第42話 知っている者
翌朝。
クラリスたちは、昨日と同じ候補者を前にしていた。
ただし、卓の上に金属片はない。今日は最初から試すのではなく、話を聞くところから始めることにしていた。
「また昨日と同じことをやるんじゃないのか?」
男が尋ねる。
「その前に、少し仕事について聞かせてください」
「仕事?」
「はい。普段、金属を扱う時に何を見ているのか知りたいんです」
男は怪訝そうな顔をした。
昨日までに聞いていたのは、仕事を何年続けてきたか、熱した金属を扱うか、どのようなものを扱っているかといった、外からでも整理しやすい事柄だった。
今日は違う。
クラリスは手帳を開いた。
「金属が十分に熱くなっているかどうかは、どうやって分かります?」
「どうやってって……見れば分かるだろ」
「何を見ます?」
男の口が止まった。
ローウェンが隣でわずかに笑う。
「答えにくそうですね」
「難しいよ。毎日やってることを、どうやって分かるって聞かれてもな」
クラリスは急かさずに待った。
しばらく考えてから、男はようやく口を開いた。
「色は見る」
「はい」
「でも、色だけじゃないな」
「ほかには?」
「近くにいれば熱は分かる。あと、同じような色に見えても、まだ足りない時もある」
「何が足りないんです?」
「それを言えってのが難しいんだよ」
男は困ったように頭を掻いた。
「いつも扱ってれば分かる、としか言えんな」
昨日、現象を起こせる男も似たようなことを言っていた。
仕事をしている時の鉄。毎日見ているから分かる。
言葉だけなら似ている。
けれど、同じものを指しているとは限らない。
クラリスは質問を変えた。
「昨日、最初の方が『仕事をしている時の鉄を思い出す』と言いましたよね」
「ああ」
「それを聞いた時、あなたは何を思い浮かべました?」
男は少し考えた。
「たぶん、あいつが言ってるような鉄を想像しようとしてた」
「あなたが普段見ているものではなく?」
「そうだな。あいつが何を考えてるのか分からんから、こんな感じかって」
クラリスのペンが止まった。
昨日、男は自分が知っているものを使おうとしていたのではない。
他人が知っているものを、言葉から想像していた。
同じことをしているつもりでも、その中身まで同じだったわけではない。
クラリスは手帳へ短く書いた。
『本人自身の経験ではなく、発生者の感覚を推測していた。』
昨日の五回には、まだ見ていなかった違いがあった。
◇
聞き取りはそのまま続いた。
「では、昨日の方のやり方はいったん置いておきましょう」
クラリスが言うと、男は首をかしげた。
「真似しなくていいってことか?」
「はい。今度は、あなたが普段知っていることを聞かせてください」
何をすれば現象が起きるのかを尋ねるのではない。
男が日常の仕事の中で、金属をどう見ているのか。
そこへ質問を向ける。
「仕事をしていて、これはまだ熱が足りないと思うことはあります?」
「ある」
「どうして分かります?」
「見れば――」
そこまで言って、男が自分で止まった。
「いや。色だけじゃないな」
「さっきもそう言っていましたね」
「ああ。同じような色でも違う時がある」
「その時は何を見ます?」
男は考えながら答えた。
近づいた時の熱さ。
そこからさらに熱を加えた時の変わり方。
冷え始めた時に見える違い。
うまく言葉にならないところでは、何度も口を閉じた。それでも、自分の仕事についてであれば、一つ思い出すたびに次の感覚が続いて出てくる。
クラリスは、そのたびに質問した。
「冷えていく時も分かりますか?」
「分かるよ」
今度の返事は早かった。
「急に冷たくなるわけじゃない。少しずつ変わっていくからな」
「何が変わるんです?」
「だから、それを言葉にするのが……」
男は苦笑した。
「見てれば分かるんだよ」
「見ていれば?」
「毎日な」
昨日までの答えと似ていた。
