第5話 第三使節団だけ
朝の外交局は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。
執務室には羽根ペンの走る音が絶えず響き、窓から差し込む柔らかな陽光が机の上を照らしている。
その穏やかな空気の中を、クラリスとローウェンは局長室へ向かって歩いていた。
二人の足音だけが、長い廊下へ静かに響く。
今日は何を調べるのか、クラリスは知っていた。
文書管理室で見つかった記録。
『第三プレアリア使節団報告書』
その実物を確認するためである。
局長室の前でローウェンが扉を叩く。
「失礼します。」
「入りなさい。」
エリアスの落ち着いた声が返ってきた。
部屋へ入ると、机の上には一冊の革表紙の報告書が置かれていた。
羊皮紙を何枚も綴じた厚い冊子である。
長年保管されていたためか、革には年月を感じさせる細かな傷が刻まれていた。
エリアスは二人が席へ着くのを待ち、静かに冊子へ手を置く。
「これが、第三プレアリア使節団報告書です。」
クラリスは表紙へ視線を向けた。
十五年前の日付。
自分がまだ幼い少女だった頃の記録である。
「第三使節団は、現在の和平交渉の原型となった使節団です。」
「当時も国境問題を巡る交渉が行われ、その後の外交方針へ大きな影響を残しました。」
学院でも名前だけは学んでいる。
だが、報告書そのものを見るのは初めてだった。
エリアスは一度報告書を閉じる。
「まず結論から言います。」
「昨日、一通り確認しました。」
「しかし、失踪事件へ直接つながる記述は見つかっていません。」
クラリスは少し意外そうに目を瞬かせた。
「何も……ですか。」
「ええ。」
エリアスは穏やかに頷く。
「交渉経過も、宿泊記録も、護衛報告も、すべて通常の外交記録でした。」
ローウェンも静かに続けた。
「私も同じ結論です。」
クラリスは報告書へ視線を落とす。
これだけの記録を調べても、何も見つからなかった。
それでもエリアスは、わざわざ今日ここへ呼んだ。
理由がある。
「だからこそ、あなたにも見てもらいます。」
エリアスは穏やかな眼差しをクラリスへ向けた。
「違う目で見れば、違う事実が見えることがあります。」
局長室が静まり返る。
クラリスは静かに報告書へ手を伸ばした。
革表紙は少しひんやりとしていた。
ゆっくりと最初のページを開く。
十五年前の文字が、静かに目の前へ現れる。
その中に、まだ誰も気づいていない小さな違和感が眠っているとも知らずに。
◇
クラリスは慎重に報告書を読み進めていた。
第三プレアリア使節団。
十五年前、エストラド王国からプレアリアへ派遣された外交使節団の公式記録である。
交渉の日程。
出席者。
歓待の内容。
宿泊先。
街道の行程。
帰路の記録。
一つひとつが簡潔に、そして正確に記されていた。
外交文書らしく、感情を交える表現は一切ない。
事実だけを積み重ねた文章だった。
クラリスはページをめくる。
交渉は予定どおり進み、大きな混乱もなく終了している。
護衛からの報告にも異常はない。
物資の不足もない。
体調不良を訴えた者もいない。
報告書を読み終えても、胸に残ったのは拍子抜けするような感覚だった。
どこにも不自然な記述はない。
昨日エリアスが言ったとおりだった。
「どうですか。」
ローウェンが静かに尋ねる。
クラリスは報告書を閉じ、小さく首を振った。
「報告書だけを見る限りでは……何もありません。」
「失踪事件につながるような記述も見当たりません。」
ローウェンは頷いた。
「私も同じ結論でした。」
エリアスは机の引き出しを開け、新たな書類の束を取り出す。
「だから、報告書だけでは終わりません。」
机の上へ並べられたのは、数冊の帳簿だった。
『第三プレアリア使節団名簿』
『帰国後報告一覧』
『人事異動記録』
『退官者名簿』
クラリスは思わず目を見開く。
「これも……。」
「第三使節団に関係した者たちの記録です。」
エリアスは静かに答えた。
「報告書だけを読んでも、人のその後までは分かりません。」
クラリスは名簿を開いた。
使節。
護衛。
書記官。
通訳。
御者。
案内役。
第三使節団に関わった者たちの名前が、役職ごとに整然と並んでいる。
「関係者は四十七名です。」
ローウェンが補足する。
「現地へ向かった者だけでなく、王都で準備に携わった者も含まれています。」
クラリスは一人ひとりの名前を目で追った。
見覚えのある姓もあれば、初めて目にする名前もある。
続いて帰国後報告一覧を開く。
外交局。
財務局。
王宮。
地方行政。
帰国後、それぞれがどこへ配属されたのかが記録されていた。
昇進した者。
地方へ赴任した者。
退官した者。
その後の足取りまで、丁寧に残されている。
