第43話 初めて教えられたもの
翌朝。
卓の上には、昨日と同じように二つの金属片が置かれていた。
片方には細い傷。もう片方は比較用。
ただし今日は、置かれた直後から誰も触れていない。
クラリスは記録用紙を見ながら、一つずつ条件を確認した。
二つの金属片は同じ場所に置き、十分な時間を空けてある。
確認する者も決めた。
触れる順番も決めている。
昨日のように、その場で思いついた方法を途中から加えることもしない。
「ずいぶん細かくなったな」
候補者が言った。
「昨日、細かくしなかったせいで判定できなかったので」
「俺のせいじゃないよな?」
「違います」
クラリスが答えると、男は安心したように笑った。
その横には、最初から金属へ熱を戻すことのできた男もいる。
だが今日は、彼からやり方を説明させる予定はなかった。
前回までの試験で分かったのは、他人の感覚を言葉通りに真似ても結果にはつながらないということだった。
クラリスは候補者を見る。
「昨日の最後に、何をしていたか覚えていますか?」
「はっきりとは」
男は卓上の金属片へ目を向けた。
「でも、あいつの鉄を考えるのはやめてた」
「はい」
「自分が普段やってることを考えてた」
「どんなことを?」
男は少し困った顔になる。
「また説明するのか?」
「できる範囲で」
しばらく考えてから、男は答えた。
「冷たい鉄を火に入れるだろ。それで、すぐには何も変わらない。でも、そのうち変わり始める」
昨日と似た言葉だった。
「色だけじゃなくて、近くにいる時の感じも変わる。まだだなとか、そろそろだなとか。毎日やってると分かるんだ」
クラリスは記録する。
「今日は、それを手掛かりにしてください」
「熱くなれって思わなくていいのか?」
「思いたければ止めません。ただ、他の人がどうしているかを真似する必要はありません」
男は頷き、卓の前へ立った。
クラリスはペンを構える。
昨日、初めて「変化なし」とは書かなかった。
けれど、あれだけでは何も確かめられていない。
今日知りたいのは、この男が自分自身のやり方で、もう一度同じ変化を起こせるかどうかだった。
◇
一回目。
候補者は傷のある金属片を見つめた。
誰も声を掛けない。
昨日までは、周囲から言葉を与えすぎていた。
今日は、男が何を考えているのかも外からは分からない。
時間だけが過ぎる。
やがて候補者が息を吐いた。
「どうだ?」
クラリスはすぐには触れなかった。
決めていた通り、少し待つ。
最初に比較用。
次に傷のある方。
もう一度、同じ順番。
「……差は感じません」
ローウェンも確認した。
結果は同じだった。
一回目。
変化なし。
候補者は残念そうな顔をしたが、クラリスは気にしなかった。
最初から、一度で起きるとは考えていない。
休憩を挟む。
二回目。
今度は、候補者が金属を見る前に少し目を閉じた。
「何を考えています?」
クラリスが尋ねる。
「仕事」
それだけだった。
やがて目を開き、金属片を見る。
「冷えてる」
小さく呟く。
「いつもの最初と同じだ」
その後は何も言わなかった。
クラリスも聞かない。
男の眉間にわずかに力が入り、やがて緩む。
「……今」
クラリスは顔を上げた。
「何かありました?」
「分からん。でも昨日と似てる」
「どんな感じです?」
「それが言えない」
候補者自身が苦笑する。
「触ってるわけじゃないのに、変わり始めたような……いや、自信ない」
クラリスはそれ以上聞かなかった。
決めた手順で確認する。
比較用。
傷のある金属片。
指先が止まった。
昨日とは違う。
分かる。
もう一度確認した。
温かい。
はっきりと、隣の金属片より。
「ローウェンさん」
ローウェンが近づく。
比較用。
傷のある方。
今度は迷わなかった。
「違います」
続いて立会人が確かめる。
一人目。
「こちらが温かいです」
二人目も、触れ比べてから頷いた。
「はい。分かります」
昨日は意見が分かれた。
今日は全員が同じ答えだった。
候補者が卓を見た。
「俺が?」
誰もすぐには答えなかった。
クラリスは記録用紙へ視線を落とす。
『第二試行』
その横へ、初めて書く。
『明確な温度差を複数名が確認。』
◇
「もう一回やらせてくれ」
候補者がすぐに言った。
クラリスは首を横に振る。
「今は駄目です」
「なんでだよ。できたんだろ?」
「だからです」
男が口を閉じる。
クラリスは二つの金属片を指した。
「今の熱が残ったままでは、次に何が起きたのか分からなくなります」
少し不満そうではあったが、男も納得した。
十分に時間を置く。
その間に、クラリスたちは記録を確認した。
候補者は、これまで同様の現象を起こしたことがない。
最初の試験では、現象を起こせる男の言葉を真似て五回試した。
すべて失敗。
翌日、本人自身の経験を手掛かりにする方法へ変えた。
四回目で、判定不能の温度差。
そして今日。
二回目で、全員が確認できる差が生じた。
「まだ一回です」
クラリスが言う。
ローウェンが頷く。
「もう一度、同じように起きるかですね」
候補者が横から聞いていた。
「今度できなかったら?」
クラリスは少し考えた。
「今日の一回が無かったことにはなりません」
「じゃあ成功?」
「一度、変化が確認されたという記録です」
男が顔をしかめる。
「堅いなあ」
「仕事なので」
「それ、便利な言葉だな」
最初に現象を起こせるようになった男が笑った。
「俺の時もこんな感じだったぞ」
「お前は最初からできただろ」
「毎回じゃない」
二人の会話を聞きながら、クラリスは金属片へ触れた。
温度差はなくなっている。
ローウェンと立会人にも確認してもらう。
二つとも同じ。
「では」
クラリスが候補者を見る。
「もう一度お願いします」
男が卓の前へ立った。
今度は誰にも質問しなかった。