けれど、今度は誰かの感覚を説明しているのではない。
男自身が長い間見てきたものについて話している。
ローウェンが聞き取りの合間に言った。
「昨日より、ずいぶん話せますね」
男が顔を上げる。
「俺が?」
「ええ」
男は少し考えてから肩をすくめた。
「そりゃ、自分の仕事だからな」
クラリスはその言葉を聞きながら、手帳へ目を落とした。
昨日は、できる人間の中にあるものを、どうにか言葉にして候補者へ渡そうとしていた。
今日は逆だった。
候補者の中にすでにあるものを、一つずつ確認している。
何が正しいのかはまだ分からない。
だが少なくとも、昨日とは比べるものが違っていた。
◇
午後。
卓の上には、再び二つの金属片が置かれた。
傷のあるものと、比較用のもの。
昨日と同じ組み合わせだった。
現象を起こせる男も立ち会っているが、今日は最初に説明をさせなかった。
「俺は何もしなくていいのか?」
「最初はお願いします」
クラリスが答える。
「昨日までとは少し違うやり方を試したいので」
候補者が卓の前に立った。
「じゃあ、何をすればいい?」
「昨日聞いたことを真似しなくて構いません」
「熱い鉄を思い出さなくても?」
「少なくとも、あの方が思い浮かべている鉄を想像する必要はありません」
候補者は少し考える。
「じゃあ、俺が普段見てる方でいいのか」
「はい。金属が熱い時と冷たい時を、あなた自身がどう分かっているのか。まずはそこを手掛かりにしてみてください」
クラリスにも、それ以上のことは言えなかった。
何を考えれば起きるのか。
そもそも、本当にそれで何かが変わるのか。
まだ誰にも分からない。
一度目。
候補者は金属片を見つめた。
しばらく待った後、クラリスとローウェンが二つを確認する。
差はない。
二度目。
男は昨日より長く金属片を見ていた。
やがて、小さく首をひねる。
「なんか違うな」
「何がです?」
「仕事で見るやつとは」
クラリスは続きを待った。
「鉄そのものを思い出すんじゃないんだよな……」
横にいた男が口を開きかけたが、クラリスは視線で制した。
候補者は目を閉じる。
「俺が普段分かってるのは、こいつが今どういう状態かだ」
クラリスはその言葉だけを記録した。
三度目。
今度は誰も何も言わない。
男も「熱くなれ」と口にしなかった。
ただ目の前の金属を見ている。
時間が過ぎる。
やがて候補者が息を吐いた。
「……分からん」
クラリスは比較用の金属片へ触れた。
続いて、傷のある方。
同じ。
ローウェンも確かめ、首を横に振った。
三回。
結果だけを見れば、昨日と変わらない。
それでもクラリスは、記録用紙の余白へ一つ書き足した。
『候補者自身の経験を基準として試行。』
まだ。
結果につながったとは言えなかった。
◇
休憩を挟んだ後も、候補者は椅子に座ったまま二つの金属片を眺めていた。
「昨日より難しいな」
「昨日は?」
クラリスが尋ねる。
「言われた通りにやればよかったからな」
成功しなかったとはいえ、昨日は何をすればいいのかだけは明確だった。
熱い鉄を思い出す。
熱くなれと思う。
今日は違う。
自分が普段どのように金属の状態を見ているのか。
本人にとって当たり前だったものを、自分で手掛かりにしなければならない。
「無理に私たちへ説明しなくてもいいですよ」
クラリスが言った。
「説明できることと、自分で分かっていることは、同じじゃないかもしれないので」
男はクラリスを見たあと、もう一度立ち上がった。
「やってみる」
四回目。
候補者は傷のある金属片を見つめた。
最初は何も言わなかった。
かなり時間が経ってから、独り言のように口を開く。
「冷たいな」
誰も答えない。
「仕事なら、ここから熱くしていく」
金属片を見たまま続ける。
「最初は何も変わらない。でも、ずっと同じじゃないんだ」
クラリスは黙って聞いていた。
「少しずつ変わる。その変わり始めるところを……」