「……ずいぶん、その後も追跡しているのですね。」
クラリスが呟く。
エリアスは穏やかに微笑んだ。
「重要な外交案件では珍しいことではありません。」
「交渉は、帰国して終わるものではありませんから。」
クラリスは静かに資料へ視線を落とした。
報告書には何もない。
だが、その周囲には、人の足跡を記した膨大な記録が積み重なっている。
事件の手掛かりは、一冊の報告書ではなく、その先にあるのかもしれない。
そう思いながら、一人目の名前へ目を向けた。
◇
「……課長。」
クラリスの声に、ローウェンとエリアスが同時に顔を上げた。
「どうしました。」
クラリスはすぐには答えなかった。
視線は名簿の一点に止まったまま動かない。
やがて、その名前を静かに読み上げた。
「ガレス・ノイマン。」
ローウェンは首を傾げる。
「第三使節団の護衛隊長ですね。」
クラリスは隣の帳簿へ手を伸ばした。
『退官者名簿』。
素早くページをめくり、一つの記録を指差す。
「退官理由、不明。」
短い一文だった。
「その一年後には消息不明、と追記されています。」
ローウェンは帳簿を覗き込み、小さく眉を寄せた。
「……確かに。」
エリアスも静かに立ち上がり、机のそばへ歩み寄る。
クラリスは次の帳簿を開く。
『帰国後報告一覧』。
今度は別の名前へ指を止めた。
「通訳官、セルジュ・イーデン。」
人事異動記録。
「三年後、地方支局へ異動。」
さらに退官者名簿。
「五年後、失踪。」
部屋の空気がわずかに変わった。
偶然。
そう片付けるには、二人目だった。
クラリスは無言のまま三人目を探す。
「書記官、リヒト・ヴォルツ。」
人事異動。
退官。
そして。
「七年前、消息不明。」
クラリスはゆっくり息を吸った。
「局長。」
エリアスは答えない。
ただ、続きを促すように頷く。
「第三使節団の関係者が、何人か消息を絶っています。」
ローウェンは静かに腕を組んだ。
「偶然という可能性もあります。」
クラリスは頷いた。
「ですから、まだ断定はできません。」
そう言いながらも、胸の奥の違和感は少しずつ大きくなっていた。
一人。
二人。
三人。
数が増えるほど、偶然とは思えなくなる。
クラリスは再び名簿へ目を落とした。
四十七人。
その一人ひとりを確認していく。
静かな部屋に、紙をめくる音だけが響いた。
一枚。
また一枚。
やがて机の上には、小さな紙片が並び始める。
消息不明。
死亡。
所在不明。
退官後行方知れず。
クラリスは、それぞれの名前を書き写しながら、無意識に同じ順番で並べ始めていた。
ローウェンが、その紙片へ目を向ける。
「……ずいぶん増えましたね。」
クラリスは答えない。
最後の一枚を書き終えた時。
その手が、ぴたりと止まった。
何かがおかしい。
だが、その違和感は、まだ言葉にならなかった。
◇
局長室には、紙をめくる音だけが静かに響いていた。
机の上には、いくつもの帳簿が開かれている。
第三プレアリア使節団名簿。
帰国後報告一覧。
人事異動記録。
退官者名簿。
クラリスは一つひとつの記録を照らし合わせながら、小さな紙片を並べ続けていた。
ローウェンもエリアスも、黙ってその様子を見守っている。
やがてクラリスは、一枚の紙片を別の場所へ移した。
「……違う。」
小さく呟く。
「何がですか。」
ローウェンが尋ねる。
クラリスは紙片を見つめたまま答えた。
「最初は、失踪した人を年代順に並べていました。」
「ですが、それでは何も見えてきません。」
そう言うと、今度は紙片を役職ごとではなく、第三使節団へ関わった順番に並べ始めた。
出発準備。
交渉。
帰路。
報告書作成。
帰国後の事後処理。
名簿と報告書を何度も見比べながら、慎重に位置を入れ替えていく。
しばらくして。
クラリスの手が止まった。
「……局長。」
その声には、先ほどまでとは違う緊張があった。
エリアスは静かに席を立ち、机のそばへ歩み寄る。
「見えてきましたか。」
クラリスはゆっくりと頷いた。
「失踪した人たちは、役職も、その後の所属もばらばらです。」
ローウェンも紙片へ視線を落とす。
護衛。
通訳。
書記官。
補給担当。
地方へ異動した者もいれば、王都へ残った者もいる。
規則性は見当たらない。
「ですが。」
クラリスは第三使節団名簿を開いた。
「全員が第三使節団そのものに関わっています。」
エリアスは静かに頷いた。
「それだけなら偶然とも考えられます。」
クラリスも頷く。
「ですから、別の使節団も調べました。」
机の脇には、新たに数冊の報告書が積まれていた。
第一プレアリア使節団。
第二プレアリア使節団。
第四プレアリア使節団。
第五プレアリア使節団。
クラリスは名簿を一冊ずつ開いていく。
