第36話 まだ名前のないもの
王都アストレアへ戻ると、クラリスたちはそのまま外交局へ向かった。
久しぶりに見る建物は、出発した時と何も変わっていない。
磨かれた床。
書類を抱えて行き交う職員。
開いた窓から入る風に揺れる紙。
けれど、執務室へ足を踏み入れた瞬間、クラリスは以前とは違う空気を感じた。
机の上に積まれている書類が多い。
単に仕事が溜まっているのではない。
何人もの職員が、同じ種類らしい紙を見比べながら話していた。
ローウェンが近くの職員へ声を掛ける。
「戻りました」
「あ、ローウェンさん」
職員はほっとしたような顔をした。
「局長から、戻ったらすぐ来るように言われています」
クラリスとローウェンは顔を見合わせた。
「早いですね」
「報告書は先に届いていますからね」
山を下る途中で送った写しだ。
二人が王都へ着くより先に、ここへ届いていた。
局長室へ向かう途中、クラリスは何度も周囲へ目を向けた。
卓の上。
棚の前。
職員の手元。
どこにも「精霊」や「奇跡」といった大きな文字が掲げられているわけではない。
ただ、書類が増えている。
それだけだった。
けれど外交局にいた頃のクラリスには分かる。
書類が増えるというのは。
何かが、仕事になったということだった。
局長室の扉を叩く。
「入りなさい」
エリアス・ラウゼンの声が返ってきた。
中へ入ると、エリアスは机の向こうにいた。
その前には、何枚もの紙が広げられている。
クラリスたちが送った報告書も、その中にあった。
「お帰りなさい」
「ただいま戻りました」
二人が頭を下げる。
エリアスはクラリスへ視線を向けた。
「先に一つだけ聞きます」
「はい」
「これは、本当に起こったことなのね」
机の上。
報告書の中ほど。
石工による落下の遅延。
鍛冶職人による鉄の加熱。
クラリスは迷わず答えた。
「はい。私自身が確認しました」
「偶然ではなく?」
「偶然かどうかは分かりません」
エリアスの眉がわずかに動く。
クラリスは続けた。
「ただし、本人が起こそうとした後に、同じ種類の現象が複数回起きたことは確認しています」
しばらく沈黙があった。
エリアスは報告書へ目を戻した。
「分からない、が多い報告書ね」
クラリスは少しだけ身構える。
「申し訳ありません」
「褒めています」
顔を上げる。
「分からないものを、分かったことにしていない」
エリアスは紙を一枚めくった。
「今は、その方が助かるわ」
◇
机の上には、クラリスたちのものとは別の報告も並んでいた。
エリアスがその中から何枚かを抜き出す。
「あなたたちがいない間に、各地から集まり始めました」
クラリスは紙を受け取った。
最初に目へ入ったのは、発生した出来事の概要だった。
動いていたものが、不自然な形で止まったという報告。
熱に関するもの。
水の動きについてのもの。
ほかにも、これまでなら事故や見間違いとして処理されたかもしれない内容がいくつかある。
だが記録の精度は一定ではなかった。
目撃者が複数いるもの。
本人の話しかないもの。
伝聞だけのもの。
自然な原因をまだ除外できていないもの。
クラリスは順番に読んでいく。
「再現したかどうかが、書いてないものが多いですね」
「ええ」
エリアスが答えた。
「そもそも再現を試したかどうかも分からないものが多い」
ローウェンがクラリスたちの報告書へ視線を落とす。
「その点では、こちらの記録は少し先まで進んでいます」
石工。
鍛冶職人。
失敗。
場所を変えた試行。
戻した後の成功。
少なくとも、何を試し、何が起きたのかは残っている。
クラリスは別の紙を見る。
プレアリアから届いた照会の概要。
バルクから来たもの。
具体的な内容はまだ十分ではないが、どちらも自国内で説明の難しい事象について確認を続けている。
「これだけでは、全部が同じものだとは言えません」
クラリスが言う。
「そうね」
エリアスは即答した。
「だから困っているの」
彼女は三つの紙を並べた。
エストラド。
プレアリア。
バルク。
「違う出来事なら、それぞれ調べればいい。でも同じ原因から起きているなら、一国の記録だけを見ていても分からないことがある」
クラリスは、昨日まで手帳に書き続けていた言葉を思い出した。
一国だけでは、確かめられない。
「しかも」
エリアスが続ける。
「あなたたちが見たものが本当に人の意思と関係しているなら、話は事故の調査だけでは済まない」
クラリスは報告書へ視線を戻した。
そこに書いてあることは小さい。
石が少し遅く落ちた。
鉄が少し熱くなった。
それだけだ。
けれど。
できたことの大きさではない。
人が、起こそうとした。
そして起きた。
その違いが、王都へ戻った今になって。
急に大きく見え始めていた。
◇
「どこまでできると思います?」
エリアスの問いに、クラリスはすぐ答えられなかった。
「分かりません」
結局、いつもの言葉になる。
「石工が確認できたのは、落下をわずかに遅らせることだけです。鍛冶職人も、鉄へ熱を戻した程度です」
「では、それ以上はできない?」
「それも分かりません」
エリアスは椅子へ深く腰掛けた。
「そうなるわよね」
ローウェンが口を開く。
「現状では、何ができるのかも、それによって何が起こるのかも判断できません」
エリアスが頷く。
「そこが問題ね」
今確認されているのは、ごく小さな現象だけだ。
だが、それが限界だという根拠はない。
逆に、誰にでもできるという根拠もない。
一度できた者が、いつでも同じようにできるとも限らない。