候補者の手が、金属片へ伸びかけた。
途中で止まる。
触れない。
「知ってるんだよな」
長い沈黙のあと、男が眉を寄せた。
「……ん?」
クラリスが顔を上げる。
「どうしました?」
「いや。何か……」
男は自分の右手を見た。
それ以上は言葉にならないようだった。
クラリスはすぐに卓へ近づいた。
まず比較用の金属片へ触れる。
次に、傷のある方。
一度では分からない。
もう一度、比較用へ。
そして傷のある方。
「ローウェンさん」
ローウェンも同じ順番で触れた。
しばらくして、わずかに眉が動く。
「こっちの方が……少し?」
「そう感じますよね」
立ち会っている者にも確認を頼んだ。
一人は首をかしげた。
「私には分かりません」
もう一人は何度か触れ比べてから答える。
「こちらの方が、わずかに温かいような気はします」
全員の判断は一致しなかった。
クラリスは候補者を見る。
「今と同じことを、もう一度――」
そこまで言って、やめた。
「いえ。今日はここまでにしましょう」
「なんでだ?」
「先に、今の結果を整理します」
温度差が本当にあったのか。
もともと二つに僅かな違いが残っていなかったか。
触れた順番で感覚が変わらなかったか。
確認する方法が十分だったか。
どれも分からない。
成功と呼べるものではなかった。
クラリスは記録用紙へ書いた。
『第四試行――微かな温度差の可能性あり。一部の立会人のみ確認。判定不能。』
その文字を見てから、ペンを置いた。
昨日から続いた失敗の中で。
初めて。
「変化なし」とは書かなかった。
◇
外交局へ戻ると、クラリスとローウェンは第四試行の記録を改めて確認した。
「成功とは書けませんね」
ローウェンが言う。
「はい」
二つの金属片にもともと僅かな差があった可能性がある。
触れた者全員が同じ判断をしたわけでもない。
何より、同じ条件でもう一度確認したわけではなかった。
ただ、これまでとの違いもあった。
昨日は五回とも変化なし。
今日も最初の三回は同じ。
候補者自身が普段の経験を手掛かりにし始めた四回目だけ、判定できないほど小さいとはいえ、違いを感じた者がいた。
「偶然かもしれません」
クラリスが言う。
「ええ」
「でも、無視する理由もない」
ローウェンは頷いた。
夕方。
結果を読んだエリアスも、「判定不能」と書かれた箇所で目を止めた。
「成功ではないのね」
「はい。そこまでは言えません」
「昨日とは違った?」
「記録上は」
クラリスは、今日変えたことを説明した。
現象を起こせる人間の感覚を真似させるのではなく、候補者本人が普段の仕事の中で何を見ているのかを聞いたこと。
そして試行でも、他人の「熱い鉄」を想像するのではなく、自分が知っている状態を手掛かりにしてもらったこと。
エリアスは紙を見ながら尋ねた。
「それで温かくなった、と考えている?」
「まだ結びつけません」
クラリスは答えた。
「一度だけですし、本当に温度差があったのかも確定できません」
「なら?」
「条件を整えて、もう一度試したいです」
次は最初から比較する。
金属片の状態を可能な限り揃える。
誰がどの順番で確認するのかも決める。
候補者にも、今日と同じように自分自身の経験を手掛かりにしてもらう。
それで再び何かが起きるか。
「分かったわ」
エリアスは記録を閉じた。
「もう一度確かめなさい」
「はい」
執務室へ戻ったクラリスは、今日の記録の最後へ一行を書いた。
『候補者自身の経験を手掛かりとした試行において、それまで確認されなかった変化の可能性あり。』
その下へ。
『再試行が必要。』
それだけにした。
原因も。
意味も。
まだ書けない。
成功とも書けない。
ただ。
昨日とまったく同じ結果ではなかった。
次にすることは決まっている。
もう一度。
同じものを確かめる。
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