「同じ名前がないか確認しました。」
第一使節団。
第二使節団。
第四使節団。
第五使節団。
どの名簿にも、一致する人物はいませんでした。
局長室が静まり返る。
ローウェンはゆっくりと息を吐いた。
「つまり……。」
クラリスは机いっぱいに広げられた資料を見つめながら、小さく頷く。
「消息を絶っている人たちは。」
「第三使節団だけです。」
その言葉が、静かな部屋へ落ちた。
誰も、すぐには口を開かなかった。
第一でもない。
第二でもない。
第四でもない。
十五年にわたる数多くの外交使節団の中で、関係者が姿を消しているのは第三使節団だけだった。
偶然。
そう片づけるには、あまりにも出来すぎている。
クラリスは紙片へ視線を落とした。
並べ替えた紙片は、ばらばらだった記録を静かに繋いでいた。
胸の奥で散らばっていた違和感もまた、一つの線になろうとしていた。
◇
局長室は、水を打ったような静けさに包まれていた。
机の上には、幾冊もの報告書と帳簿。
その中央には、クラリスが並べた紙片が整然と置かれている。
ローウェンは腕を組み、その一枚一枚へ視線を落としていた。
「……第三使節団だけ。」
誰に向けたともなく、その言葉が漏れる。
クラリスはゆっくりと頷いた。
「第一使節団にも。」
「第二使節団にも。」
「第四使節団にも。」
「同じ傾向は見つかりませんでした。」
「消息を絶っているのは、第三使節団の関係者だけです。」
エリアスは静かに机へ歩み寄ると、一枚の紙片を手に取った。
「護衛隊長、ガレス・ノイマン。」
続いて別の紙片を拾う。
「通訳官、セルジュ・イーデン。」
さらにもう一枚。
「書記官、リヒト・ヴォルツ。」
役職も。
身分も。
帰国後の所属も違う。
唯一の共通点は――。
「第三プレアリア使節団。」
エリアスが静かに呟く。
部屋に沈黙が落ちた。
クラリスは机いっぱいに広げられた資料を見渡した。
今朝までは、無関係に見えていた記録。
退官者名簿。
異動記録。
報告書。
名簿。
それらは今、一つの線で結ばれていた。
「局長。」
クラリスは静かに口を開く。
「今回の十人は、偶然、第三使節団に関係していたのではありません。」
エリアスは黙って続きを待つ。
クラリスは一度息を吸い、はっきりと言った。
「第三使節団の関係者だから、狙われたのです。」
誰も口を開かなかった。
ローウェンは紙片へ視線を落としたまま動かない。
エリアスも何も言わない。
局長室には、重い静寂だけが満ちていた。
やがてローウェンが、小さく息を吐く。
「……そう考えれば。」
「これまでの失踪にも説明がつきます。」
クラリスは紙片へ視線を落とした。
「十五年間。」
「第三使節団に関わった人たちだけが、一人、また一人と姿を消している。」
「そして今回。」
机の端に置かれた現在の和平使節団名簿へ手を伸ばす。
「残っていた関係者が、一度に消えました。」
ローウェンはゆっくりと顔を上げる。
「つまり。」
「今回の失踪事件は始まりではない。」
クラリスは静かに頷いた。
「十五年前から続いていた事件です。」
誰も言葉を継がなかった。
十五年。
その年月が、急に現実の重さを持ってクラリスの胸へ落ちてくる。
エリアスはしばらく資料を見つめていた。
やがて、静かにクラリスへ視線を向ける。
「クラリス。」
「はい。」
「あなたは今、この事件の見方を変えました。」
穏やかな声だった。
しかし、その言葉には、確かな重みがあった。
エリアスは第三使節団報告書へ手を置く。
「私たちが追うべきものは、この報告書そのものではありません。」
「この使節団が十五年前に、何を見て、何を残したのか。」
「そこに答えがあるはずです。」
クラリスは静かに頷く。
十五年前。
その言葉が、先ほどまでとは違う意味を持ち始めていた。
その時だった。
扉を叩く音が局長室へ響く。
「失礼します。」
若い職員が一礼し、一通の封書を差し出した。
「街道警備隊より、追加報告です。」
ローウェンが封を切る。
文面へ目を通した、その表情がわずかに変わる。
「……局長。」
エリアスは書状を受け取り、静かに目を細めた。
「失踪した使節団の馬車が見つかりました。」
クラリスは思わず身を乗り出す。
「どこで。」
「第一中継所から半日ほど先です。」
「馬車だけが街道脇に残されていました。」
「人は、一人もいません。」
局長室に重い沈黙が落ちる。
事件は、ついに書類の上だけではなく、現場へ姿を現した。
エリアスは二人を見渡した。
「明朝。」
「現地へ向かいます。」
クラリスは力強く頷いた。
机の上の報告書へ、もう一度視線を落とす。
十五年前の記録。
そして、これから向かう現場。
クラリスには、それが同じ答えへ続く一本の道に思えた。