誰からも説明を受けない。
傷のある金属片を見る。
自分が毎日見てきたもの。
自分が毎日判断してきたこと。
それを、自分自身のやり方で手掛かりにする。
クラリスには、何を考えているのか分からない。
それでよかった。
しばらくして、男が小さく息を吐いた。
「たぶん」
昨日と同じ言葉。
けれど今度は、声に少しだけ確信があった。
クラリスは決めた順番で確認した。
比較用。
傷のある方。
温かい。
ローウェンが続く。
「あります」
立会人も一人ずつ確認する。
結果は全員同じだった。
二度目。
再び。
明確な温度差が生じていた。
◇
部屋の空気が変わった。
大きな音がしたわけではない。
光も炎もない。
卓の上にあるのは、ほんの少し温かくなった金属片だけだった。
それでも、誰もすぐには喋らなかった。
候補者本人も、自分の手を見ている。
「……俺、昨日は何回やっても駄目だったよな」
「はい」
クラリスが答える。
「その前も」
「はい」
「今日、二回?」
「明確に確認できたのは二回です」
男が傷のある金属片を見る。
「何が変わった?」
それは、クラリスが一番知りたいことでもあった。
「分かりません」
答える。
「ただ、試し方は変えました」
現象を起こせる男の感覚を、そのまま真似することをやめた。
候補者自身が、長い間仕事の中で積み重ねてきた感覚を手掛かりにするようにした。
その後で、変化が起きた。
だからといって、それが唯一の条件だとは言えない。
同じ経験を持つ者なら全員できるとも言えない。
ほかに何が必要なのかも分からない。
けれど、一つだけ以前とは明確に違うことがあった。
「最初からできたわけじゃないんですよね」
ローウェンが言った。
候補者が見る。
「え?」
「あなたは、この試験を始めるまで一度も同じ現象を経験していなかった」
「そうだな」
「それが今は、意図して二回起こせた」
候補者が黙る。
クラリスも、その言葉を頭の中で確かめた。
偶然、何かが起きた人はこれまでにもいた。
その本人が、もう一度同じことを起こした例もある。
だが今回は違う。
何も起きたことのない人間を選んだ。
できる人の話を聞かせた。
失敗した。
本人自身の経験を調べ直し、試し方を変えた。
その結果として、同じ変化が二度確認された。
「これ」
候補者が言った。
「俺は、教わったってことになるのか?」
クラリスはすぐには答えなかった。
誰も完成した方法を知っていたわけではない。
決まった手順を渡したわけでもない。
それでも、一人ではできなかった人間が、他人から得たきっかけと自分が持っていた経験を使って、できるようになった。
「少なくとも」
クラリスは言った。
「何も知らないまま偶然できた、とは違います」
候補者はもう一度、温かい金属片を見た。
その表情から、さっきまでの戸惑いが少しだけ消えていた。
◇
夕方。
エリアスは今日の記録を最初から最後まで読み直した。
途中で質問はしなかった。
第一試行。
変化なし。
第二試行。
明確な温度差。
十分な時間を空け、二つの金属片が同じ状態へ戻ったことを確認。
再試行。
再び温度差を確認。
最後まで読み終えると、紙を机へ置いた。
「二回」
「はい」
クラリスが答える。
「同じ人が、意図して」
「はい」
「この人は、それ以前には一度も?」
「確認した範囲ではありません」
エリアスは少し黙った。
「では、これは『できる人を見つけた』のとは違うわね」
「はい」
山の町から、ずっと。
できてしまった人を探してきた。
なぜ起きたのかを調べ、もう一度できるかを試し、別の人でも起きるのかを比べた。
今回だけは順番が違う。
何も起きていない人間をこちらで選んだ。
できる者の経験を聞かせた。
失敗した。
候補者自身について調べ直した。
試し方を変えた。
そして、同じ結果を二度確認した。
「教えれば、誰でもできる」
エリアスが言う。
「それはまだ言えません」
クラリスはすぐに答えた。
エリアスの口元が僅かに緩む。
「そうでしょうね」
「一人だけです。同じやり方を別の人へ使っても、結果が出るとは限りません」
「でも、この一人については?」
クラリスは記録を見る。
昨日まで、何度試してもできなかった。
今日、明確に二度。
本人の意思で結果を起こした。
「この人については」
クラリスはゆっくり答えた。
「試行を重ねる中で、できるようになったと判断していいと思います」
エリアスが頷いた。
「つまり、習得した」
その言葉に、クラリスは一瞬だけ黙った。
「……はい」
今まで使っていなかった言葉だった。
発生。
再現。
試行。
確認。
それらとは違う。
習得。
エリアスは机の上の報告書へ視線を戻した。
「なら、次の問題が出てきたわね」
「次?」
「これを」
紙を指す。
「いつまで『説明困難な事象』と書くつもり?」
クラリスは答えなかった。
以前にも、同じ問いを聞いたことがある。
あの時は、まだ名前を付けるには早すぎた。
けれど今は。
一度きりではない。
繰り返せる。
人によって違う。
経験との関係が疑われる。
そして。
できなかった人間が、試行を通じて習得した。
執務室へ戻ったクラリスは、今日の記録の最後へ一文を書いた。
『未発生者が、聞き取りと試行を経て、意図した変化を二度再現。』
続けて、もう一行。
『本事例において、現象の習得を確認。』
クラリスはペンを置いた。
誰にでも教えられるとは、まだ書けない。
何が必要なのかも、完全には分からない。
それでも。
一人については。
できなかった人間が。
できるようになった。
紙の上に残った記録は。
もう、ただ不可解な出来事を書き留めたものではなかった。
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