼い頃、父は旅先で見た景色をよく話してくれた。


港町の朝市。


異国の商人。


見たこともない品々。


その頃は、おとぎ話のように聞いていた世界だった。


だが今、自分はその道を進んでいる。


胸の奥で、小さな期待と不安が入り混じる。


ローウェンが前方へ目を向けた。


「あれが第一中継所です。」


街道の先に、小さな町が見え始めていた。


石造りの宿屋。


馬小屋。


見張り台。


行き交う旅人。


王都とは比べものにならないほど小さい。


それでも、街道を支える人々の営みが息づいている。


クラリスは無意識に鞄へ手を置いた。


これから向かう先には、十五年間答えの出なかった事件の痕跡が残されている。


その事実だけが、胸の鼓動を少しずつ速めていた。



第一中継所の手前で、馬車はゆっくりと速度を落とした。


街道が狭くなり、何台もの荷馬車が順番を待っていたためだ。


前方では商人たちが荷を確かめ、衛兵が通行証を一枚ずつ確認している。


ローウェンは窓の外へ目を向けた。


「少し時間がかかりそうですね。」


クラリスも外を見る。


旅人。


巡礼者。


傭兵。


農民。


様々な身なりの人々が街道を行き交っていた。


その中でも、一際目を引く隊商があった。


十台近い荷馬車が列をなし、色鮮やかな布で覆われた荷が積まれている。


馬ではなく、大柄な草原馬が荷を曳いていた。


「あれは。」


「プレアリアの商隊です。」


ローウェンが答える。


「毎年この時期になると、毛皮や馬、それに薬草を運んできます。」


商人たちは日に焼けた肌に丈夫な革衣をまとい、腰には短剣を下げていた。


笑いながら荷を積み替える姿は、戦士というより、長旅に慣れた商人そのものだった。


クラリスは、その様子を静かに見つめる。


「思っていた印象と違います。」


「草原の民は荒々しい、と。」


「……少し。」


ローウェンは苦笑した。


「風聞というものは、都合の良い部分だけが広まります。」


そのとき、前方から旅人たちの話し声が聞こえてきた。


「また使節団の話だ。」


「西へ行くと消えるってやつか。」


「十五年前もそうだったらしいぞ。」


「だから俺は夜の街道は歩かん。」


冗談めかして笑う声が上がる。


だが、その笑いはどこかぎこちなかった。


信じ切っているわけでもない。


だからといって、笑い飛ばせるほど軽くもない。


そんな空気が漂っていた。


クラリスは小さく息を吐く。


「もう、こんなところまで話が広まっているんですね。」


「人づての話は、馬より速く旅をします。」


ローウェンは静かに言った。


「そして、人づての話は記憶まで書き換えてしまうことがあります。」


「だから私たちは、人から聞いた話ではなく、事実を集めるのです。」


クラリスは頷いた。


視線の先では、プレアリアの商人と王国の商人が笑いながら品物を取り引きしている。


値段を確かめ、握手を交わし、次の荷を運ぶ。


争う気配はどこにもなかった。


クラリスはその光景を見つめながら、静かに口を開く。


「この人たちの中にも、十五年前を知る人がいるかもしれませんね。」


ローウェンは穏やかに頷いた。


「いるでしょう。」


「ですが、知っていることと、真実は同じではありません。」


やがて衛兵が手を上げた。


「次!」


馬車がゆっくりと動き出す。


第一中継所は、もう目の前だった。



第一中継所の警備詰所は、街道沿いに建つ石造りの建物だった。


壁には街道地図が掛けられ、机の上には通行記録の帳簿が何冊も積み上げられている。


ローウェンが調査命令書を差し出すと、詰所の責任者らしい壮年の警備隊員が静かに目を通した。


「外交局ですか。」


男は表情を引き締める。


「失踪事件の件ですな。」


「はい。」


クラリスが答えた。


「第三使節団について、当時の記録と証言を確認したく参りました。」


警備隊員は頷き、奥から古びた帳簿を一冊持ってきた。


「記録は残っています。」


「ですが、十五年も前の出来事です。」


「覚えている者は、もう多くありません。」


ほどなくして、一人の年配の警備隊員が姿を現した。


日に焼けた顔には深い皺が刻まれている。


「当時、この街道の警備を担当されていたそうですね。」


ローウェンが尋ねる。


老人はゆっくりと頷いた。


「ああ。」


「馬車が見つかった日も現場へ行った。」


クラリスは手帳を開く。


「発見された馬車は一台だけだった、と記録されています。」


「そうだ。」


老人は迷わず答えた。


「街道脇に乗り捨てられていた。」


「荷物は残っていた。」


「人だけが消えていた。」


