第36.5話
バルク連合の山々では、日が落ちるのが早い。
空にはまだ明るさが残っていたが、石造りの建物が並ぶ通りには冷たい空気が降り始めていた。
男は工房の炉を確かめた。
今日の仕事は終わっている。
火は落とした。赤く光る炭も残っていない。
壁に掛けていた上着へ手を伸ばした時だった。
ぱちり。
背後で音がした。
男は振り返った。
炉の中は暗い。
「……?」
火掻き棒を取り、灰を崩す。
炭を動かす。
火種は見つからない。
聞き間違いか。
そう思って棒を戻そうとした時、顔に熱を感じた。
男の手が止まる。
炉へ近づいた。
熱い。
火はない。
煙もない。
それでも、昼間の仕事を終えた直後のような熱が炉から伝わってくる。
男は火掻き棒を差し込み、しばらくしてから引き抜いた。
先端へ慎重に触れる。
「熱っ」
指を離した。
棒は確かに熱を持っていた。
男は炉を見つめた。
何年も使ってきた。
火を入れれば熱くなる。
火を落とせば冷える。
それだけのものだった。
なのに今は、火がない。
「なんだ、これ……」
答える者はいない。
男はもう一度、炉の中を調べた。
何も見つからなかった。
しばらくすると、熱は消えた。
男は眉をひそめたまま上着を着た。
見えないところに火種が残っていた。
きっとそれだけだ。
明日もう一度調べればいい。
扉まで歩く。
だが、そこで足が止まった。
振り返る。
暗い炉がある。
男は戻った。
馬鹿なことをしていると思いながら、その前へ立つ。
昼間の炉を思い出した。
燃える火。
顔へ当たる熱気。
熱せられた金属。
毎日、何年も感じてきた熱。
もう一度。
熱くなれ。
何も起きない。
男は息を吐いた。
「そりゃそうだ」
その時。
頬に熱を感じた。
男の表情が消えた。
ゆっくり手を伸ばす。
熱い。
先ほどより弱い。
それでも。
確かに炉から熱が出ていた。
男は扉を開け、通りへ飛び出した。
「おい! 誰か来てくれ!」
近くを歩いていた男が振り返った。
「なんだ?」
「いいから!」
半ば引きずるように工房へ連れてくる。
「炉に手を出してみろ」
「は?」
「早く」
相手は怪訝そうな顔で手を近づけた。
すぐに眉をひそめる。
「まだ火を落としてないのか?」
「落とした」
「熱いぞ」
「だから呼んだ」
二人で炉の中を調べた。
火はなかった。
それでも熱は残っていた。
翌朝。
工房には五人が集まった。
昨夜の話を聞いた者たちだった。
「もう一回やってみろ」
そう言われて、男は炉の前に立った。
だが。
何も起きなかった。
何度試しても、炉は冷たい。
「やっぱり火が残ってただけじゃないのか」
誰かが言った。
昨夜一緒に炉を見た男が首を振る。
「火はなかった」
「じゃあ何で熱かったんだ」
誰も答えられない。
男は黙って炉を見つめていた。
昨夜と何が違う。
熱くなれと思った。
それだけではなかった気がする。
男は目を閉じた。
仕事をしている時の炉を思い出す。
火の色ではない。
熱だった。
顔を焼くような熱気。
金属を取り出した時、腕へ伝わる熱。
長い間、この場所で何度も感じてきたもの。
目を開ける。
炉を見る。
そこにあるはずの熱を思い出す。
しばらく何も起きなかった。
「もういいだろ」
誰かが言った。
その時。
昨夜の男が手を上げた。
「待て」
全員が黙る。
炉の前に立つ男の頬にも。
わずかな熱が届いていた。
一人が手を近づける。
「……熱い」
別の一人も確かめる。
誰も喋らなかった。
炉の中に火はない。
それでも。
確かに熱を持っている。
男自身にも、何をしたのか分からなかった。
見ていた者たちにも分からない。
呼び名もなかった。
ただ、その日のうちに。
火のない炉が熱を持ったという話は、工房の外へ出ていった。
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