分からないことばかりだった。
「だから、確認しないという選択はできません」
エリアスは机上の紙をそろえた。
「プレアリアもバルクも同じでしょう。自国で何かが起きているなら、知らないまま放置するとは思えない」
クラリスは頷いた。
ここまで来ると、山の町で石を落としていた時とは意味が違う。
あの時は。
何が起きるのか知りたかった。
今は。
何が起きるか分からないからこそ、知らなければならない。
「クラリス」
「はい」
「この現象が、人によって違うという見立ては?」
「可能性があります」
「経験との関係は?」
「それも可能性です」
「場所は?」
「関係している可能性があります」
エリアスが小さく息を吐いた。
「可能性ばかりね」
「すみません」
「だから褒めていると言ったでしょう」
クラリスは口を閉じた。
エリアスは少しだけ笑ったあと、表情を戻す。
「でも、その可能性を確認するためには事例が必要です」
一人。
一か所。
一つの国。
それだけでは足りない。
クラリスはようやく、自分が手帳へ書いた一文の重さを理解した。
三国間で、確認済みの事実を比較できる形で共有する必要あり。
あれはもう。
単なる調査方法の話ではなかった。
外交の話になっていた。
◇
「ところで」
エリアスが一枚の紙を持ち上げた。
「これを何と呼ぶの?」
クラリスは目を瞬いた。
「何と、とは?」
「ずっと『説明困難な事象』『当該事象』『一連の現象』では、文書を書く方も読む方も面倒でしょう」
「それは……」
考えてみる。
山の町では、精霊の御業と呼ぶ人がいた。
だがクラリス自身は、その言葉を事実として報告書には使わなかった。
精霊が起こしたと確認できていないからだ。
別の土地では、まったく違う呼び方をされているかもしれない。
昔話のような呼び名を付けることもできる。
けれど、どれを選んでも。
名前の方が先に意味を持ってしまう気がした。
「まだ、付けない方がいいと思います」
クラリスが言った。
エリアスが眉を上げる。
「不便よ?」
「はい。でも」
クラリスは卓上の報告を見た。
「何なのか分からないのに名前を付けたら、その名前に引っ張られませんか」
精霊と呼べば、精霊が原因だと思う。
奇跡と呼べば、説明できないものだと思う。
何か別の言葉を作れば、その言葉に合わせて事例を選び始めるかもしれない。
ローウェンが言う。
「少なくとも、今は観察した内容で区別した方がよさそうですね」
「面倒ね」
エリアスはまた同じことを言った。
だが今回は、少し笑っていた。
「では当分、名前は後回しにしましょう」
クラリスはほっとしたような、不思議な気持ちになった。
山の町で初めて見た時にも。
今、三国が動き始めた後にも。
それはまだ、何なのか分からない。
なのに。
確かに存在する。
机の上には、いくつもの報告書がある。
人が見た。
人が触れた。
人が起こそうとして。
起こった例まである。
名前がなくても。
もう、なかったことにはできなかった。
◇
話が終わりかけたところで、エリアスが新しい紙を取り出した。
「もう一つ」
クラリスは姿勢を正す。
「プレアリアとバルクへ、こちらからも情報の共有を求めます」
ローウェンが静かに聞く。
「照会ではなく?」
「一方的に質問を投げ合うだけでは時間がかかります」
エリアスは紙へ指を置いた。
「何が起きたのか。誰が確認したのか。意図して起こしたのか。再現できたのか。場所による差があったのか。最低限、同じ項目で比べられるようにしたい」
クラリスは思わずローウェンを見る。
自分が昨夜、手帳へ書いた内容とほとんど同じだった。
「あなたたちの報告書を参考にします」
エリアスが言った。
「現場で実際に確認している人間の意見も必要です」
嫌な予感がした。
「……私たちですか?」
「ほかに誰がいるの?」
クラリスは答えられなかった。
ローウェンが横でわずかに笑っている。
「ローウェンもですよ」
「もちろん」
笑みが消えた。
クラリスは少しだけ気が楽になる。
エリアスは机上の報告書と、その脇に置かれた第三使節団関係の記録へ視線を移した。
「それから、十五年前との関係についても、今の段階では決めつけないこと」
「はい」
「同じものだったと考えるには材料が足りない。無関係だと言い切る材料もない」
クラリスは静かに頷いた。
それでよかった。
答えを決めない。
十五年前と現在を、無理につながない。
ただ。
比べる。
確認する。
必要なら、また問いを増やす。
エリアスは書類をまとめた。
「今日は休みなさい。明日から忙しくなるわ」
「承知しました」
局長室を出る。
廊下には、以前と変わらない外交局の音が流れていた。
ペンが紙を擦る。
人が歩く。
遠くで誰かが書類を呼ぶ。
クラリスは立ち止まり、鞄の中の手帳へ手を触れた。
父を追うために王都を出た。
十五年前の道を進んだ。
その先で見つけたのは。
父の答えではなかった。
今、この世界で起き始めている。
まだ名前さえないものだった。
「クラリス」
先を歩いていたローウェンが振り返る。
「行きますよ」
「はい」
クラリスは歩き出した。
十五年前にも。
エストラド、プレアリア、バルクの三国は、一度同じ場所へ集まった。
そして一つの隊列となって、西へ向かった。
その人々は。
戻らなかった。
今度は。
三国が何を持ち寄ることになるのか。
それは、まだ誰にも分からなかった。
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