帳簿の内容と一致している。


クラリスは一つ頷き、次の質問を口にした。


「第三使節団は、何台の馬車で王都を出発しましたか。」


老人は少しだけ目を細める。


「二台だ。」


「使節を乗せた馬車が一台。」


「荷物を積んだ荷馬車が一台。」


クラリスの指が止まった。


すぐに編成表へ目を通す。


そこには、馬車一台としか記されていない。


「……おかしい。」


思わず声が漏れる。


「編成表には、一台しかありません。」


老人は静かに首を振った。


「いや。」


「二台だった。」


「それは間違いない。」


詰所に沈黙が落ちる。


ローウェンが老人へ視線を向けた。


「現場で見つかったのは。」


「使節を乗せた方だ。」


「では、荷馬車は。」


老人はゆっくりと首を横へ振る。


「見つかっていない。」


クラリスは帳簿へ視線を落とした。


馬車が消えたのではない。


最初から、一台が存在しなかったことになっている。


帳簿。


編成表。


そして、現場を知る人間の証言。


初めて、三つの記録が食い違った。


ローウェンは静かに帳簿を閉じる。


「誰かが、荷馬車の存在を記録から消した可能性があります。」


クラリスは帳簿を見つめたまま、小さく呟いた。


「消えたのは、人だけじゃなかった……。」



老人に案内され、クラリスたちは街道をさらに西へ進んだ。


第一中継所から半日。


街道は森へ入り、人通りもまばらになる。


やがて老人が足を止めた。


「ここだ。」


街道脇には、草に覆われた空き地が広がっていた。


長い歳月が流れ、当時の痕跡はほとんど失われている。


それでも、折れた木の幹や、不自然に開けた地面だけは、人の手が入った跡を今も残していた。


「馬車は、この辺りにありました。」


老人が静かに言う。


クラリスは周囲を見回した。


森は深い。


人が身を潜める場所はいくらでもある。


だが、街道そのものは広く見通しが良い。


「ここで待ち伏せをするでしょうか。」


クラリスは周囲を見渡したまま口を開く。


「襲うなら、もっと身を隠しやすい場所を選ぶ気がします。」


ローウェンは小さく頷いた。


「私も同じ印象です。」


老人が続ける。


「荷物も、そのままだった。」


「金目の物も残っていた。」


盗賊なら、荷を奪うはずだ。


使節団だけを連れ去る理由は見当たらない。


ローウェンは地面へしゃがみ込んだ。


「馬車を停めた跡は、この辺りだったそうですね。」


「そうだ。」


「馬は。」


「外されていた。」


クラリスは老人を見る。


「暴れて逃げたのではなく。」


「誰かが外した、と。」


「そう考える方が自然でしょう。」


ローウェンが静かに言った。


クラリスも頷く。


馬だけを連れ去り、馬車を残す。


そこには、何らかの意図があったはずだ。


そのとき、老人が草むらの方を指差した。


「あの辺りで見つかった物があった。」


「片付けの前に拾われたそうだ。」


懐から、小さな木片を取り出す。


風雨にさらされ、色はすっかり褪せている。


クラリスが受け取り、裏返した。


『……鹿亭』


かろうじて文字が残っていた。


「宿屋でしょうか。」


老人は頷く。


「銀鹿亭だ。」


「昔、この先の宿場町にあった。」


クラリスは街道図を広げる。


第三使節団の予定経路を指で追う。


銀鹿亭の名は、どこにもなかった。


「予定にはありません。」


「立ち寄ったのか。」


クラリスは木片を見つめる。


「それとも、予定そのものが書き換えられたのか。」


ローウェンは何も答えなかった。


否定も肯定もせず、静かにクラリスを見つめている。


老人が思い出したように口を開く。


「もう一つ。」


「現場に、草原の民が髪へ編み込む飾りが落ちていた。」


クラリスは顔を上げる。


「プレアリアの物ですか。」


「ああ。」


「だが、一つだけだった。」


クラリスはしばらく考え込んだ。


そして静かに口を開く。


「プレアリアの物が落ちていた。」


「分かる事実は、それだけです。」


「それだけで、誰かを疑うことはできません。」


ローウェンは穏やかに微笑んだ。


「ええ。」


「その姿勢を忘れないでください。」


老人は街道の先を指差した。


「あの宿場町なら。」


「銀鹿亭を知る者が、まだ残っているかもしれん。」


クラリスは街道の先を見つめた。


銀鹿亭。


記録には残っていない宿。


そこに、十五年前の出来事を繋ぐ糸口が眠っているのかもしれなかった。

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